23. 潜入と異変

「待たせた」


 ジェイドは静かに近づいてきた。いつも通りの真面目な顔をしているが、髪だけが少し乱れている。


「遅かったじゃない?はい、これ」


 ヴァイオレットは制服一式の入った鞄を押し付けた。


「服を奪われた番兵は?」


な言い方しないでくれる?あの人たちなら今頃ベットでぐっすりよ。それよりあなたの方を教えてほしいわ。どうやってあのお屋敷に入ったの?」


「先日、偶然にもアドゥールと産業大臣が話しているのを見かけたんだ。よく聞こえなかったが、何かの計画の話だとは分かったから、その確認のために大臣が遣わした者のふりをしたんだ」


「堂々と入ったのね!でも偽物だってバレるんじゃない?」


「大丈夫だ。どんな使者だったかは誤魔化すように言っておいたからな」


「流石に抜かりないわね。というかジェイド、何故着替えないの?」


 ヴァイオレットに横道の影に押し込まれるも、ジェイドはモジモジと着替えださない。


「?何かあるの?」


 距離を近づけてきたヴァイオレットに、ジェイドは耳を赤くしてぼそぼそと言った。


「…外を見張っていてくれないか」


「え?…」


 あまりにかわいい理由を察してヴァイオレットは拍子抜けした。


「なに、恥ずかしいの?」


「頼む」


 ジェイドの赤い顔で真剣にそう言った。


「はいはい、乙女なんだから」


 ヴァイオレットは束ねた髪を悠々と揺らして表に出た。



「残り時間は?」


「約2分。着替えに時間かかりすぎなんじゃない?こういう服は着慣れているでしょう」


「すまない、騎士服とは色々と違うんだ」


「そうなの?マントがないだけだと思ってたわ」


 ジェイドは眉を下げて困ったような顔をする。


「もう毎回真剣に受け止めないで、もっと言いたくなっちゃうでしょう」

  

 ヴァイオレットは声を抑えて笑っている。


「君は本当に…」


「はい、」


 ジェイドの力の抜けた声を突然の眼鏡が遮った。


「視力は悪くないぞ」


「変装よ、変装。目の色を誤魔化せるでしょう?」


「そういえば君も茶髪だな」


 ジェイドは眼鏡のフレームを持って目に付くほど深くかけた。


「あら、今さら気づいたの?」


「灯りが届いていないんだ。色はほとんど分からない」


 ヴァイオレットはクスクスと笑いながら眼鏡の位置を直した。


「だから変装までする必要はないんじゃないか?」


「月が出てきたら困るわ」


「建物の中を照らすほど明るいとは——」


「いいじゃない、潜入する時って変装するものでしょう?」


「…そうなのか?」


「そうなんじゃない?」


 湧き上がる笑みを落ち着かせて、ヴァイオレットが懐中時計の蓋を開けた。


「…30秒前」


 彼女が軽く頷いて見せると、二人は教会前の通りに姿を現した。

 正門の前に張り付いている番兵に近づき、敬礼をした。


「青い月の慈悲」


 ヴァイオレットがはっきりとその言葉を口にすると、目の前の番兵が敬礼を解き2歩前に出た。

 その後ろの、背丈ほどの門を開け2人は敷地内に入っていった。


「合言葉まで…」


 ジェイドが後ろで感嘆の声を漏らす。


「意外?」


「いや全く」


 ジェイドはどこか楽しそうに言った。



 渡り廊下が右の本館に差し掛かろうとしたところでヴァイオレットが唐突に言った。


「影も残さないでね」


「ああ」


 静かに周囲を警戒し、ヴァイオレットが向きを変えて祉聖館の廊下へ入った。

 突き当り角に差し掛かって、彼女は立ち止まった。彼女は回廊に立つ柱の影に隠れるように合図した。ジェイドが慎重に先を覗くと、2人の番兵が交差しているのが見えた。


「…合図して」


 番兵の視界に入らないように、前にいるジェイドがタイミングを見る。

 番兵が一人になるとジェイドは右手を傾けた。同時に、二人は風も揺らさないように素早く通路を進んだ。


「急がないとな」


「焦らなくても大丈夫よ。交代時間まであと12分。それまでに着けばいいんだから。それより見つからないことの方が重要よ」


「それはそうだが…」


「ねぇあの紙、持っているわよね?」


「ああ」


 ジェイドは懐から畳んだ偽の命令書を渡した。


「ありがと」





 今度はジェイドが念入りに確認して角を曲がり、階段を上る。


「あの子供たちは何なんだ、君は一体何を教えたんだ?」


「あぁ、やっぱり驚くわよね。あの子たちは私と出会う前からなのよ。リーダーが秀逸なのよね、連携も身のこなしも凄くて——」


「いや、身体能力の話じゃない。あの貴族の振る舞いだ。ビーというあの少女、貴族令嬢の歩き方・話し方を忠実に模倣していた。あまりに自然さに、そのことに気付いたのは随分後だった」


「そうなの?…でも本当に、私が何か特別なことをしたわけでもないのよ?ただあの子のセンスが抜群に良かっただけよ」


「そう…だよな」


(そうだ。また勝手に思い込んだだけだ。…小さくても懸命に前を走るあの少女の背中が、あの頃の君に似ていたからだろうか)


「そこを曲がったらすぐに階段を上がって」


 角に差し掛かって、ヴァイオレットが後ろに下がった。代わりにジェイドが先を確認する。


「…了解」


 合図を出して階段に足をかけたジェイドが振り返ると、ヴァイオレットはしゃがみ込んで床を注視している。その指先が不鮮明に床に写っているのが彼には見えた。


「ヴァイオレット、さっきから何をして——」


「行きましょう」


 彼女はジェイドを追い抜いて階段を一気に駆け上がった。彼は不服な顔をしながらもぴったりついて走った。




 3階には小さめの窓はあるが、灯りもなしに正確な形を捉えるのはたとえ暗がりに慣れた目でも至難の業だ。

 予想通り、左から二番目の扉の前に居るはずの二人の番兵は隅の暗がりに隠されていた。


「気絶しているだけのようだ。交代の二人はここで待つか?」


「いえ、もう来ちゃったみたいよ」


 壁に揺れるランタンの灯の影と共に悠々と番兵が現れた。彼らは廊下のどこにも誰の姿もないこの事態に当惑した。そしてその隙に後ろを取られたことに気づいた時には首に重い衝撃が走っていた。


「さすが、副団長ね」


「さすがヴァイオレットだ」


 この番兵たちもまた同じ隅に隠された。

 今夜は上空の風の流れが遅く、厚みはないが雲は多い。遮られた満月の微弱な光はこの階では薄まった陰に過ぎない。呼吸の音を立てず、空気に振動を与えなければ、その存在を見破られることはない。

 そして待つこと3分40秒、扉が開いた。


(来た)

 

 ‘影’は手早く鍵を閉め終わると廊下の奥へ消えていく。

 僅かに響く足音の中で、後から聞こえる方だけがほんの少し狂っている。ヴァイオレットはその異変を聞き逃さなかった。大きい拳一つ分の大冊を抱えながら、音を立てずに階段を上り続けるのは体に負荷がかかる。どんな訓練を積んでいても、その影響を完全に隠すことはできない。つまりそれは彼らが‘命令’通り盗取を完遂したという証しなのだ。

 音が完全に消えると、2人は扉の前に急いだ。


「入らなくてもいいのか」


「ええ、危険な賭けをする必要ないわ。中の音が響くということは入り口の扉に隙間があるということ。そこから階段のどこかに落とすのが一番自然で簡単な残し方でしょう?」


「場所だけならそうだが、そこでは命令書自体が不自然だろう」


「じゃあ、ヒントは少しだけにしましょ」


 ジッと音がした瞬間、彼女の手元に突然小さな火が現れた。火は命令書に移り、その細かな文字を照らしながら繊維を茶黒く浸食していった。

 指先に迫った火に艶やかな唇が吐息を囁くと、ぼんやりとした陰の世界に戻った。


「ほら、うっかり燃やし損ねたみたい。って見えないわね」


 眉の動きも口の開きもはっきりとは見えないが、ジェイドには彼女が笑って見つめていると分かった。


「だけど、筆跡を見る分には問題ないし、大事なキーワードは残っている。これだけあれば、ちゃんと調査できるでしょう?まあ、何者かに侵入されたというのに、これを見逃してしまうような人たちなら、意味がないれどね」


 細長いシルエットが扉の上部に伸びた。


「そうだな。さすがに事件が起きていればそんな不注意をする兵もいないだろう」


「あら、皮肉なんて珍しいわね」


「まあ、そうだな」


 歯切れの悪い返答はいつものジェイドらしくはなかった。ヴァイオレットも彼の顔は見えないが、見えなくても固まった顔つきで理由わけを隠していることは分かっていた。


「行こう」


 階段に戻ろうとするジェイドの背に手が触れる。


「待って、少しだけ」


 ヴァイオレットは反対へ歩き出した。


「今度は何を——」


 そう言いかけて追いかけるジェイドの足が止まった。


「どうしたの?」


「今何かが…」


 ボッ——


 前方の窓が急に明るくなった。

 慌ただしい足音が響き、番兵が叫んだ。


「火事だ——!!」

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