第12話 河童の川流れ(2)
ミコトが人や妖怪がいるところを避け、人や妖怪が少ないポイントを選んだため、ミコトたちが陣取った場所は静かであった。後ろの方でお母さんたちの声がぼんやりと聞こえる程度で、川のせせらぎが耳に染み込む。
「……ねぇ、ミコト、なんか上流から流れてくるの」
「えっ?」
ミコトが釣り針にエサをつけようとしている時、マビがズボンの裾を掴み、上流を指差した。
ミコトはじっとマビの指差す方を見つめる。そこには緑の塊があった。
あれは、一体なんだ……?
目を凝らす。だけど、なんなのかさっぱりわからない。
「ミコト!カッパ!カッパなの!」
カッパ……?カッパってあの河童……?緑で頭にお皿があって、水辺に住むと言われる妖怪の河童……?
言われてみれば、確かに河童に見える。
河童が川を流れているのだ。
まさに、河童の川流れ。
国語の授業でそんなことわざを習った気がする。河童というのは本当に川で流れるらしい。昔の人はこの光景を見て、このことわざを思いついたのかもしれない。
「大変!カッパ、溺れてるの!」
「えっ、でも河童って泳ぎが得意なんじゃ……?」
再び、目を凝らす。
水の中で河童は、必死に両手両足をばたつかせて、必死でバランスを取ろうとしている。それは正に、溺れる者の動きだった。
「ど、どうしよう、助けなきゃ!でも、俺、泳げないし……!釣り竿で釣り上げる?いや、そんな上手く釣り竿を投げるなんて無理だ!ど、どうしよう!」
溺れている者を前にして、心が急く。こんなところまで、ことわざ通りじゃなくていいのに。
どうしたらいいんだ。このままじゃ、河童が溺れ死んでしまう。でも、泳げない俺にはどうしようもできない!
ミコトがあたふたしている間にも、河童はサラサラと川を流れていく。止まらない。
「ボクが行くの!」
マビが川の中へ飛び込んだ。短い手足をばちゃばちゃと不器用に動かし、溺れている河童の元へ向かう。
「危ないよ!マビ!」
ミコトはギョッと目を見張り叫ぶも、マビは戻ってこなかった。ただ、不器用ながらひたすらに泳いで、泳いで、泳いで、河童の方へと身体を前進させる。
ミコトは、何もすることができなかった。二人が無事であることを祈ることしかできなかった。
なんて、情けないのだろう。なんて、無力なのだろう。
とうとうマビが河童のところまで着くと、親猫が子猫の首元をくわえて運ぶように、マビは大きな口で河童の首元を捉え、再び、岸に向かって不器用に泳ぎ出した。
河童の体はマビの二倍くらいはあった。あれを運ぶのはマビにとって相当きついだろう。
「あと少し!あと少しだよ!マビ!頑張れ!」
マビに一生懸命声援をかける。何もすることができないミコトにできることは、ただ応援することだった。
応援は、時に大きな力になる。ミコトはそれを運動会で身をもって経験していた。
一昨年の運動会、ミコトは足の速い方ではなかったが、クラスの足の速い人たち全員がリレーに取られてしまったため、そこまで足の速くないミコトが、六百メートル走の選手になってしまったのだ。
砂埃が舞い上がる校庭で、他の足が速くて持久力のある選手たちと校庭を駆け抜ける。
六百メートルというのは意外に長く、足の速い選手にどんどんと追い抜かされ、気持ちが焦ってくる。
でも、それも二、三人で、足がすごく速い選手以外は団子になりながら、走っていた。
ミコトもなんとか他の選手の背中に食らいついて、その集団に置いていかれないようトラックを走る。
ラスト一周だ。ラスト一周で終わる。
このままだったらもしかしたら、八人中五位になれるかもしれない。最下位は免れるかもしれない。
だけど、ラスト一周になった途端、団子になって走っていた選手たちのスピードが徐々に上がっていった。どんどん置いていかれる。
嘘だろ。無理だ。これ以上は早く走れない。息も上がって、苦しい。
額の汗が目に入る。周りの走るスピードが、この時を待っていたかのように、どんどんと上がる。
このままじゃまずい。最下位になってしまう。
気持ちは焦るのに、足は一向に早く動かない。呼吸も整わない。
あぁ、もう無理だ。
後を追いかけていた選手たちの背中が少しずつ、少しずつ遠くなっていく。
ふっ、とミコトの中の何かが切れた。
元々、俺は走るのは得意じゃないんだ。今走ってるのだって嫌々走っているのだ。選抜の時に、「嫌だ」と主張したのに、俺を選手に選んだ組の人たちが悪い。だから、もう、やめよう。できる範囲の力で走ろう。
「フレー!フレー!ミコト!走り抜けろー!お前なら勝てるぞー!」
突然、その声は、ミコトの耳に突き抜けた。誰かの声。誰の声かははっきりしない。運動会という雑踏の中でその声だけが鮮明に聞こえる。
「そうだ、ミコトー!頑張れー!」
「ミコトー!いけー!諦めるなー!」
一人の声が、二人、三人、そして、もう何人かも聞き取れないくらいの人々の声が、「頑張れ」と叫んでいる。
そうだ、頑張れ。頑張って走り抜けろ。
走りながら、呼吸を整える。ぼやけて見えていた前の人の背中が妙にくっきり見える。
みんなの「頑張れ!」という声が、ミコトを奮い立たせた。
その声援に応えるように、足もリズミカルになっていく。背中に翼が生えたみたいだ。
走るのが気持ちがいい。
それは、初めての感覚だった。
スピードを上げて、一人、また、一人と選手を超えて駆け抜ける。その度に、歓声が聞こえる。ミコトだけに向けられた歓声だ。
ミコトは、力の限り走った。
結果は、八位中四位ではあったが、運動が苦手なミコトにしては、実力以上の順位だと思う。実力以上の力を出せたのは、あの応援があったからだ。
応援は、人に多大な力を与える。
だから、一生懸命心を込めて応援するのだ。
頑張れ、頑張れ。あと少し。あと少しで二人とも助かるんだ……!
マビは必死に水中でもがきながら、なんとか岸までたどり着いた。
かなり息が上がり、ゼェハァと苦しそうに胸を上下させている。マビは、河童を地面にゆっくりと置いた後、ブルブルッ、と体を勢いよく振り、水しぶきを飛ばした。
「マビ、よく頑張ったね。えらいよ」
マビのしめった頭を優しく撫でてやる。マビは満足げに目を細めた。
「カッパ……、さん?聞こえますか……?」
声をかけてみるも、反応がない。
河童の黄色いクチバシに耳を寄せ、呼吸を確かめてみる。息をしていない。
「マ、マビ!どうしよう!息してないよ!」
河童の胸の辺りに手を当てる。ひんやりとしてヌメヌメとした感触だった。その胸は、ぴくりとも動かない。
河童の蘇生法なんて、知らない。人工呼吸をしようにも、クチバシのある河童にどう息を吹き込めばいいかも、わからない。
そういえば、保健の授業で、心肺蘇生法の一つである心臓マッサージを習った。心臓のあたりを両手で圧迫することで、体内の血液を循環させるのだという。
頬に汗が滴り落ちる。暑い。
授業ではマネキンに心臓マッサージをしたが、適当にそれっぽい動きをするだけでよかったため、マッサージの動きは正しいのか、手順が合っているのかなど、よくわからないまま授業が終わってしまった。正直なところ、上手に心臓マッサージをする自信はない。
でも、このまま放っておいたら、河童は死んでしまうかもしれない。……見殺しにするなんて、できない。試せる方法があるのならば、試すべきだ。
ミコトは大きく深呼吸をした。
やれる。やるんだ。授業を思い出せ。
ミコトは河童の心臓のあたりに両手を慎重に重ねる。
その瞬間、河童がゲホッと咳をして水を吐いた。
「ゲホッ、ゲホッ……!」
河童の体が必死に水を体外に出そうとしている。ミコトは上向きになっていた河童の体をそっと横にし、水を吐きやすい姿勢にしてやる。
「ゲホッ、ゲホッ」
小刻みに咳をしてる姿があまりに不憫で、ミコトは河童の背中を優しくさすった。
とくん、とくん、と鼓動している心臓の振動が、手のひらに伝わる。
よかった。生きてる。
ライフジャケットの裾をギュッとマビに握られる。マビも心配していたのだ。
ミコトはマビに優しく微笑むと、再び、河童の背中をさする。
「ミコト?さっきから、何してるの?」
ふいに、後ろから声をかけられた。河童を隠すようにして、急いで振り返った。
「な、奈緒ねぇ!一人で釣りするから、こっちに来るなって言ったじゃん!」
「……だって、ミコト、全然釣りしてないよね?川に向かって大きな声出したり、砂遊びしたり、釣りやってるようには見えないんだけど?」
奈緒は呆れたように首を振りながら、放り投げてあった釣り竿を拾い上げる。
「今からやろうと思ってたところなの!」
「ふーん?……まぁ、釣りやりたくないならやりたくないでいいんだけどさ、せっかくみんなと来てるんだから、みんなのそばで遊んだらいいのに」
「……今は一人になりたい気分なの。本当は釣りにだって行きたくなかったけど、奈緒ねぇに付き合ってあげたんだよ?それだけで感謝してほしいね」
「ミコトって、ほんっと、生意気!ミコトにも川遊びを楽しんでほしいっていう親心が全然わかんないかね」
「奈緒ねぇは親じゃないじゃん」
「じゃあ、姉心」
「姉でもないよ」
「ほんっとに、可愛くない!……ていうか、さっきから後ろに隠してるそれ、なに?」
「えっ、奈緒ねぇにも見えるの?」
まさか、奈緒にも河童が見えてる……?
ミコトは目を見開き、慌てて振り返る。
そこには何もなかった。
瀕死状態の河童が、いなくなった。
どくり、と脈打つ。嫌な予感が体に巡り、血が凍るようだ。
あんな状態で歩き回ったら、今度こそ死んでしまう。
河童がいた場所には、河童と同じくらいの大きさの石が身代わりのように転がっており、そばにいたはずのマビもいつの間にかいなくなっている。
「見えるって……?大きな石が見えてるけど。……それに珍しい化石でも埋まってた?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど……」
「砂遊びもいいけど、そんな大きな石ひっくり返しでもしたら、ミコトの大っ嫌いな虫がウヨっと出てきちゃうよ?」
「ひっくり返さないから平気。ていうか、一人にさせてくれる?やることがあるんだけど」
ミコトはキョロキョロと辺りを見回すも、見慣れた妖怪たちの姿はない。
でも、目を離した時間はそう長くはない。だから、この辺に二人ともいるはずだ。
胸の辺りがざわざわする。
もし、他の妖怪にでも襲われたら?
もし、また川に潜って溺れちゃったら?
もし、無理に体を動かして倒れてしまっていたら?
早く二人を見つけなければ。
「やることって何よ?川でやることといえば釣りでしょ?ほら、釣りやる!」
奈緒は手に持っていたミコトの釣り竿をグイッと押し付ける。
奈緒の能天気なお節介が癪に障った。
俺は河童を探さなきゃいけないのに!
ミコトは押し付けられた釣り竿を勢いよく振り払った。釣り竿が地面に叩きつけられる。
「だから、一人にしてって言ってるでしょ!もうほっといてよ!」
大きな声だった。辺りが、しんっ、と静まり返る。せせらぎの音と木々の擦れる音だけが、その場に滞留している。
「あっ……」
ミコトは思わず口を覆った。こんな大声を出すつもりじゃなかったのに。
「……大きな声出して、ごめん。でも、ホント、ほっといて欲しいんだ。小言でも愚痴でも後で聞くから。今は放っておいて」
「ちょ、ちょっとミコト!」
ミコトはたじろぐ奈緒に背を向け、当てもなく河童とマビを探すために、歩き始めた。
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