幻想喫茶「ロバの耳」の秘密事
運転手
1・銀食器とお茶会
銀食器とお茶会(1)
「私に、毒はありますか?」
身体が芯が冷たくて、喉が震えそうになる。
ピーコック・グリーンの瞳が微笑む。
彼はやさしく答えた。
「――この世の全てに毒はあるんだよ」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
電子を通した声がビル群に反響した。
巨大電子掲示板の光が夜闇を払いのける。
流れるのは今週のあなたの運勢。かわいいキャラクターが甲高い声で愛想を振りまいている。
しかし、地上の人間は自分の端末をじっと覗き込んで背中を丸くしている。目の前の画面に精一杯で、頭上画面で一生懸命に飛び跳ねるキャラクターになんて興味がない。
なら、あの子のいる理由は何だろう。
誰にも関心を向けてもらえないキャラクターのことを考えてしまう。自分と重ねてしまっているのかもしれない。我ながら、疲れていると思う。
交差点の信号が青に変わる。
動き出す人々の波に呑まれて、私も彼らの一部となって足を動かした。
私は、何のために生きているんだろう。
私の仕事は、主にチーズの販売だ。
笑顔でお客様を迎え、商品の説明をして、店のチーズを売る。
働いている間はいい。
販売員という役目があるから。
でも、仕事が終われば私は空っぽの人形だ。
ただの空っぽ。何も生きる目的がない。
私と同じ悩みを多くの人間が持つらしい。
ネットニュースで見たことがある。
生きるために働くはずが、いつの間にか働くことが生きる目的になってしまう。そして、仕事が終わると無気力になってしまう。目的がなくなってしまうから。だから、趣味を見つけましょうと記事の結びに締めくくられていた。
すると、私は非常に人間らしい悩みを抱えていることになる。
馬鹿みたい。
ふと、漏れる橙色の照明に足を止めた。
ガラス張りのお店は寝具店のようだった。分厚い羽毛布団、清潔なシーツ、柔らかそうな枕、今にも飛び込みたくなるベッド。
宣伝文句は、「あなたに合った枕が 上質な眠りをつくります」。
枕があれば、私も眠れるだろうか。
ふらふら近づいたところで誰かとぶつかった。
「――大変失礼いたしました。お客様、お怪我はありませんか?」
とっさに口から出たのはお客様対応だった。
やっぱり私の身体は仕事用に
ぶつかった人がきょとんとした顔でこちらを見上げてくる。
それは、鮮やかな緑の瞳だった。
光の方向によって青くも光るピーコック・グリーン。
身長は私の胸元ぐらいだった。色素の薄い栗毛にまろい頰、華奢な肩、小さな白い膝。リボンタイと膝丈のハーフパンツがよく似合う。
現実を疑うような美しい少年だった。
彼は淡い花弁のような唇をほころばせる。
「ちょうどよかった。君にするよ」
「え……」
「ね、おいで。こっちだよ」
繊細な指先が私の手を引っ張る。
当然、私は動けずに立ち尽くす。
ピーコック・グリーンの瞳が不機嫌そうな上目遣いになった。
「いいから。ほら――“来て”ってば」
カクンと膝が曲がった。
私の足が勝手に動く。
ままごとで無理やり膝を曲げられた人形のように、足が彼についていこうとする。
「うん、それでいいんだ。じゃあ行こう」
少年はうなずいて、私を夜の街へ引っ張っていく。
意思と切り離された足が従順に小さな背中に付き従う。
なに、これ。
静かに混乱する私をよそに、少年は機嫌よく鼻歌を歌っている。
どういうこと。何が起こってるの。想定外の事態に巻き込まれたの対応はどうだったか……と勤務時間外なのに仕事のマニュアルを思い浮かべる。
落ち着こう。今、一番考えなければいけないことは何か。
スーツ姿の成人女性が、義務教育も終えていないような少年に腕を引かれて、夜の街を二人で歩いている、ということだ。絶対何かしらの人間の罪に引っかかる。
――これは、明日の仕事に支障が出る。
自分の存在意義の危機に、私の足がようやく抵抗を示して止まった。
少年が振り返って苛立たしそうにまなじりをきっと吊り上げた。
「なんで僕を困らせるの? 意味わかんない」
「そう言われても、こちらも困るので……」
「なんで意地悪言うの……もうやだ。動くの嫌になった。君のせいだよ」
少年はその場にしゃがみこんでしまった。
でも、手を離してもらえない。
彼と一緒に私もその場に膝をつくことになった。
顔をうつむかせる少年に、私は慎重に声をかけた。
「あの、ここでしゃがむと服が汚れますよ」
「そんなの知らない」
「ひとまず立ちませんか?」
「動きたくない……おんぶして」
「ええっと……」
わがままを口にした少年は催促するように手を引っ張ってくる。瞳を潤ませる姿は、庇護を求める小動物のよう。ピーコック・グリーンに街灯の光が反射してきらきら光っている。
直視すれば、瞳の魔力に負けてしまう。
私は視線をそらした。誘拐犯になりたくない。
幸い彼の力は弱い。多少力任せにすれば、手は振りほどけそうだった。手を振り払って、走って逃げればいい。
よしそうしようと決断してすぐ、背後で悲鳴が上がった。
「――マユル坊ちゃんっ!」
嫌な予感がする。
荒い足音が近づいてくるのに気づいて、私はすぐさま逃亡を試みた。
しかし、思いがけない力の強さで少年が私を捕まえて離さない。
「ああ、心配したんですよ、坊ちゃん……!」
頭上から聞こえる野太い声に顔を上げた。
「え」
思わず声を上げてしまった。
クラシカルな黒のロングタイプドレスに白のフリル付きエプロン。黒髪を高く結い上げて一つにまとめている純白のシニヨンキャップ。きらりと光る銀縁の丸眼鏡。
格好は完璧なメイドだ……男性だけど。
男性メイドは丸眼鏡越しにもわかる鋭い目つきで私をぎろりと睨んだ。
そして、マユルと呼んだ少年と私の間に腕を割り込ませてきた。
「お怪我はありませんか? 痛いところは? 寂しくて泣いてなかったですか?」
「僕は平気だよ。お前が泣いてたんじゃないの?」
「ええ。坊っちゃんに何かあったら、俺は涙を流しますとも」
男性メイドは小さな主人の肩をやさしく撫でさすり、怪我がないかを確かめてその身体を抱きしめた。
「さ、帰りましょう、坊ちゃん」
「動きたくない……エミが運んで」
「ええ、ええ。もちろんですとも」
男性メイドのエミは、すぐさま主人マユルの要望どおり抱き上げた。
その間も私の腕はつかまれたままだった。
二人にくっついて動く形になってしまう私に、エミは蛇が丸呑みするような目を向けてくる。
「俺のマユル様が世話になったみたいだな。ありがとう、もう帰っていいぞ」
「そうですね。帰りたいです。あの、離してもらえますか?」
暗に帰れと言われている。
私もそうしたい。
でも、マユルが離そうとしてくれない。
たくましいメイドの肩に頭を預けて、くふくふ機嫌よく笑っている。
「ねぇ、エミ、この子も連れて帰ろう」
「坊っちゃん、ペットじゃないんですから」
「うちの子にするんだ」
「俺ではご不満ですか? こんな素晴らしいメイドでありますのに……どんな女性より似合っている自信はあるのですが」
私に当てつけるように、エミは顎をつんと上げた。
確かに。一発目の
そもそも私はメイド服を着ないのだけど。
「メイドさんもこう言ってることですし、私はそろそろ失礼して……」
「ほら、坊っちゃん。やっぱり、俺が一番ですよ。二人で帰りましょう」
利害が一致した大人二人で説得にかかる。
それを聞いたマユルは頰を膨らませた。
腕に抱き上げられた格好で、白いソックスとストラップ付きのエナメル靴を履いた足をばたばた揺らす。
「何で言うこと聞いてくれないの! この僕が言ってるんだよ――いいから、“従え”!」
暗闇の中でピーコック・グリーンが鈍く輝いた。
また、身体の自由が利かなくなった。
文句を言っていたエミも口を閉じて、ただ恭しく頭を下げる。
「ほら、僕たちは一緒に帰るんだよ」
ふんっと得意げなマユルはメイドの肩の上に小さなあごを乗せながら鼻歌を歌う。こちらの話は聞いてくれないようだった。
私の身体は操り人形に戻ったように勝手に動く。
いったい、どこへ連れていかれるのだろう。
……ちゃんと元の現実へ戻れるだろうか。
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