第18話 夕食の時間

 

 居間に着くと醤油の香ばしい匂いがミコトの鼻をくすぐる。ミコト以外の家族は全員席に座っていた。


 座卓の上には様々な魚料理が並び、食欲をそそる。塩焼きもあれば、佃煮や酢の物、天ぷらなどの手の込んだ料理まであった。どれも美味しそうに見える。


 ミコトは流しでタロジの甲羅に水を注ぎ、そのあと自分の手を洗い、自分の席に着く。やっぱり奈緒の隣だ。


 事前にマビとタロジには座卓の下に潜っているよう指示済みだった。タロジがたくさんの人間で恐縮しないか不安だったが、それは杞憂だった。二人は狭そうにしながらも、座卓の中で頭を寄せ合い、「次のレースではあのパーツ試してみようぜ」「試してみるの!次はバイクでも走りたいの!」などと楽しそうに話している。


 ほっと胸を撫で下ろす。


「さ、みんな揃ったことだし、いただこうか。今日のご馳走はミコトが釣った魚たちだ。今日のMVPはミコトだな。さっ、みんな、自分の飲み物を手に取って……。ミコトの釣りの成果に、カンパーイ!」


 おじいちゃんが上座から家族全員を見渡し、ご機嫌に音頭を取る。


 グラスに入ったオレンジジュースを一気に口に含む。グラスの中で氷がぶつかり、音を立てた。


 皆が口々に調子良くミコトを褒める。褒められるのは悪い気分じゃない。自分の手柄でなかったとしても、ついつい口元が緩む。


「おい、なにニヤニヤしてんだよ。たくさん釣れたのはオイラたちのおかげなんだからな。ほら、早く魚料理をよこせ」


「ボクも食べたいの!」


 ミコトは川魚の塩焼きを口に運ぶ。少し泥臭い。ミコトは魚があまり好きではなかった。生臭かったり、泥臭かったり、美味しいと思えないのだ。だから、魚には興味がなかった。これがなんの魚なのかさえわからない。


 座卓の下で、マビとタロジが今か今かと魚を待ちのぞみ、こちらを見上げている。


 ミコトは一通りの魚料理を小皿に盛ると、誰もこちらを見ていないタイミングで、皿を座卓の下へと滑らせる。


 二人の妖怪たちは色めき立った。


「すげぇ。オイラこんな魚料理見たことない」


「見たことないの!美味しそうなの!」


 弾んだ声は止まらなかった。小皿の上の料理を食べるたびに、二人は感嘆の声を上げる。


「人間ってすごいな……。ゲームもそうだけど、こんな美味しい料理を作っちゃうなんて……」


「人間ってすごいの。タロジ、少しは人間、見直したの?」


「まぁな。でも、オイラが見えたら攻撃してくるかもしれないし、出来上がった品がすごいってだけだ」


 そんなことを話しながら、二人とも食べる手は止めず、口一杯に魚料理を頬張る。


 あまりにも二人が幸せそうに食べるものだから、そんなに美味しいものなのかと、ミコトは煮物を口にしてみた。


 口に含んだあと、ミコトは眉間に皺を寄せ、舌を出す。口直しにオレンジジュース一気に飲み干すも、口の中に泥臭さが残り、気持ち悪い。やっぱり魚は美味しくない。


「ミコト、そんな顔しないの」


 目の前の席に座っているお母さんが不満げに眉をひそめる。


「だって……」


「ミコト、魚料理嫌いなのに、こんなにたくさん釣っちゃうんだもんね。皮肉なもんだ」


「奈緒ねぇ、うるさい」


「でもさっき、たくさんの料理取り分けてたよね?アレ全部たべちゃったの?」


「あ、あぁ。うん、まぁね。やっぱり自分で釣ったからには、好きじゃなくても食べてやらないと」


「いい心がけね。それなら、東京に帰ってからも、ミコトに釣りに行ってもらおうかしら?そしたら、お魚食べるんだもんね?」


 墓穴を掘った。最悪だ。


 お母さんは不敵な笑みを浮かべている。この調子だと、東京に帰ったら本当に釣りに行かされるかもしれない。本当に、最悪だ。


 ミコトの気持ちなんていざ知らず、二人の妖怪は皿の上の魚料理をすべて平らげ、ミコトの膝の上に皿を置き、次の料理を催促している。ミコトはその皿を取り、渋々、魚料理を適当に盛り付ける。


「あら、あんな顔して食べてたのに、まだお魚料理食べるのね。これはやっぱり、東京でも釣りに行くべきね」


「ぜっっったい、嫌だから!」


「えー、ミコト、才能があるのにもったいないー!叔母さん、今度私が東京に遊びに行った時、ぜひミコトと釣りやらせてください」


「ええ、もちろん。でも、こっちみたいに綺麗な川があるわけじゃないから、釣り堀での釣りになっちゃうかもしれないけど、平気?」


「それは大丈夫です!私、川以外で釣りしたことないので、釣り堀っていうのも経験してみたいですし!」


「そう?ならよかった。ぜひ、東京に遊びにきてね。いつでも歓迎するから」


「ありがとうございます」


「それにしても、奈緒ちゃん、いつもミコトの面倒見てくれてありがとうね。奈緒ちゃんも知っての通り、ミコトは出不精でね……。東京だといつも自分の部屋に閉じこもってゲームばかりやってるのよ。友達と遊ぶ時も、ずっとゲームやってるみたいで。去年、帰省したときも、あまり出歩きたそうにしてなかったでしょ?でも、奈緒ちゃんが色々気にかけてくれるおかげで、こうやってミコトが外に出てくれてるんだと思う。本当にありがとう」


「そんなそんな!私は全然なにもしてないですよ!むしろ、ミコトに迷惑がられてる感じなんです……。今日もミコトにしつこいって怒られちゃったくらいだし……。ね?」


「え、いや、別に俺は……」


 眉尻を下げ、気まずそうに微笑みかけてくる奈緒を見て、口籠もる。


 好き勝手俺の話をするな、とか、家にいるより外に出るほうが偉いみたいに言うな、とか、反論してやりたかったけど、そんな気持ちは奈緒の顔をみて萎んでしまった。


 まともに目が合わせられない。


 川釣りで奈緒にしてしまったひどく怒鳴り、そのことについて謝罪すらしてないことに気がついてしまった。


 奈緒は普段通りに振る舞っているけれど、もしかしたら、ミコトに言われたことを気にしているのかもしれない。必要以上に傷つけてしまったのかもしれない。


「あ、あのさ……。川でのこと、ごめん……。ちょっと、色々あってピリピリしてたというか……。本当はあそこまで怒鳴るつもりはなかったというか……」


 下を向きながら、ぼそぼそとしゃべる。謝らないで済むなら、謝りたくなかった。


 悪いとは思っている。思っているけど、気心の知れた人間に謝るのって、なんだか照れくさくて、むずがゆい。


 改まって謝罪したときの空気感に耐えられないのだ。相手がこの謝罪をどう思うかとか、素直に謝っている自分は自分らしくないとか、自分の非を認めるのが悔しいとか、相手が近しい人間であればあるほど、そういった感情が胸の奥で静かに絡まり合う。


 だけど、自分が相手に悪いことをしたと思っているなら、誠心誠意、しっかりと謝らないければいけないとも思う。


 それでも、やっぱり気恥ずかしくて、消え入るような声になってしまった。お母さんにも聞かれたくなかった。


 お父さんやおじいちゃん、伯母さんの笑い声が座卓の上を飛び交い、ミコトの小さな声をかき消す。


「気にしてないから、いいの。ミコトも思春期だしね。それに、私もちょっとしつこくしすぎたかなって反省したし」


 奈緒は気まずさを隠すようにおどけて笑いながら、ミコトの頭を撫でる。


「しつこかったって反省してるのに、なんで頭撫でるのさ」


「だって、拗ねてる子供みたいでミコト可愛いんだもん」


「なにそれ。謝って損した」


「本当、二人は仲良いわね。本当に大分に奈緒ちゃんがいてくれてよかったわ。これからもよろしくね」


 空気が、明るく、軽くなっていく。


 いつも通りの関係になる。


 奈緒が空気を変えてくれたのだ。わざとおどけてみせたのだろう。奈緒はお調子者だけれど、たまにこうして空気を変えてくれることがある。その気遣いがありがたかった。


 ミコトにはできないことだ。


「そういえば、明日ってお祭りなんだよね?奈緒ちゃん、例年通り、ミコトとお祭り行ってくれるかしら?」


「あ、いや、それが……」


 歯切れが悪い。「お姉さんにお任せください」くらい言いそうなのに、おかしい。


「なに?奈緒ったら、ミコトくん連れて行ってあげないの?」


 酔っ払って声も気分も大きくなった伯母さんが口を挟む。


「実はさ、神社で美波に会ったとき、一緒にお祭りまわりたいねーって話になって、オッケーしちゃったんだよね。あ、もちろん、ミコトも一緒にってことは言ってあるよ!……だけど、美波がクラスの仲良い女子にも声かけちゃったみたいで、女子六人で回ろうってことになっちゃって……」


「それで何?奈緒はミコトくん置いてクラスの子達とお祭り行くことにしちゃったわけ?」


「そんなことないよ!一応、友達はミコトがいることは了承してる……、けど、考えてみたら、ミコトは女の子六人と一緒にまわるの嫌がるかなって……思って……」


 声が尻すぼみになり、奈緒は遠慮がちにミコトの顔色を伺う。


 ミコトはわざとらしく溜息を吐いた。


「嫌に決まってるじゃん。いいよ、俺一人で行くから」


 ミコトは机の下にいるマビとタロジを盗み見る。盛り付けたお皿を二人に渡すタイミングを完全に見失ってしまった。


 タロジは「早く料理をよこせ」とミコトの膝を軽く叩きながら訴え、そんなタロジをマビがいなしている。


 この二人とお祭りに行くためにも一人の方が都合がいいかもしれない。他の人がいたら、今のように会話することも、一緒にご飯を食べることもできない。それはあまりに不便でつまらない。

「それは、ダメよ!ミコトくんは小学生なんだから、誰かと回らなくちゃ危ないでしょ?」


「でも、奈緒ねぇだけじゃなくて、お母さんもお父さんも、おじいちゃんたちだってお祭りに来るんだよね?そしたら、行きと帰りだけ一緒で、神社では自由行動でもいいんじゃないかな」


「でもそれじゃあ、ミコトくん、つまらないでしょ?この辺にお友達もいないんだし……。ほら、奈緒!アンタが勝手に変な約束するから、ミコトくんが気を遣ってくれてるじゃない、まったくアンタって子はもう……」


「そんなこと言ったって、私だって友達と祭り楽しみたいもん!毎年ミコトと一緒じゃん。ミコト人見知りだから、友達紹介してもつまらなさそうにしてるし。ミコトのことは可愛いと思ってるし、面倒見てあげたいけど、それはそれ、これはこれなの!」


「ほんとに気を遣ってるとかじゃなくて、俺は一人で大丈夫なので!」


「そうですよ、お義姉さん。ミコトは割と一人で平気な子なんです。ミコトも私たちとまわればいいので……。それに、奈緒ちゃんは本当によくミコトのこと見てくれてます。……奈緒ちゃん、毎年ミコトに付き合わせちゃって、ごめんね……」


 お母さんが奈緒に向き合い、何度目かのお礼を言う。この場で一番気を遣っているのはお母さんだ。


 大分に来るたびに、お母さんは精神をすりつぶしているように見えた。前原一家と話すときは、今みたいに遠慮がちにおべっかを使い、高い声音で猫撫で声を出す。

 ミコトの友達のお母さんたち、つまり、ママ友にだって、お母さんはこんなふうな態度は取らない。ここにいるときのお母さんの態度が特別おかしいのだ。

 大分での滞在が長ければ長いほど、お母さんのため息の数が増える。息子の目から見ても、お母さんが大変そうなのがよくわかった。家族付き合いというものは大変なのだと、小学生ながら感じる。


 奈緒がかぶりを振った。


「いえいえ!ミコトは弟みたいに本当に可愛いので大歓迎なんです」


「だったら、ミコトくんと一緒にお祭りに、行ってあげなさい。そもそもね、女の子なんだから、女の子と遊んでばかりじゃなくて、男を立てるっていうのを学ばないと……。お嫁に行ったら苦労するわよ?」


「ママ、奈緒はまだ中学二年生だよ?お嫁の話は早くないか……?それに、ミコトくんもお母さんとまわるみたいだし、奈緒も友達とまわるんでいいんじゃない……かな?」


「あら、パパ聞いてたの?それでもミコトくんに悪いじゃない。ミコトくんの方が先に約束してたんだから。パパは奈緒に約束を破る女の子になって欲しいわけ?」


「そういうわけじゃ、ないけどさ……」


 お酒を一滴も飲んでいない伯父さんが物腰柔らかな口調で奈緒を庇うも、伯母さんにねじ伏せられた。奈緒は陰々滅々とした様子で手遊びをしている。


 そんな奈緒一家の様子を見かねたのか、伯父さんを擁護するようにお父さんが口を開いた。


「姉さん、ミコトのことは気にしなくていいよ!ミコトも男だし、友達の一人や二人、祭りで作れるさ。それに、そこまで大きい神社じゃないんだから、一人でまわらせても平気だよ。なぁ?ミコトもそう思うよな?姉さんはちょっと子供のことに口出ししすぎだよ。子供なんて勝手に育っていくんだから、多少放っておいても大丈夫だ。……ってことでさ、奈緒ちゃん、せっかくのお祭りなんだ。お友達と一緒にまわんなさい」


「もう!どうしてウチの男たちはこんなに無責任なのかしらっ!もうわかったわよ。奈緒、今年は友達と行ってもいいけど、ミコトくんのことちゃんと気にしておくのよ。いい?」


「うん!それはもちろん!パパ、叔父さん、ありがとう!」


「ちょっと!ママへの感謝はないの?」


 奈緒の顔は明るい。伯母さんだけが不満そうにブツブツと何かを言っていたけれど、それも次第に消え失せ、いつの間にか、お父さんたちと違う話題で盛り上がっている。


 お父さんも伯母さんも酔っ払うと陽気になり、より饒舌になる。加えて、説教癖もあるものだから、聞いている方は辟易する。


 女だから、男だから、子供だから、大人だから……。決めつけ、押し付け、思い込み。それらの類が、東京よりも、大分の方が色濃い気がした。息苦しい。


 オレンジジュースの入ったグラスがカリンと涼やかに鳴った。


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