第11話 河童の川流れ(1)

 

 マビを家に連れて帰ると、人間の家に来れて嬉しいのか、はたまた、人間の家が珍しいのか、ピョンピョンと、家中をぐるぐると走り回っていた。


 時折、ミコト家族の会話を真似して、幸せそうにケロケロと笑っている。嬉しそうなマビを見て、ミコトも幸せな気持ちになる。


 マビをこのまま日本に住ませることはできないか、うさぎに尋ねてみようと思い、家の中を探してみたけれど、うさぎの姿はどこにもなかった。


 神社に行けば会えるかもしれない。でも、今日は神社に行けない。


 神社。そう、神社。ヨウコが待っているかもしれない、稲荷神社。


 風が吹いたら吹き飛んでしまいそうなしなやかな佇まいと、白く滑らかな肌を思い出す。会いたい思いが、胸の奥からぐんぐん湧き出てくる。


 でも、会えないのだ。


 お墓参りが思ったよりも早く終わったので、ヨウコに会いに神社に行こうと思ったのに、病み上がりだから、と家族全員に反対され、『本日外出禁止令』が出てしまった。


 ヨウコがマビを見たらどう思うだろう。


 可愛いって、言ってくれるかな。微笑んでくれるかな。きっと言ってくれるよな。ああ、でも、妖怪は人間に見えないのか……。


 ヨウコに会いたかった。ヨウコにマビを見せたかった。


 そんなことばかり、考えてしまう。


「ミコト、ここんところ、目を離すとすぐにいなくなるんだから」


 夕飯の時、ミコトの意識を現実に戻したのは、奈緒の声だった。


「そうだな。今まで家から一歩も出ないような出不精になんの心の変化があったんだか」


「去年までのミコトだったら、絶対、神社にも行かないし、お墓参りなんかにも行かなかったよ。ミコトも、やっとアウトドア派の気持ちがわかってきたって感じ?」


「うるさいなぁ、もう」


 ミコトは不貞腐れながら、豆腐に箸を刺す。奈緒のこと、やはり苦手だ。遠慮なしに、ずけずけと好きに物言うところがどうも好きになれない。


「うるさいな、もう!うるさいな、もう!」


 テーブルの下にいて、ミコトからこっそりご飯をもらっているマビが、ミコトの言葉を繰り返す。

 スプーンですくった炊き込みご飯や漬物を、テーブルの下に持っていくと、マビが美味しそうに食べるのだ。その姿が愛おしくて、妖怪に人間のご飯を与えていいのかわからないけど、ついつい、ご飯をあげてしまう。


「ところで、ミコトは、体調どうなの?もう元気なの?」


「まぁ、そこそこ?そんなに悪くはない」


「ふーん」


 奈緒がニヤリと笑った。しまった、と身構える。奈緒がこういう顔をするときは、ろくなことを言わない。


「明日さ、川釣りに行かない?」


「は?なんでいきなり?」


「叔母さんから聞いたけど、明日何も予定ないんでしょ?だったら、東京でできないこと、一緒にやりたいなーと思って。みんなで行こうよ、川釣り」


「お、いいじゃないか。ミコトくん、川釣りはいいぞ。おじいちゃんが手取り足取り、川釣りの極意を教えてあげよう」


「もう、爺さんは川のことになると、急に張り切るんだから。奈緒も爺さんも、忘れてるみたいだけど、ミコトくんは一応病み上がりなのよ。あんまり無理させたらダメでしょう」


 おじいちゃんは目を輝かせ、おばあちゃんが呆れた顔で、奈緒の言葉に反応する。おじいちゃんは川釣り好きが高じて、ここら辺で川釣りの名人と呼ばれるほどの人物なのだ。


「でも、今日も神社に行きたいって言ったくらいだし、ミコトも元気みたいだからいいんじゃないか?ミコトがこんなに外に出たがることはないしな」


 お父さんが、お爺ちゃんと奈緒の援護射撃をする。


「川釣りはやだよ!三年前、川釣り行った時、お父さん、変な虫に刺されたじゃん。やだよ」


「へぇ、男の子なのに虫が怖いんだ」


「怖いとかじゃなくて!っていうか、今の時代男女で分けるとか、ナンセンスなんだけど」


「はー、そういうこと言っちゃうところ、ほんっと、可愛げないよね」


 奈緒が箸をぷらぷらさせ、隣にいるミコトを軽く指した。その瞬間、伯母さんに、


「はしたないから、やめな」


 と、手をピシャリと叩かれる。


「とにかく、川!行こうよ!夏の思い出作りしよ!」


「えー……」


「とにかく、川!行こうよ!川!行こうよ!」


 いつの間に、テーブルの上に登ったのか、テーブルの上のおかずの入った鉢を上手に避けながら、マビがぴょんぴょんと飛び回る。マビはどうやら川に行きたいらしい。


「お母さんも、奈緒ちゃんたちに賛成だな。ゲームしてないミコトなんて珍しいもんね。明日、体調がよかったら、釣りに行って来れば?せっかく大分まで来たんだし、小学生らしく、外でたくさん遊んだ方がいいと思うな」


 隣に座っているお母さんが背中をポンっと叩く。


 男なのに、とか、小学生らしく、とか、本当に嫌になってしまう。男だから虫を怖がっちゃいけないのか?小学生だから外で遊ばなきゃいけないのか?

 大人だから、子供だから、男だから、女だから。そんな枠組みにハメられて、決めつけられるのはうんざりだ。


 でも……。


 目線を、テーブルの上で小躍りしているマビに移す。


「遊んだ方がいいと思うな。遊んだ方がいいと思うな」


 川に行きたいと言わんばかりに、マビは笑顔で言葉を繰り返し、全身で行きたい気持ちを表現している。


「わかったよ。明日行けばいいんでしょ」


 ミコトは、軽く息を吐きながら、マビのために渋々頷いた。




 翌日、ミコトたち一同は家から車で十五分ほどにある釣りのできる川に来ていた。


 川のある山はハイキングコースになっており、申し訳程度に、道が整備されている。


 整備されてるとはいえ、急な階段が多いし、道はでこぼこで狭いし、なにより、暑いし、日頃、あまり体を動かさないミコトにとって、このハイキングコースは大敵だった。


 フィッシングバッグを肩に下げたおじいちゃんが先陣を切って歩く。その次に、奈緒ちゃん、お父さん、伯父さん……、みんな一列に並んで、歩いている。

 マビだけが、木から木の間を飛び乗って移動していた。


 結局、昨日、うさぎは現れなかった。だから、マビをこの先どうするかは、保留になっているのだ。


 歩くこと十分くらい。清流の音が聞こえてくる。体中から汗が吹き出るほど暑いのに、この音を聞いていると、不思議と涼しい気がしてくる。


 そこから更に歩き続けると、木々がひらけ、釣り場が見えてきた。そこにはもう既に何人かの先客がいて、釣りを楽しんでいるようだ。


 土の道から、石の道に変わり、不揃いの石のせいで、山道の歩きづらさとは別の歩きづらさがミコトを襲う。


「あっつーい……!もう我慢できない!」


 暑さに耐えきれなくなった奈緒が、涼しさを求め、おじいちゃんを押し退け、川に一直線に走り出した。よくこんな歩きづらい場所を転ばずに走れるよな、と感心してしまう。


「こら!奈緒、危ないでしょ!」


「川に手、入れるだけ!ライフジャケットも着てるし、平気だよ!」


 奈緒は軽く振り向いて大きく手を振り、伯母さんに怒られるのも気にせず、奈緒は川べりへと向かった。


「全くあの子は……」


 後ろから伯母さんの盛大なため息が聞こえる。


「きゃー冷たい!」


「きゃー冷たい!」


 いつの間に木から降りたのか、マビが奈緒と一緒になって川べりではしゃいでいた。パシャパシャとマビが跳ねるたびに、水飛沫が舞う。水滴一つ一つがきらきらと輝いて眩い。


 辺りを見渡すと、川の外、川の中、木々の隙間から、見知らぬ生物たちが出歩いている。最初こそ物珍しく怖いと思っていたが、人間の慣れというのは恐ろしいもので、怖いと感じなくなりつつあった。


 一体、どれだけの妖怪が地獄から逃げ出したのだろうか。こいつらを全員地獄に帰すなんてこと、本当にできるのだろうか。


「ほらー!みんなも早くきてー!魚釣ろー!」


 奈緒が周りの目も気にせず、声を上げる。


 ミコトたちは、転ばないようにゆっくりとしっかりとした足取りで、川の近くまで進む。


 おじいちゃんたちは大きなフィッシングバッグを下ろすと、大きく息を吐いた。


 ミコトは釣りの準備をしている大人たちを尻目に、川べりで無邪気に遊んでいるマビのそばに寄る。


「川!楽しい!ミコト!中に入って遊ぶの!」


「俺、泳げないから、川には入れないんだ。ごめんね」


「泳げない?入れないの?」


「うん、そう。水に入ったら溺れちゃうんだよ。それに、川っていうのは人間には危ないからね。泳げる人でも溺れちゃうんだ。だから、俺は安全第一に釣りだけやるよ」


「川は、危ない。泳げる人も、溺れちゃう。だから、ミコトは釣りだけ」


「うん、そう。マビは遊びたかったら遊んでいいからね。あ、でも、マビも泳げないなら、危ないから川の奥まで行っちゃダメだよ」


 マビはじっとミコトを見つめ、しばらく何も言わない。


 マビの足を浸している水はよく澄んでいた。マビの足が川の屈折でゆらゆらと揺れている。川の上流だから、水が綺麗なのだろう。


「……ミコトが泳がないなら、ボクもミコトと釣り、するの。ミコトと遊んだ方が楽しいの」


 マビは川から上がると、ミコトの足にぴたりと引っ付いた。長靴越しに、生き物の温かみを感じる。


「わっ!」


「うわっ!?」


 突然、両肩を押され、体がぐらつく。奈緒がちょっかいをかけてきたのだ。


「さっきから、なに一人で川と会話してんの!釣りの準備できたって。おじいちゃんがミコトの釣り竿持って待ってるよ」


 奈緒の手を払い、おじいちゃんの方を向くと、おじいちゃんがニコニコ笑いながら、釣り竿を大きく掲げ、それを軽く左右に振る。


 足元のマビが長靴から体を離し、おじいちゃんの方に駆けていった。


 マビという存在が他の人に見えないというのは、不便だ。

 行きの車では、マビもミコトと一緒に後部座席に座っていたが、マビがいくら話しかけてきても無視を貫き通していた。

 両親に独り言を言ってる変な奴と思われたくなかったのだ。結果的に、マビを無視する形になってしまって心苦しい思いをした。


 マビが他の人にも見えるようになれば、こんな思いしなくてすむのに。


 おじいちゃんや準備をしているお母さんの周りをぴょんぴょんと飛び跳ねているマビをぼんやりと眺めていると、再び、肩を押された。


「ほら、早く釣り竿取りに行かないと待ってるおじいちゃんが可哀想でしょ。行くよ!」


 そのまま奈緒に肩を押される形で、よろめきながら、おじいちゃんの元へ行く。


「ほら、ミコト。これがミコトの竿だよ。で、魚のエサはこれだ」


 釣竿と共に、タッパーを渡された。透明なタッパーの中には、何体もの長細い赤茶色い物体がウヨウヨと蠢いている。


「お、おじいちゃん、このエサ、なんなの?」


「なんなのって、ミミズだよ」


「えっ!?ミミズ!?」


 ミコトは思わず、タッパーを落としそうになった。すんでのところで、おじいちゃんがタッパーをキャッチする。


「危ない危ない。落ちてたら、タッパーの蓋が開いて、ミコトの足元がミミズだらけになるところだったね」


 首筋の辺りがぞわりとした。おじいちゃんはニヤリと笑っている。おじいちゃんはスタイリッシュでかっこいいけど、こういう意地悪を言ってくるところが少し苦手だ。


「や、やめてよ、おじいちゃん!」


「ミコトはミミズは嫌いかい?」


「嫌いだよ!だって、ウネウネしてて、なんかムカデとか芋虫みたいでめっちゃ気持ち悪いじゃん!」


「弱虫ぃ〜」


 隣にいた奈緒がニヤニヤと笑いながら、ミコトの腰のあたりをつつく。


「う、うるさいな!ミミズなんて、東京にはほとんどいないんだよ!見たとしても、アスファルトの上で干からびてるヤツだけなんだから!それに、こんな気色の悪い生物を気持ち悪いと思わない方がおかしいよ」


「はっはっは。ミコトは虫が昔っからダメだもんな。ほら、お父さんが持ってきたエサを使いな」


 お父さんが袋に入った茶色い乾燥した魚用のエサと魚を入れるための青いバケツを差し出した。


「……ありがと」


「うーん、ミミズは万能エサなんだがなぁ……。ミコトにはまだ早いか」


「まだもなにも、絶対、俺はミミズなんて一生使わないし、触らないからね」


「でも、万能エサ、なんだぞ?おじいちゃんが竿につけてあげるから、それで釣ってみたらどうだ?」


「平気!この餌があるし。俺、向こうで一人で魚釣ってくるから!……あ、奈緒ねぇ、ついてこないでよ?俺一人で釣りしたいんだから」


「なにそれ、ひどくない?ミコトったら、反抗期?」


「反抗期でもなんでもいいから、ついてこないでね」


「ミコト、昨日や一昨日みたいに勝手にどっかいっちゃダメだからね!お母さんたちが見えるところにいるのよー!」


 小言を言うお母さんにミコトは「はいはーい」と軽く返事をし、歩きざまに、おじいちゃんやお母さんたちの周りを、くるくると楽しそうに走り回っていたマビに目配せをした。


 マビは目が合うとこちらにパタパタと走り寄ってくる。


「ボクの、釣竿は?」


「ごめん、マビ……。マビの分はないんだ……」


「ボクの分はない……」


「大丈夫だよ。俺、あんまり釣り好きじゃないし、マビにも貸してあげるから」


 俯き落ち込んでいたマビは顔を上げ、表情を輝かせる。


「ボクにも貸してくれる!ボクにも貸してあげる!」


「うん、貸してあげるからね」


 ミコトは歩きながら軽くしゃがみ、マビの頭を優しく撫でてやる。マビは気持ちよさそうに目を細めた。


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