24. 炎の対峙

「火事だ!退避しろ!――」


(火事だと——?)


 足音しか存在しなかった静寂が破られ、暴れる炎に騒然が広がっていく。


 すでにどの窓からも不穏な明かりが見える。この祉聖塔にも、四方を囲む館から火が燃え移ろうとしているのだ。


「ヴァイオレットここを出ないと」


 エスコートのように待つ革手袋に勢いよく右手が滑り込んだ。


 二人は廊下の角に置き去りの番兵の様子を見に走ったが、彼らはまだ気を失ったままだった。

 肩を強く揺さぶっても残りの二人が意識を取り戻さない。そうこうしている間に、階段に火の影が映ったかと思えば炎は一瞬にして駆け上がり、もうこの廊下を走っている。


 炎に目が眩む中、番兵らは迅速にジェイドの指示に従って仲間を担いだ。


「二人を頼んだ。我々は上階の確認を急ぐ」


「「了解!」」


 まばらな炎が一つになってしまう前にと、番兵らは急いだ。小さな瓦礫は橙色に姿を照らし出されている。


「君も早く――」


 振り返るとヴァイオレットが剣を抜いていた。すると反対側の窓に大きく揺れる火が映った途端、黒ずくめの二人組が現れた。

 視線までははっきりしないが、装備の一部が見え隠れしている。ジェイドは“影”だと直感した。


(まだ留まっていたのか——)

 

 彼らが床を飛んで一秒もなくその鋭い刃が目前に迫った。だが端正な二つの長剣に軽々受け止められると、一気に跳ね返された。


 影が再び動き出す前に、二人は炎の蔓延る階段へ急いだ。ここを下りきれば影に追いつかれることはない。しかし、突然ヴァイオレットは方向を変え、駆け上り始めた。


「どうしたんだ!」


「まだ誰かが上にいるわ、きっと一人では動けない!」


 脱出のため上階に上った影が、数分経って戻ってきた。脱出できなかったのはすでに火が回っていたからか。だがこのフロアよりも弱い火に阻まれる筈はない。


 残るのはもう一つの可能性。塔の頂上に繋がる部屋の鍵が開けられなかったのだ。最上階にある部屋は祈りの間それだけ。

 他とは違い、この部屋のみ内側からも施錠ができる。外から開けるだけなら侵入は簡単だろうが、扉の内のイレギュラーな存在がそれを阻んだのだ。その彼もしくは彼女は、まだ姿を見せていない。それが意味するのは、避難の仕方が分からないのか怪我を負わされたということだ。


 最後の段に足をかけて、ヴァイオレットは懸命に走る。だが彼女の背中にはもう黒い手が届きそうだ。彼女は作戦を考えるよりもただ前に進むことに集中した。

 そして暗がりの廊下の端、壁が迫るのが目前で見えると、体の勢いを空中に逃がし方向を転換した。

 

 ドンッ――!!


 すぐ後ろにいた影は対応できずに、まんまと壁に衝突した。


 だが距離があった方に効果はない。ヴァイオレットは剣に手をかけ振り向いた。しかしその心配は無用だった。追いかけてくる影の後ろにジェイドが見えたのだ。

 彼が突いた剣に影はすぐさま応対し、それで手一杯なようだ。


(さすが、ありがとう)


 ヴァイオレットの視界に一層暗い隙間が入った。最上階への階段がそこにある。足が速くなるヴァイオレットの目に人影が映った。

 

 その人は最後の段を降りると辺りを見回すように振り向いた。


「何故ここに――」


 この暗さのせいで表情も目の色も分からないが、そのフォルムにその仕草、ジェイドは確信せざるを得なかった。


 炎で輝く金の刺繡がついた白いドレスの裾が、短く愛らしいウェーブがかった髪が、ヴァイオレットに思い起こさせた。


「聖女様――っ!」


「カルサ――」


 その時二人の後方で風を切る音がした。


 咄嗟に我に返ったが一足遅く、ヴァイオレットは影のやいばを受け止めるのが精一杯で、ジェイドは反射的に打ち飛ばしてしまった。


 倒れた影は好機を悟り、顔の見えないその女に標的を変えた。

 黒い人影が女に手を伸ばし、首に巻くように振りかぶった短剣が光り彼女の首へ加速した。


 キンッ――

 

 だがその鋭い刃は、聖女の顔前で鏡のような剣に止められた。


 息が切れたままでこのままでは耐えられそうもないと、ヴァイオレットは影よりも早く攻撃を打ち出した。


「どうなっているのよ‥早く守って!私の騎士は――!」


 聖女がこの危機にやっと現実を感じて混乱し、今にも勝手に走り出しそうにしている。

 

 彼女が勝手な行動をすれば余計に不利な状況になることは明らかだ。ヴァイオレットは聖女専属の警護人を探したが、姿がない。

 彼女は即座に聖女を引き寄せ、自分の制帽を深く被せた。そして前に走り出すと同時に声を張った。


「ジェイク聖女様の護衛だ!急いで救出を!」


「っ了解!」


 ジェイドはこの場の誰も比べ物にならないくらいに速く駆け抜けた。炎と刃のかち合う音を後ろに階段を駆け上がった。


 最上階に火の手はなかった。そのためほとんど何も見えない。焦げた匂いはせども、ジェイドには人がいる感触がしなかった。


「うぅ…」


 うめき声がした。ジェイドが慎重に音の根源を探すと、一か所だけ陰が動いて見えた。

 彼は手探りでその所在を見つけ出し、倒れている男の容態を確かめた。腹部と脚が濡れていて、床にもその液体は広がっている。


「共に出るぞ」


 ジェイドは慣れた手つきで男を背に縛った。月明りの下に見えるその制服は護衛騎士のもので間違いない。

 彼は高い階段を四歩で跳び下り騒がしい炎の前で剣を抜いた。


 ジェイドが状況を把握する前に人が飛び込んできた。咄嗟に剣を手放し受け止めた。


「ジェイク!悪いが聖女様を頼む」


 火の中を跳びまわりながらヴァイオレットが叫ぶ。


「君は!」


「分かるだろ、行け!」


 ジェイドは迷った。彼が本当に助けたい人は、今支えている女ではなく必死に戦うヴァイオレットだ。だがここに戦力にならない者がいることは邪魔でしかないということも分かっていた。

 ジェイドはため息にも似た息を吐き、聖女を抱えた。そしてヴァイオレットが影と炎を退けて作った束の間の道を全力で駆け抜けた。

 


 一方目撃者を三人も逃がしてしまった影たちは、さらに躍起になってヴァイオレットに襲い掛かってくる。


 彼らには退路が塞がれようが煙で呼吸ができなくなろうがもはや関係がなかった。ただ己の死を前提として、目の前の番兵を道ずれにすることしか頭にないのだ。

 その猛威に絶体絶命と思えたが、ヴァイオレットは粛々としていた。



 髪を解き右頬の際で剣を構える。凛とした佇まいは先程とは明らかに様子が違う。


 ヴァイオレットは跳び出し、一人目の影との距離を一瞬にして詰めた。

 刹那、影は髪の隙間に紅に燃える瞳を見た。彼女の広い剣先は布を切り裂いたが、影は左手に握ったナイフを右肩の上に振りかぶるあの構えのおかげで背中をかすめるに済んだ。

 そして肩を開いてナイフを後ろに振りヴァイオレットの首を目がけた。しかし到達目前で体が痺れて倒れ込んでしまった。ヴァイオレットの柄頭がみぞおちにめり込んでいたのだ。


 間髪入れず、二人目が彼女に突進してくる。同じ構えでやはり首を狙っている。

 ヴァイオレットはそのまま剣を振り上げナイフを弾き飛ばした。そしてその影に反撃の隙もなく、ブーツの甲が側頭を蹴り飛ばした。

 彼ら二人は完全に気を失った。だが一息つく暇はない。


 二階への階段は炎が大きく、もうどうしても通れない。塔の周囲には火を消そうと人が入り乱れている。応援が来たと叫ぶ声もする。


「もっとゆっくり来なさいよ」


 窓際のヴァイオレットは非情にも見えるほど冷静な表情をしていた。

 

「悪く思わないでね」


 彼女は片方の影の腕に刃を当て血を鞘に集める。

 その間に気絶している影たちの所持品を漁ると、返しのついたやじりのようなものとロープが組み込まれた道具を見つけた。


「何これ、お抱えの発明家でもいるの」


 ヴァイオレットは一つをロープだけ抜き取り本体の木の軸はへし折った。

 こうしている間にも呼吸の仕方を誤れば体が内側から焼ける。もたもたしていたら炎に身を包まれる。


 鞘を回収すると傷口を縛って、ロープをかけて二人の影を人がいない地上に下した。

 そして取っておいた木片に火をつけて横たわる影の傍の木に投げ入れて、その周辺に血を撒き散らした。


「上手く見つけてよ」

 

 上着を捨て、ヴァイオレットは大判の本ともう一方の影の道具を持って上階へ急いだ。


 聖女がこもっていた部屋から塔の頂上に出ると、教会本部グルセイル・ヒアトの外の穏やかで静寂な夜が目に入った。

 

 しかし肌に触れる冷たい風は塵と煙の臭いを含んでいた。ヴァイオレットはあの道具を構えた。


「ふぅ…」


 深呼吸をして屋根瓦に照準を合わせた。


 周りの館は全て塔より低い三階建てだ。ここから脱出するには十メートルは離れた一階分下屋根に飛び移り、人の少ない裏手の塀を超えるしか方法はない。


 月が再び雲に覆われると、ヴァイオレットは指にかかるくらいの小さなレバーを引いた。


ヒュンッ――


 鏃が屋根に刺さり、ロープを張った。


 ヴァイオレットは意を決して強く跳び上がった。下に落ち始めると今度はレバーを倒し、ロープがものすごいスピードで手元の機械に巻き取られていく。若干上向きに引っ張られる力は凄まじく、手袋を締め付ける跡が深く深くなる。

 屋根に足がかかるとその勢いのまま瓦を蹴り、もう一度飛び出して、悠々と塀を超えた。


 星々の中で、彼女はまるで魔法のように夜空を駆けている。その顔には不安も願いも緊張もない。ただ瞳に無数の屋根を映し一点を捉えている。


 いつの間に抜かれた鏃が機械の先端に収まった。すぐにまた発射され今度はどこか店の屋根に刺さった。


 疾風のごとくヴァイオレットが引き寄せられていく。瓦がはっきりと目に入ると彼女は機械とロープを放し着地の体勢をとった。手放した本体が先に瓦に激突し鏃を外して飛んでいった。

 ヴァイオレットは踵で踏ん張り滑るように瓦を割って耐えようとするが、勢いは殺しきれず棟を超えてしまった。影の機械も剣も手元にはない、このまま中空に投げ出されれば挽回はできない。彼女は必死に手を伸ばしなんとか棟を掴んだ。地面に落ちたのは瓦の破片だけだった。



 ヴァイオレットは倒れるように寝転がって呼吸を整える。心臓の鼓動の荒ぶりはまだ治まりそうにない。



 彼女は目に光を感じた。もう一度月が出ている。彼女は月の中に懐中時計をかざした。時刻は12時34分。夜明けにはまだ早い。



「こっちのセリフ…」


 ヴァイオレットは暫し目を閉じた。

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