第23話 大切に思う気持ちと同情と


 ミコトとマビとタロジは、石段の一番上のところに腰を掛けていた。


 おじいちゃんと伯父さんの屋台で買ったリンゴ飴を三人とも手に取り、時折、口に含みながら、ぼんやりと会話を続けている。口の中に甘ったるい水飴の味が広がった。


「本当にキラキラしてて綺麗だね」


「綺麗なの。あの小さな光一つ一つが光の妖精なの。あの子たちは人間たちに『綺麗』って思って欲しいから、人間たちに姿を現してるんだと思うの」


「まったく、人間に見て欲しいなんてオイラからしたら考えられないよ。人間に存在がバレたら見世物小屋に連れて行かれて永遠に搾取されちゃうんだから」


 強い言葉な割に毒を感じない。タロジが人間に好意的になっているのなら嬉しいと思う。


 見下ろした先の提灯の光が赤くぼやけ、神秘的に見える。ここに神様を本当に祀っていると言われたら、信じてしまいそうだ。


 ふと、ミコトが後ろを振り返った。振り返ったことに理由はない。


 理由はないけど、お祭りだというのに着飾られていない寂れた哀れな本殿にも目を向けてやらないといけない気がしたのだ。


 本殿横の灯籠のそばで、ゆらゆら、ゆらゆらと、白い影が揺れている。


 目を凝らさずともわかった。ヨウコだ。


 彼女は、以前会った時と同じ白いワンピースを着ている。


 ミコトは思わず、腰を浮かす。


 彼女の周りには星の瞬きのようにチラチラと光が舞っている。夢幻的だった。自然の月明かりに照らされ、彼女自体が光輝く星のように思えた。


 ミコトからそれなりに距離があるはずなのに、ヨウコが艶かしく微笑んでいるのがわかる。なぜだか、わかる。


 瞳で「こっちに来て」と訴えている。


「行かなくちゃ……」


 ミコトは浮いた腰をそのまま持ち上げ、立ちあがろうとした時、


「ミコト、行っちゃダメなの。彼女はヨウコなの。行っちゃ、ダメなの」


 と、マビにミコトの甚平の裾を引っ張られ、ヨウコの元へ行くのを阻止されてしまった。苛立ちが頭の中にいっぱいになる。


 どうして止めるの?どうして邪魔するの?


 ……あぁ、マビはヨウコちゃんと会ったことがないから、警戒しているんだ。


 でも、ヨウコちゃんは大丈夫。だって、俺の大切で大好きな…………。


 そこまで考えてよくわからなくなる。


 大切で大好きな、なんだっけ?


 頭の奥がぼんやりする。心なしか、視界も音もぼんやりしている気がする。


 まぁ、そんなことどうでもいい。マビにヨウコちゃんは警戒しなくていい女の子だってことを伝えないと。わかってもらわないと。


「うん、そうだ。ヨウコちゃんだ。彼女はいい子なんだよ。だから、行かなくちゃいけないんだ」


 ミコトはヨロヨロと立ちあがろうとした時、突然、膝カックンされた時のように、足からがくりと力が抜ける。


 ミコトは両手を石畳についた。


「はぁ……。ミコトくん、なんでヨウコなんかに惑わされてるの……。情けないなぁ……。いい?彼女は『あやかしのキツネ』って書いて、妖狐。妖怪だよ。ボクがいなかったら、キミは妖狐に正気を吸われていたんだよ?……ほら、目を覚まして!」


 どこからともなく現れた青白いうさぎがふわふわした指をパチンと鳴らした。


 視界が、音が、匂いが、はっきりと彩りを持ち始める。


 一体自分の体になにがあったのだろうか。理解が追いつかない。


 ミコトはミコト自身の体に触れ、体に異常がないかを確認する。


「あー……妖狐逃げちゃったね。ま、そんなことはどうでもいいんだ。ミコトくん、山彦と河童の子供を連れてきてくれてありがとう。たった二人っていうのが期待外れだったけど、囮にすれば数十人は捕まえられるかな……」


「おい、ミコト……、どういうことだよ……。オイラたちを、騙してたのか?」


 河童の絶望に満ちた声で、遠くに漂っていた意識が、今、この現実に連れ戻される。


 身体中の血管がドクンドクンと脈打つ。心臓が凍りつく。


「二人とも!逃げて!」


 ミコトは咄嗟に叫んだ。うさぎはいやらしく口元を歪めた。うさぎの体は、沸騰した水のようにぼこぼこと膨張し始める。


 このままじゃ、まずい。


 緑色の葉がひらりと床に転がる。


「もう、妖狐からも助けてあげたのに大切な囮を逃すなんて、ひどいなぁ」


「マビ、タロジ、早く逃げて!ここじゃないところに今すぐいくんだ!地獄に連れ戻されちゃうよ!」


「で、でもそれじゃあミコトが……」


 マビが震えている。うさぎはヒュルヒュルと収縮と膨張を繰り返しながら、大きく大きくなっていく。


 このままでは、二人が捕まってしまう。


 ミコトは立ち上がり、両手を広げ、二人を庇うようにうさぎの前に立ちはだかった。


「俺は平気だから!ほら!うさぎが完全に大きくなる前に!早く!」


 マビはミコトの瞳を見つめ、大きく頷いた。マビがタロジの手を引き、石段を駆け降りる。その間、タロジは俯き、一度も視線を合わせてはくれなかった。でも、その事実に胸を痛めてる場合ではない。なんとか二人が逃げるための時間を稼がなければ。


「はぁ、残念だよ。ミコトくんはわかってくれるって思ってたのになぁ……」


 変形し続ける歪なうさぎが肩らしきものをすくめた。


「期待に応えられなくて、ごめん……。これでも、俺なりにたくさん考えたんだ。まだ答えは出てないけど。でも、今日のお祭りの様子を見ていたら、もしかしたら、共存ができるかもしれないって思っちゃったんだよ。今までがダメでも、今回はうまくいくかもしれないでしょ」


「そんな悠長なことは言ってられないんだよ。言ったよね?妖怪がクーデターを起こそうとしてるって。日本が奪われるかもしれないって。ミコトくんは頭がいい子だと思っていたけれど、忘れちゃったのかな?」


 うさぎは喋りながら変形を続ける。あと少しであの時見た完全体になりそうだ。


 うさぎが、怖い。怖くて、怖くて、鳥肌が止まらない。ずっと肌が粟立ち、気持ち悪い。底知れぬ恐怖が体の内側から湧き出てくる。これが神様を前にした人間の反応で、この感情を畏怖の念というものなのかも知れない。


 ミコトは声を振り絞る。


「……奪われるのは嫌だよ。日本を守りたい。大切な人だって、守りたい。……だけど、その大切な人にはマビたちだって入るんだ。だから、守るために逃した」


「大切な……って。ミコトくんは、たった一日二日しか一緒にいない妖怪を大切って思うんだね。それほど、ミコトくんの言う『大切』っていうのは薄っぺらいんだ。……あのね、ミコトくん、キミの今の持ってる感情は『同情』だ。日本を追いやられた妖怪可哀想、人間に迫害された妖怪可哀想、っていう安っぽい同情だよ。キミは、妖怪が大切だから守りたいんじゃない。妖怪が可哀想だから守りたいんでしょ?妖怪を守ったら今度は、ミコトくんたち人間が『可哀想』側に回るのに」


「そんなこと、ない。俺は本当にマビとタロジが大切で……」


「……ねぇ、ミコトくん。同情っていうのは強者がするものだって、知ってる?自分より下だと思ってる存在にするものなんだ。つまり、ミコトくんはあの二人を無意識に下に見てるってこと。日本といういいところに住んでいる自分が地獄から逃げ出してきた可哀想な二人に同情して守ってあげてる、そんな美談に酔いしれてるだけなんじゃないの?……ま、でも仕方ないね。ミコトくんは、日本よりも昨日今日出会った見下してる妖怪の方が『大切』だって思い込んでるんだから。まだ小学生とはいえ、ホント、ミコトくんは愚かだよ」


 うさぎの言葉に身がすくむ。涙が出そうになる。


 うさぎの言っていることが全て正論のように聞こえるのだ。


 二人のことは大切だと思っている。友達だとも思っている。


 でも、それが同情じゃないとどうして言える?


 マビの話を聞いた時、可哀想だと思った。タロジの話を聞いた時も哀れだと思った。でも、それは、うさぎの言うようにミコトが安泰な場所にいるからこそできることなのかもしれない。


 さっきも、咄嗟に逃げろと言って庇ったけれど、それは熱い鍋を触った時に「熱い!」と反応してしまう反射と同じで、うさぎという危険物質を見て、体が勝手に反応してしまっただけかもしれない。


 あぁ、悔しい。悔しい悔しい悔しい。


 うさぎの言葉を真正面から否定できないのが悔い。自分の持っている感情がわからないのが悔しい。自分の能力が低くて何もいい案が浮かばないのが悔しい。臆病にも喉がつかえて声を出すことができないのが悔しい。何も守れないことが悔しい。


 ……悔しい。……悔しい。……悔しい。


 ミコトはたくさんの悔しさを唾と一緒に無理やり飲み込んだ。目頭が熱い。油断したら涙が溢れてしまいそうだ。


 ミコトはどくどくと刻む鼓動を落ち着けるため、胸を三度叩く。


「一日、二日だって、大切になることは、あるよ。だって、大切なのは、長さじゃなくて、共に過ごした時間なんだから」


 どこかで見た受け売りを口にする。自分の言葉じゃないから、空っぽだ。


 声が震える。


 自分が何を言っているのか、うさぎの言葉に反論できているのかすらも、わからない。


 頭の中がぐちゃぐちゃで、整理がつかない。


 逃げたくないのに、うさぎの言葉を受け止めたいのに、逃げ腰になってしまう。


「……反論はもう終わり?はぁ……。キミには失望したよ。最初から、キミに頼まなきゃよかったね。全ての妖怪が見える人間は貴重だし、なるべく穏便にコトを進めたかったから、キミに協力を仰いだんだけど、とんだ見当違いだった。最初から神々だけで捕らえていくべきだったんだ。ミコトくんに使った時間がもったいないだけだったね……。さてと、ボクはお祭りに集まった妖怪たちを一匹残らず捕まえないといけない。もちろん、キミが逃した二匹の妖怪もね。それじゃ、くれぐれもボクの邪魔はしないように」


「ちょ、ちょっと待ってよ……!」


 うさぎはミコトの言葉など無視して、完全体になった巨体を引きずるように石段を降りていく。


 境内は一瞬にして、阿鼻叫喚の渦に飲み込まれた。妖怪たちの叫び声が耳につんざく。


 うさぎが大きい右手を振るうと、妖怪たちの体がウサギの右手にくっついた。右手がまるで粘着シートになっているみたいだった。


 今、この場所は異様だ。


 逃げ惑う妖怪に対して、人間たちは平然と笑顔でお祭りを楽しんでいる。


 キラキラと提灯に集まっていた光の妖精たちも一斉に散っていく。朱と黒が入り混じる空へ飛んでいく姿が不気味なほど美しい。


 妖怪たちは「逃げろ!」と泣き叫び、人間は光を見て喜んでいる。


 ミコトは身震いした。


 その光景は人間と妖怪の歴史を凝縮しているようだった。


 安穏にいる人間と、脅威に晒されている妖怪。


 その対照的な光景に泣きそうになる。


「ミコト、くん?」


 不意に、肩を叩かれた。鈴の音のように澄んだ声だった。その声の持ち主を、ミコトは知っている。


「ヨウコちゃん……」


 振り向くと、苦しそうに歪める顔があった。白い肌から血の気が失せ、唇もほのかに白っぽく乾いている。正気がないように見える。


「だいじょう、ぶ?」


「うん。大丈夫。ごめん、心配かけて……」


 ヨウコは首を横に振る。


「ヨウコちゃんって、妖怪だったんだね……」


「うん。……ねぇ、ミコトくん、わたしが妖怪ってわかっても、怖くない……?」


「怖くないよ。……怖いのはうさぎがこんなに暴れてるのに何もできない自分自身の弱さだ」


 後ろから悲鳴が聞こえる。祭囃子が聞こえる。泣き声が聞こえる。呼び込みの声と笑い声が聞こえる。


 耳を塞ぎたかった。


 見ないふりをしたかった。


 妖怪なんて見えなければよかったのに。


 ミコトは天を見上げた。星が瞬き始めている。こんなに悲惨なことが目の前に起こっているのに、田舎の星々は美しく輝いている。涙で視界が滲む。


「ミコトくんは、どうしたい?」


「どうって?俺には、もう、何もできないよ」


「どうしたいの?」


 抑揚のない淡々とした声音だった。ミコトを慰めるわけでも、責めるわけでもない、ただミコトの意見を聞いているだけ。


「俺は……」


 ミコトは右手の裾で涙を拭い、ヨウコを見つめた。


「……俺は、人間と妖怪が仲良く一緒に日本で生活ができたらいいって思う。だけど、それが難しいってこともわかってる。うさぎの言っていることが正論だって認めざるを得ないから。……それでも、マビとタロジと一緒に生活できたら幸せだって思っちゃうんだ。今捕えられている妖怪たちがかわいそうだって思っちゃうんだ……。ヨウコちゃんとも、もっと会いたいって思っちゃうんだ……。だから、俺は、人間と妖怪が一緒に住める世界にしたい。キミたち妖怪と、生きたい」


 沈黙が二人の間を覆う。ヨウコは目を逸らさず、じっとミコトの目の中を覗き込んでいる。よく見るとくすんだ黄色の瞳をしている。今までどうして気づかなかったのだろう。


「そっか……。もしかしたら、お狐様なら……、妙案が思いつくかもしれない……」


「お狐様?」


「そう。ミコトくんは、友達。また来るって、約束も、守ってくれた。だから、お狐様のところまで連れて行ってあげる」


 ヨウコはその場で小さく飛び跳ねた。


 ヨウコの姿が朧になる。朧になって、蜃気楼のようにゆらゆらと揺れた。


 ヨウコの姿が変化しているのだ。


 ぼんやりとした姿のままで、狐の尾っぽが三本、耳に狐の耳が生え、口と鼻先が獣のようになる。体が銀色の体毛で覆われたところで、姿がはっきりと見えだす。


 半分人間で、半分狐。その姿は、マビやうさぎが言ったように『妖狐』であった。


「驚いた……?こうしないと、早く走れないの。……じゃあ、行こう?」


 ヨウコが闇夜に白く光る左手をミコトに差し出す。


「あっ……」


 なぜだか胸の奥が疼く。喉が渇く。呼吸が荒くなる。体内が震えるような感じがして止まらない。手足ががくつき、思うように体を動かせない。


「……ごめんね、ミコトくん……。わたし、妖狐は、異性を惑わすんだって……。まだ、力を制御、できなくて、ミコトくんを苦しめちゃうかもしれない……」


 この声が愛おしい。ソワソワして、彼女を捕えたくなる。この娘を自分だけのものにしたくなる。誰にも触れさせたくない。


 心臓が激しく脈打ち、重苦しい。


 口の中に涎が溜まる。


「ちょっとだけ、我慢してね」


 ヨウコに左手を奪われた。その瞬間、体の中に電流の波が流れた。体中が火照り、頭がのぼせる。頭がどうにかなってしまいそうだ。


「走るよ」


 ヨウコが井戸のある竹林の方へ、大きく一歩を踏み出す。


 体がふわりと宙へ浮く感覚がした。

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