第一章

1

みしまさん

「みしまさん、三島渡希さん」


 そう呼び掛けてくる声に顔を上げると、目の前に一冊のファイルが差し出されていた。

 ファイルを手にしたクラスメイトが、席に座ったままの私の前に立ち塞がり、それを突き付けている。


 クラスメイトは私が気付いたことを確認するやいなや、説明もなく「じゃあコレ」とだけ言い残して机に置き、足早に自分の席へと戻っていった。私は、受け取ろうと出しかけた手を隠すように元に戻した。

 ファイルの正体は、日直の仕事の一環である学級日誌だった。黒板の右端には「6月17日 日直 真山・三島」と書かれている。彼女と私の名前だ。

 学級日誌は先刻のクラスメイト——他でもない真山さん——が担任から受け渡され、今こうして私に流れてきたのだ。今日のページを開いてみたところ途中まで書いてあるので、残りはお前がどうにかしろという事だろう。


 誰かの話し声がうっすら聞こえてくる。

 声の主は、自席に戻った真山さんと、周りに集まった部活を同じくする仲良しグループの面々だ。計4人がこちらをちらちらと横目で見ながら、窓際の端の席にいる私には届かないくらいのつもりであろう声で話しているようだった。


「今日もアニメみたいなすごい髪型」


 確かに、私の髪は腰にまで届くくらいの長さなので確かに目立つかもしれないが、まだ常識の範疇なはずだ。少しウェーブして広がるようなシルエットなのも、薄く茶色がかって明るいのも生まれつきこうだからそのままにしているだけで、積極的に派手にしようとしているわけじゃない。

 頭の左右で束に取った分を結び、それぞれにリボンを付けているのも、ただの趣味だ。

 彼女達のバレー部仕込みのショートカットと比べたら珍しいかもしれないが。


「見てよ服装、今日も派手」


 制服は指定のブレザーとスカートをちゃんと着ているし、ボタンも揃ってるし校章も曲がってない。ほかに身に着けているものも問題ない。ブラウスは襟も袖もふわっと広がったフリルだし、靴下も桃の辺りフリルの折り返しがついているが、すべて校則に則って選んだものだ。

 過度な色物や柄物はNG。制服を着用することは決められていて、私服での登校は申請をしない限りNG。ワンポイントくらいならば問題なく、私の今日の服装も生徒手帳にはOKだと、いやOKとは明記されてはないが、少なくともNGとは書いていない。


「あれ子どもの頃持ってた。今はさすがに恥ずかしいけど」


 指を差しているのが横目に分かる。多分、鞄に付けているアクセサリーのことを言ってるのだろう。

 昔から好きなキャラクターのマスコットをいくつかぶら下げている。子どもの頃に家族で遊びに行ったテーマパークで、大きな腕に抱き締められて以来、夢中になった。今では自分の財布から出せる範囲内で、手持ちのグッズは増え続けている。

 というか鞄にアクセサリーを付けるくらい、してる人は私以外にもいる。自分達もそうじゃないか。キャラクターだからってなんだ。


「遅刻してきた割に教室でも寝てるよね」


 寝ていたわけじゃない。机に突っ伏していただけでずっと起きていた。今だって名前を呼ばれたらすぐ反応したんだから、迷惑を掛けたりもしていない。

 それに遅刻もしておらず、学校には朝から来ていた。体調がよくなかったので、教室に鞄うぃを置いてすぐに保健室へ休みに行き、ベッドで安静にしていた。そして2時限目が終わった先程、やっと教室に戻ってきたのだ。朝から体調悪いことくらい誰にでもあるはずだ。


「正直ちゃんと喋ったことないんだけど。名前、合ってたっけ?」


 これは合ってる。

 三島みしま渡希とき。苗字はさほど難しいものでもないし、読み間違える方が難しいだろう。出席番号順で並んでいるわけだし。名前こそそうそう人とは被らないであろう、珍しいは珍しい名前だ。一応そのまま音読みするだけなんだけど。一々人を迷わせてしまうあたり、そんなに気に入っていない。

 まともに会話したことが無いのは、真山さん達に限らず、クラスメイトは例外なく皆そうだった。


 こんな風に、やけにクリアなひそひそ話に心の中でツッコミを入れるのも慣れたものだ。

 そういえば、さっき声を掛けられた時に何の返事も返さなかった気がする。いや、突然のことだったんだからしょうがない。第一、「何?」なんて低い声で返したら、それはそれで結局後から怖いとか変だとか言われるのが関の山だ。

 学級日誌を机の中へと乱暴にしまって、また机に顔を伏せた。これで少なくとも目から入る情報は遮断してしまえるし、耳に届く声も適当にスルー出来る。そうやっていつも休み時間をやり過ごしていた。これが私の日常風景で、もう慣れたものだ。


 高校に入学してから現在までこの調子だが、特に困り事はない。

 昔はもうちょっと人と話していた気がする。休み時間は友達と外に遊びに出たり。放課後、家に遊びに行ったり。そうしなくなったのはいつの頃からだっただろう。中学受験をすることになって塾に通うようになり、少しずつ周りとも疎遠になっていった。その名残で、高校生になった今もこの調子だ。


「三島さん、中学受験失敗してから暗くなったらしいよ」


 なんで知ってんだ。



 廊下の真ん中をずんずんと進む。「あと知ってる? 三島さんってさぁ」という、いつまでも続きそうな話し声を背に受けながら教室を出て、今向かっているのは、トイレだ。

 私が通り過ぎるごとに、付近にいた生徒達が目線を向けてくる。私の髪形や服装がよほど珍しいのだろう。というよりも、すっかり珍しいものとして認知されているらしい。私を初めて見たであろう男子生徒の「あぁ、あれが噂の」という心の声が聞こえた気がした。


 足早に歩いているのには理由がある。

 私のクラスは学年に7クラスある内のA組で、教室があるのは廊下の一番端だ。最寄りのトイレは教室を出て角を曲がったすぐ傍の階段の正面にある。行こうと思えばすぐに行ける距離で、行きやすい配置でもある。

 しかし私は反対方向へと進んでいる。

 最寄りのトイレは、教室から近いだけに利用する人がいつも多い。当然B組、C組の生徒も利用するから余計にだ。その周囲を行きかう人の数も多い。

 そして休み時間は、大抵の場合、B組のギャル達が鏡の前を占拠している。そいつらは、こぞって髪か目元かスカートの裾をしきりに直している。そんなところに単身突っ込んだとて、良い思いはできないだろう。というか、どうなるかは過去に経験済みだった。

 だから私は反対方向へと進んでいる。

 向こう側の、資料室やら何やらがある方の廊下は、こちら側と対照的に人が少ない。授業に使う教室も少ないので、行き交う生徒の数が増えるのは放課後になって部活の時間が始まってからだ。その場合でも、いる人間と言えば文化部が中心。授業の合間の今の時間帯ならば、なおさら人がいない。

 よって全体的に平和なのである。こっちのトイレは私にとって、この校内における貴重な心休まる空間なのだ。


 古い蝶番のキイという音が鳴らないよう、出来るだけ静かに扉を開けた。

 人の気配は無いけど、なんとなく慎重に行動した。


 一人きりの時間。

 自分が鏡に映る。鏡越しに、自分の奥の背景を見る。

 誰もいないことを確信してから、髪をほどいた。

 髪が長くて量も多いから、暑さがまだ残るこの時期は首元が蒸れて熱い。


 首にかかっている髪に手を突っ込んで空間を作る。ばさばさ動かすと風が通り、汗ばんだ肌を冷やして気持ちいい。壁の青白いタイルが熱を吸収するのか、トイレは教室や廊下よりも少し涼しい気がする。

 髪を束ねるように掴んでそのまま持ち上げると、鏡に映った自分は、顎のあたりまでしか髪がなかった。この長さにふと懐かしさを感じる。小学校低学年くらいまでは、これくらいで切りそろえたショートヘアーだった。私が自ら短い方が良いとしつこくせがんで一度だけ切った、そう母に聞かされたことがある。


 髪を下ろして、手を放す前にハンカチで首元を軽く拭う。新調したばかりのハンカチにも私のお気に入りのキャラクターが大きくデザインされていて、こちらに眩しいくらいの笑顔を見せている。

 目の前でハンカチを広げて見てみる。うん、可愛い。


 開けっ放しの窓の外からは踏切の音が聞こえる。この校舎からは少し離れているはずだが、風向きのせいか、静かな周辺環境のせいか、時折校舎の方まで音が届いてくる。

 その電車が停まる駅は、この学校の生徒の多くが使っていて、登校と下校の時刻にはホームが生徒でごった返すこともある。狭い割にホームドアが設置されておらず、事故を引き起こしかねないと指摘されているとか。

 駅前には商業ビルやアーケード街が並んでおり、本屋や服屋、カフェ、ファミレス、ゲーセン、カラオケなど一通り揃っている。そのせいでこの辺りで遅くまでだべっている生徒のことも度々問題視されている。

 脇道に1本でも入ると、居酒屋やバー、いわゆる大人向けの店も多いらしく、近寄りがたい雰囲気の客引きも時間が深まるにつれ増えていくので、特に女子にはよく注意喚起がなされる。よくないものが密かに売買されているという男子の間の噂は、さすがに眉唾だと思う。


 駅を挟んで、学校から見た反対方向へ超えると、閑静な住宅街がある。そちらに私の家もあって、歩きで通えない距離ではないことがこの学校を選んだ理由のひとつだった。

 騒音の少ない落ち着いた雰囲気と言えば聞こえはいいが、細い道が入り組んでいてどこも見通しの良さに欠ける。住んでから長い世帯ばかりなのか子ども連れもあまりおらず、日が落ちる頃は常に人目が少ない。その割に、車が通れる程度の道幅はある。多分、あの辺りの方が繁華街よりもよっぽど危険だ。


 さて、休み時間も長くない。また変に悪目立ちしないように、急いで髪を直しながらトイレを飛び出したが、時すでに遅し。チャイムは間もなく鳴り始めた。


 走って戻ってその勢いのまま教室の扉を開けたら、目立った。

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