10-α 自由の刑に処せられて

 古めかしい喫茶店で、少女たちは他愛もないおしゃべりに花を咲かせている。

 夏休みもそろそろ終わる頃、三人でどこかに出かけようということになって、彼女たちはひとまずこの店に集まっていた。

「だから、どうしてまた映画なのよ」

 平賀千代はそう言いながら、相変わらず熱いブラックコーヒーを飲んでいる。

 どうやらここは、彼女にとって行きつけの店だったらしい。店の人からおまけとして、ひとりずつに手作りのクッキーをもらってしまった。

「だって、あのときは途中で寝ちゃったんだもん。それにあの映画、理子ちゃんは見られなかったんだし。いいでしょ」

 菅原憂はそう話しながらも、柄の長いスプーンで目の前にあるグラスの中身をつついている。彼女が注文したのは、あざやかな緑色の炭酸飲料に白いアイスクリームと真っ赤なさくらんぼが乗ったクリームソーダだ。

「だとしても、あたしは二度目じゃない。それなら、あんたが見たかった映画で寝てる方がまだマシよ」

「えー……じゃあさ。理子ちゃんは、どこか行きたいところはある?」

 今までどおりであれば、どこでも、なんて答えそうなあなたが、今日は珍しくはっきりとこう答えた。

「プラネタリウム、かな」

 あなたが手にした透明なカップには、青色のハーブティーが淹れられている。それは窓からの光を受けて、不思議な煌めきに揺れていた。

 あなたの発言に、ふたりは少しだけ驚いたような顔をしたけれども、すぐにいつもの調子を取り戻したようだ。

「プラネタリウムなんて、小学校のときの遠足以来かも」

「選択肢が増えてるじゃない。まあ、そもそもまだ映画に行くって決まったわけじゃないし、むしろ別のところの方がいいとは思うけど」

 平賀千代の発言を聞き咎めて、菅原憂はとぼけた顔でこう返した。

「でも、やっぱり私は、あの映画が見たいかなあ」

「そこまで言うなら、どうしてあのとき寝ちゃったのよ」

 呆れた表情を浮かべる平賀千代に向かって、菅原憂は小さく肩をすくめている。

「私が好きな俳優、すぐに死んじゃったと思ったんだもん。まさかその人が犯人だったなんて。ひらっちょがそんなこと言わなければ、気にならなかったのに」

「あんたがオチを教えろってせがんだんでしょ。そもそも、理子の前でそれ話してどうすんのよ」

 しばらくふたりのやりとりをながめていたあなただが、ふと店内に貼られていたポスターを見つけると、それを指差しながらこうたずねた。

「それじゃあ、あの映画にしてみる?」

 これは何だっけ。よく覚えていないけど、平賀千代が見たかったらしい歴史映画のポスターだっただろうか。

「まだやってるんだ」

「やってるみたい」

 あなたと菅原憂は、そんなことを言いながら顔を見合わせている。それから、そろって平賀千代へと視線を転じたが、その先で彼女はふんと一笑した。

「それこそ、あんたたちはどっちも寝そうね。三人で行く意味ないじゃない」

 菅原憂は不服そうに口を尖らせている。

「ひらっちょ、見たいんじゃないの?」

「見たけりゃひとりで見に行くわよ」

 すげなくそう返した平賀千代に、菅原憂は、だったら、と言ってこう続けた。

「やっぱり私は、あの映画をもう一度見たいかなあ」

「映画はこの前、別のを見たし……憂ちゃんが話しちゃったから、その映画はもうオチがわかっちゃったよ。プラネタリウムはダメ? 私はよくわからないけど、憂ちゃんが好きだって言ってた女優さんが、期間限定でナレーションしてるらしいよ」

 あなたがそう口を挟むと、菅原憂は面食らいつつも考え込んでしまった。平賀千代はコーヒーをひと口飲んでから、小さくため息をつく。

「何なのよ、もう。全然決まらないじゃない」

 そうして笑い合いながら、少女たちは他愛もないおしゃべりに花を咲かせている。




 この日、あなたは自宅の台所に立っていた。

 何をしているのかと言えば、今は姉が書いたレシピとにらめっこをしている。というのも、あなたが姉に料理の教えを乞うたところ、それを渡されてしまったからだった。

 どうやら、今夜の夕食は肉じゃがらしい。

 目の前には新しい圧力鍋。そういえばこれ、お姉ちゃんからの誕生日プレゼントだったなあ、と今さらながら思い出す。もうしっかりと姉に使われていたけれども、今日からは本来の持ち主にも使われていくのかもしれない。

「こるりもおてつだいする」

 あなたがじゃがいもの皮をむいていると、近づいて来た小瑠璃がそう言った。休日ということもあり、姉一家がそろって遊びに来ていたのだ。

「ダメだろう。小瑠璃。理子ちゃんの邪魔をしちゃ」

 義兄が後を追って来て、慌てて小瑠璃を押しとどめている。しかし、すぐにどこかへ行くのかと思えば、義兄はその後もじっとあなたのことを見つめていた。

 視線に気づいたあなたは、思わず身がまえてしまっている。とはいえ、まさか義兄にまで、手つきが危なっかしくて見ていられない、なんて言われたりはしないだろうけれども。

 あなたがちらりと背後を振り向いたことに気がついて、義兄はぐずる小瑠璃を抱き上げながら、こう話した。

「ああ、ごめん。亜衣沙が向こうで、すごくそわそわしていたものだから」

 そわそわしていた? 姉が? 珍しいこともあるものだ。そんなに今日の夕食が心配なのだろうか。

 そう思っていると、義兄は思いがけないことを話し始めた。

「きっと理子ちゃんのことが心配なんだろうね。亜衣沙は昔、言ってたことがあるんだ。もしも、もう一人自分がいたらって」

 話のつながりがよくわからなくて、あなたはおそらく、内心では大きく首をかしげている。

「それ、姉は何て言っていましたか? 仕事を代わってもらいたいとか?」

 いぶかしげにあなたがそう問い返すと、義兄はゆっくりと首を横に振った。

「いや。もう一人いたら、自分にできない分、思いっきり自由にしてもらいたいんだって」

「逆ではなく?」

 義兄はその言葉に笑いながらうなずいた。

「責任感が強いというか、何でも自分でやらないと気が済まないというか……亜衣沙はそういうところ、あるからね。そこはゆずれなかったんだと思うよ」

 そう言って、義兄は小瑠璃をなだめながらリビングへと戻って行った。

 あなたはしばし考え込む。

 姉はどんな気持ちでそんなことを言ったのだろうか。義兄はあんな風に言っていたけど、本当は何もかも背負うのは嫌だったんじゃないだろうか。そうせざるを得なかっただけで。

 思えば、母が亡くなったときだって、姉は涙をこらえる姿を一度見せたきり、今まで落ち込む素振りさえ見せなかった。気丈で強い私の姉。けれども、そんな姉にだって、そうではない一面はあるのかもしれない。

 もしも、もう一人姉がいたならば、姉はそんな風にひとりで頑張ることもなかったのかもしれない。

 どうにか夕食の準備を進めていると、台所の入り口にいつの間にか姉の姿があった。

 姉はあなたの元に歩み寄ると、ひととおりの進捗を確認してから、そのまま黙って料理を手伝い始める。いつもなら、包丁なり何なりをさっさと取り上げるところだろうが、今日はそこまでするつもりはないらしい。

 黙々と、ふたりでの作業は続いていく。

「あのさ。私、どんな子供だったかな。私が……記憶をなくす前」

 あなたはふと、そんなことを姉にたずねた。ここで言う私とは、つまり私のことだろう。どんな答えが返ってくるのか、わくわくしながら待ちかまえていたのだが――

「猿」

 姉はひとこと、そう言った。

 え? 今なんて? 私のこと、猿って思ってたの? お姉ちゃん、ひどい。

 そんな私の嘆きが伝わるはずもなく、姉はさらにこう続ける。

「阿呆だったわ。どうしようもない阿呆。何も考えずに近所の悪ガキにまじって走り回っているような阿呆よ」

 そんな風に言われて、私は返す言葉もない。昔の私はそんなにひどかっただろうか。でも、あの頃はまだ、私も幼かったし。とはいえ、いくらなんでも、そこまで言われるのは心外だ。

「えっと……それなら、記憶をなくしてからは?」

 私が話を聞いていることを意識してのことだろうか。あなたは慌てて話題を変えた。

 しばし考え込んだ後、姉はこんな風に答える。

「幼いながらにあらゆる不幸を背負った、かわいそうな子」

 あなたはその言葉に目をしばたたかせた。

「ごめん。私、そのときのこと、あまり覚えてなくて……」

 謝るあなたに視線を向けることもなく、姉はふんと一笑した。

「でしょうね。あんたには記憶もなくて、母親まで入院することになって。かわいそうなことが明らかで。だからこそ、みんなあんたにかかりっきりで、私はほとんど顧みられなかった」

 あなたは、はっとしたように姉の横顔を見る。そうして、何かを言おうとしたらしいが、姉が続きを話す方が早かった。

「あんたが幼すぎて何もわかってないことも、周りがつきっきりになることも、全部仕方がないことだった。仕方がないから、何も言えなかった。だから私は、あんたのことを何もできない、かわいそうな子なんだって思うことにしたの」

 思いがけない姉の告白に、あなたはとっさに言葉も出ないようだ。

 しかし、姉がそう考えたのも、仕方がないことなのかもしれなかった。年が離れていることもあって、あの頃の姉は大人のように思えていたけれども、よくよく考えれば、今のあなたともそれほど年は変わらない。

 夕食の支度は順調だ。鍋に火をかけて、できあがるのを待つだけになったとき、姉はひとり呟くように、こう話し始めた。

「私はね。そんな枠組みが嫌で、さっさと結婚したの。そうして家から逃げ出したかった。けれども、同時に自分の役割を放棄したようにも思えて、後ろめたかった。お母さんがこれから大変なことはわかっていたし、それにあんたのことだって――」

「お姉ちゃん」

 あなたは姉の話をさえぎるようにして、そう呼びかけた。姉が驚き口をつぐんでいる間にも、あなたはすかさずこう続ける。

「お姉ちゃんが厳しくしてくれて、よかったよ。お母さんもお父さんも、やさしかったから。お姉ちゃんがいなかったら、私はもっとダメになってたと思う」

 姉はそこでようやくあなたの方へ目を向けたが、すぐにふんと一笑した。

「馬鹿ね。やっぱり馬鹿だわ」

 そう言って、姉は目の前の鍋を見下ろすと、顔をしかめて黙り込んでしまう。それからは、どちらもお互いを見ることはなく、そろってそこにある鍋を見つめていた。



 夕食の出来は上々だったようだ。

 そうして和やかに流れていたひとときの中で、姉はあなたに向かって、唐突にこんなことをたずねた。

「高校に入ったら、あんた何するの?」

 思いがけない問いかけに、あなたは驚きのあまり何も答えられずにいる。真っ先に乗っかかったのは義兄だ。

「部活とかいいんじゃないかな。理子ちゃんは、どういったことに興味があるんだい?」

 あなたはしばし考え込んだ後、恐る恐るこう答えた。

「星、とかかな」

「じゃあ天文部だな」

 父はうれしそうにそう言ったが、となりでは姉が顔をしかめている。

「そんな部、あの学校にあったかしら……」

 そもそも受験はこれからで、まだ進学が決まったわけでもない。少し気が早い気もするが――とはいえ、そんなことをたずねたからには、姉にも何かしら思うところがあるのだろう。

 思えば、姉が高校生のときには、母のことも家のことも、多くを姉に任せっきりだった。姉が高校生活を自由に楽しむことは、難しかったのかもしれない。

 もう一人自分がいたら、という姉のひそかな願い。あなたにかかっている期待は、思いのほか大きいのではないだろうか。

「なければ、作ればいいんだよ」

 義兄は無責任にそんなことまで言い出したが、そう簡単なことではないだろう。あなたは困ったような表情を浮かべている。

 とはいえ、私の方は、それもいいかもしれない、とも思っていた。それはそれで、なかなかどうして、おもしろそうな未来ではないか。

 夕食が終わると、小瑠璃が眠そうにしていたので、姉一家は早々に引き上げていった。

 後片づけをしていると、一緒に食器を洗ってくれた父が、おいしかったよ、と声をかけてくれる。あなたは父の顔を見返すと、意を決したようにこう告げた。

「あのね、お父さん。私、嘘をついていたの。それで、本当のこと、お母さんに最後まで言えなくて……」

 父は驚いたように目を見開いたが、こわばったあなたの顔を見ると、すぐにやさしげな笑みを浮かべた。

「大丈夫。お母さんはわかっていたさ」

「そうかな」

 不安そうなあなたに、父はすぐさまこう返す。

「きっとそうだよ」

 根拠のない言葉だと断じてしまえばそれまでかもしれない。しかし、父がそう言うのなら、もしかしたらそうかもしれない、という気もしてくる。

 あなたの言う嘘についてはたずねもせずに、父はこうくり返した。

「きっと全部わかっていて、理子の言うことをちゃんと許してくれたよ」

「そうかな」

 父がゆっくりとうなずくと、あなたの表情はふっとゆるんだ。

「そうだといいな」

 後片づけを終える頃には夜も深まり、家の外はすっかり暗くなっていた。あなたは自室でひとり、窓から空を見上げている。

 今日は晴れていたが、ここからでは星はあまり見えない。ただ、ぼんやりと浮かぶ月の光が、辺りをやさしく照らしていた。

「どうだった? 肉じゃが」

 あなたがそう問いかけるので、私は机の上に置かれた鉱石ラジオを通して、こう答えた。

 ――まあまあかな。

 それを聞いたあなたは、苦笑いを浮かべている。

「ところで、どうして肉じゃがだったの?」

 今夜の夕食が肉じゃがに決まったのは、私がリクエストしていたからだ。あなたが料理に挑戦するというので、普段からよく食べているものから選んだのだが……

 ――だって私、お姉ちゃんが作る肉じゃが大好きだから。

 私がそう答えると、あなたは笑いながらうなずいた。

「私も」









「ほら、やっぱり眠いんでしょう? 小瑠璃にはまだ早いわよ。今からでも、おうちに帰って寝ましょ」

「やだ!」

 ぐりぐりと眠たそうに目をこすっている小瑠璃を、姉がやさしく説得している。姪は姪で、何度も首を横に振っては、かたくなにそれを拒絶していた。

 季節は冬。夜も深まれば凍えるような寒さで、そうでなくとも小さな子どもが起きているのはつらい時間だろう。

 何枚も重ね着をした上で、帽子に手袋に耳当てにマフラーにと、重装備に身を包んだ姪は、覚束ない足取りで歩き出した。義兄になだめられた姉は、仕方なく連れ帰ることを諦めると、今度は転ばないよう手をつないで小瑠璃に寄り添っている。

 そのとき、誰かがくしゃみをした。

「お父さん! だから言ったじゃない。もっと暖かくしないとダメだって」

 姉に怒られた父は縮こまるように肩をすくめると、取り出したカイロでごまかすように暖をとっている。小瑠璃はそんな父にかけ寄ると、自分のマフラーを差し出した。

「おじいちゃんあげる」

「いやいや。大丈夫だよ。小瑠璃ちゃん」

 そう言って、父は小瑠璃にマフラーを巻き直した。

 ほほえましく思いながらも、あなたは姉の元へと近寄って行く。それから、顔をしかめている姉に向かって、小声でそっとささやいた。

「お姉ちゃんも。あんまり大きな声出すと、近所迷惑だよ」

 はっとした表情になった姉は、気まずそうに口を閉じている。

 家族で連れ立って向かう先は、郊外の高台にある公園だ。何かの施設があるわけでもなく、夜になるとよりいっそう暗くなるような場所だが、それが逆に天体観測にはうってつけだった。

 懐中電灯で足元を照らしながらの道行き。特別な道具は何もない。ただ純粋にこの目で星を見るだけの、本当に簡単な観測会だった。

 小瑠璃がふらふらと危なっかしいので、見かねた義兄が抱き上げている。小さな姪はあなたと目が合うと、にんまりと笑みを浮かべた。

「ながれぼし、みられる?」

「どうかな。今年はちょっと条件が悪いかも」

 そんなあなたの返答は、姉によって、今日はお星さまも眠たいんだって、みたいな感じに訳された。親子の会話に耳を傾けながらも、あなたは広い夜空に白い息をはいている。

 空はよく晴れていて、雲ひとつ見えない。ただし、月が出ていることもあり、星を見るにはあまりいい日とは言えなかった。

 それでも、今日ここに来た理由は流星群が見たかったからだ。十二月に見ることができる、ふたご座流星群を。

 この日に向けて、あなたはひとりでいろいろ準備をしていたのだが、それが小瑠璃に見つかって、やがては姉夫婦が一緒について来ることになり、いつの間にか父まで参加することになった。こんな風に家族総出で天体観測なんて初めてのことだったから、私は何だかおかしくて仕方がない。

 一行はやがて、高台の開けた場所へと到着した。公園と言っても木製のベンチと小さな四阿あずまや、あとは頼りない街灯がいくつかあるだけの何もない場所だ。

 ただ、ここからは東の空がよく見えた。眼下には雑木林が広がっているので、街明かりも少ない。

 方角を確認して、あなたがひとり空を見上げていると、背後から不満そうな声が上がった。

「ちょっと、何か説明してよ」

 振り返った先には、家族からの期待のまなざしが並んでいる。急なリクエストに困ったような表情を浮かべながら、それでもあなたはうなずいた。

「えーと。じゃあ、わかりやすい星座から……」

 あなたはこほんと咳払いをしてから、上空の星を指差し話し始める。

 きれいに横に並んだ三つの星。それを中心にして取り囲むように輝く四つの星――これは、左上にある一等星の赤い星のベテルギウスから、時計回りに二等星、一等星の青い星のリゲル、そしてもうひとつの二等星、と交互に並んでいる。それから、それらの上にかすかに煌めく小さな星たち。

 これらはすべて、ひとつの星座――オリオン座を形成する星たちだ。特徴的な三つの星のおかげで、何気なく夜空を見ているだけでも見つけやすい。

 そのオリオン座の左上にあるベテルギウスから右へ視線を動かすと、白く輝く星プロキオンが見つかる。その二つの星を結んだ中間地点の下で、ひときわ明るく輝いている星がシリウスだ。この三つを結んで冬の大三角となる。

 三角形のちょうど上、プロキオンの上の方に並んだ二つの星。一等星のポルックスと二等星のカストル、これらを頭に見立てて寄り添うように輝く星たちがある。これが、ふたご座。

 ギリシャ神話で語られるこの星座にまつわる物語は、人間の子供である兄と神さまの血を引く不死身の弟のお話だ。仲睦まじい双子だったが、兄はあるとき矢を受けて死んでしまう。不死身であったために生き残ってしまった弟は、これを悲しみ、神さまに死なせて欲しいと願う。神さまはこの兄弟愛に深く感心し、ふたりをそろって天に上げて星座となった。

 それがふたご座の物語。

 全天で一番明るい星シリウスが八光年、ふたご座の一等星ポルックスで三十五光年、オリオン座の足元に輝く星リゲルなんて五百光年の彼方にある。

 これらの星がつながれて、こうして物語を紡いでいるのは、今私たちがこの地球という星の上で見ているからこそ。

 生きているうちは決してたどり着けないほどの彼方からの光。それらの星をひとつひとつ拾いながら、その物語を追っていると、宇宙に自分の意識が広がっていくような気がした。けれども、立ち返ってみれば、そこにはいつだって、それを見ている私という存在がある。

 静かに星をながめながら、私は夏から今までにあったことを思い返していた。

 菅原憂に誘われて始めたボランティアのいくつかには、あなたは今でも参加している。そうして、そこで会ったアトリと共に、どこかへ出かけることもたまにあった。平賀千代は何かと忙しそうで、一緒に遊びに出かけることは少なくなったけれども、学校では相変わらずだ。橘綾乃とは、あれ以来一度も会っていない。

 少し前、あなたはとある人物に電話をかけている――鳩村翼だ。あなたの元へ嵐を呼びこんだ黒服の男は、残念ながらもうこの町にはおらず、だから直接会うことはできなかった。

「ツチノコ保護の会の定期的な集まりがありまして。そちらに参加しなければならないもので」

 町から去った理由を、鳩村翼はそう言い訳した。

「はあ。それはどうでもいいんですが」

 会えないことについては、別に惜しくもないと思ったのだろう。あなたがおざなりに応じると、鳩村翼は途端に憤った。

「どうでもいい? ツチノコ探索の有志が集まる大事な会合ですよ。まさか、ただの飲み会か何かだと思ってらっしゃいます? 会社の社長さんなんかも参加している、ちゃんとした会なんです。この会は」

 どうやら気に障るようなことを言ってしまったらしい。何が悪かったのか、いまいちよくわからないが。

 そもそも、会社の社長が参加していれば、ちゃんとした会だと言えるのかどうかもわからない。ともかく、この人以外にも変わった人はいるようだ。

 あなたは鳩村翼に、鉱石ラジオを通して私の声が聞こえたことについて話をした。相手は終始けげんな反応を返すばかりだったが。彼にも理由はわからないのだろう。

 しかし、そうして話しているうちに、鳩村翼はふと思い出したかのように、こんな話を始めた。

「正直に言いますと、私はあなたが未知の生命体であることは半信半疑でしたよ。だって、あなたにはテンコウさまとしての記憶がありませんでしたから」

 それは確かに。あなたが私の記憶を持たないのは当然だとしても、それ以前の記憶がないことは、奇妙と言えば奇妙だ。

「それで、あの後にもいろいろと調べてみたんですよ。テンコウさまの周辺で記憶喪失か、あるいは急に人が変わったといったようなことが今までにもなかったかどうか、ということを。結論としては、関連すると思われるような事例はありませんでした。つまり、仮にあなたがテンコウさまだとすれば、それは相当特殊な例ということになるわけです」

 それはそうだろうとは思う。私のような人が、そんなにたくさんいても困るだろう。

「そんなわけで、ここからは私の考えた仮説なのですが――テンコウさまは、人を中間宿主ちゅうかんしゅくしゅとしていたのではないかと思っていまして。それというのも、このテンコウさまなる存在、地球外から飛来した割に、特に問題が起こることもなくこの星に溶け込んでいる辺り、どうも知性を感じるんですよね。で、それを得たのは、もしかしたら人を経たからではないかと」

「……中間宿主?」

 聞き慣れない単語を耳にして、あなたは思わずそう問い返した。

「寄生体が発育のために経る宿主のことですよ。テンコウさまが一時的に寄坐につく、というのが、まさしくこれではないかと。つまり、あなたの場合も、人の脳に至ったからこそ人の思考を得た可能性があるわけです」

 要するに、あなたに記憶がなかったのは、その時点までは人ではなかったから、ということだろうか。

「まあ、状況を踏まえると、その中間宿主となるためには、やはり子どもの脳でなければいけないのかもしれませんね。それから、そうした生活環せいかつかんがあるからには、終宿主しゅうしゅくしゅと共に生きている個体が、まだ御神体付近にいる可能性はあります。それらが今後どうなるかは、私には何とも言えません」

「そういえば、宮司さんには私のことは伝えなかったんですか?」

 あなたの問いかけで、そういえば、鳩村翼はそもそもテンコウさまのことを調べにこの町に来ていた、ということを思い出した。それについてはどうなったのだろうか。

 そんな心配をよそに、鳩村翼はあっさりとこう答える。

「伝えてどうするんです。いいんじゃないですか。予言なんて今どき時代遅れですよ。本気で信じている人がいるとも思えませんし。そんなものに頼らずとも、昔にはなかった技術や知恵もあるでしょう」

 そういう問題なのだろうか。とはいえ、消えたテンコウさまはここにいます、なんてことになっては、あなたも困るだろうけれども。

「まあ、未知の存在として、あなたに期待するところがないとは言えませんが。人とは違う何かなら、他にはない知見が得られるかも知れませんからね。もしかしたら、全く違う世界を見ることができるかもしれませんし、我々の知らないことも知ることができるのかもしれません」

 鳩村翼のそんな発言に、あなたは困ったような表情を浮かべていた。私の知る限りでは、彼の言うような特別な何かが、あなたにあるようには思われない。予知の力だって、自分の意志で見られるわけではないようだし。

 その辺りは彼にもわかっていることなのか、鳩村翼は軽い調子でこう続けた。

「とはいえ、あなたが寄っているのは、あくまでも人の脳でしょう? だとしたら、あなたが考えるようなことは、すべて我々にも考え得ること、ということになりますから。過度な期待はしていませんよ」

 そう言って声を上げて笑う鳩村翼に、あなたは何とも言えないような顔をしていた。

 あなたは、あらためてこうたずねる。

「それにしても、あれだけいろいろ話していたのに、私がテンコウさまだということは信じていなかったんですか?」

 鳩村翼は平然とこう答える。

「半信半疑だと言ったじゃないですか。あなたは何と言いますか。人っぽすぎるというか――他者のことを思いつつ、自分のことで悩む。初めてお会いしたときから、あなたはちゃんと人でしたよ」

 彼はそう言って電話を切った。さて、その言葉をどう受け取ったらいいものか。

 おそらく、彼とはもう会うこともないだろう――ないよね? わからないけれども。もしも、次会うことがあるのなら、少しくらいはおごられてもいいかもしれない。

 夜も更けて、そろそろあなたも眠くなってきたようだけれど、流れ星にはまだ会えない。しかし、きっとまた来年、見ることはできるだろう。星が変わらず夜の空で輝き続けるように、季節はまた巡ってくるのだから。

「ほら、やっぱり寝ちゃってる。だから言ったのに。まだ早かったのよ。この子には」

 姉の言葉に振り向くと、義兄の腕の中で眠っている姪の寝顔が目に入った。あなたは小さく苦笑いを浮かべている。

 小瑠璃を起こさないように、一行は静かに家路についた。しんとした冬の夜に、家族の足音だけが響いている。

 そのとき、星たちの間をすうっと一筋の光が走った気がした。

 宇宙はどうやって生まれたのだろう。どうしてそこにあって、どうやって消えていくのだろうか。

 わからないことだらけだ。わからないことは、わからないなりに。そうして、ありのままでいるしかないのかもしれない。私たちのことだって、これからどうなるかはわからないのだから。

 あのときあなたは、ここにいてもいいかな、と私にたずねた。十年間を確かにここで生きてきた。あなたはもちろん、ここにいてもいいのだ。私に問いかけずとも。あなたがそうありたいと思うなら。

 そして私もまた、こう思う。

 私もここにいたい。たとえ考えることくらいしかできない存在だとしても。

 コギト・エルゴ・スム。我思う故に我あり。

 私もここにいさせてもらおう。そうしてあなたの傍らにいて、苦しくも楽しい日々を、ここで見ていたいのだ。




 そういえば、あなたに伝えなければいけないと思っていたことを、ひとつ伝え忘れていることを思い出した。

 あなたが生まれたときのことだ。

 私が私でなくなったあの日、私は何人かの友だちと一緒に神社の境内で遊んでいた。そのとき、友だちの中に寄坐を勤めたことがあるという子がいて、御神体まで見に行こうということになったのだ。

 私はそこで、神事でどんなことをしたのかを教えてもらっている。いろいろと聞いた気もするけれども、とにかく、寄坐は儀式のとき、御神体である巨石の小さな穴みたいなところに手を入れなければならないという話だった。

 けれでも、寄坐以外はその穴に近づくことは固く禁じられている。そこには柵が設けられていたし、何より、それをすると悪いことが起こるということだった。

 そんな話を聞いていたというのに、私はそのとき、こっそりとその穴に手を入れてしまっている。姉の言葉ではないけれども、あの頃の私は悪ガキだった――というか、何というか。とにかく、私は決して良い子ではなかったのだろう。

 とはいえ、それも長い間のことではない。穴の深いところで、指先が何かにふれた気がして、私は慌てて手を引っ込めた。

 友だちにどうしたのとたずねられたので、私は何でもないと答えた気がする。そのとき自分でも確かめたのだが、怪我をしたとか、そういうことはなかったように思う。

 ただ、その穴からは、いつの間にか小さなトカゲが顔を出していた。そのトカゲはまるで何か言いたいことでもあるかのように、私をじっと見つめていたことをよく覚えている。

 その後、私たちはかごめかごめで遊んだり、御神体の周りをぐるぐる走り回ったりした。そうした遊びの中で、私は奇妙な幻のようなものを見ている。

 それは、私がどこか高いところから落ちて倒れている光景で、あのときの私は幼すぎたから、何のことやらぴんとこなかったのだけれど、今にして思えば、あれは私に起こり得る未来だったのだろうと思う。

 お母さんたちはおしゃべりに花を咲かせていたので、私たちはそのうち、その目を盗んで森の方へと走り出した。危ないから遠くに行っちゃダメよ、という制止の声に耳を傾けることもなく。

 そうして、石垣のようなところにたどり着いたとき、私はふいに足を滑らせてしまった。体が宙に浮いたかと思ったのも束の間。私はそのまま、重力によって地面の方へと引かれていく。

 このままでは落ちてしまう、と思ったそのとき、体の中を何かがかけ抜けた。そして、まるで別の意志を得たかのように、私の腕は勝手に動き出したのだ。

 それは呆然として何もできない私の代わりに、近くに生えていた蔦のようなものに手をかけた。それでどうにか、私の体は勢いよく地面に叩きつけられずにすんだらしい。ただし、自分の体重を支えきることができずに、そのままずるずると落ちていったけれども。

 気がつくと、私は崖の下で口をぽかんと開けて座り込んでいた。

 そのうち、私は感覚がふわふわと頼りないことに気づく。驚いた私は、思わず飛び上がろうとしたのだけれども、体はどうしても思うように動かなかった。それは痛いから動けない、といった症状とは明らかに違っていて、私の頭は真っ白になってしまう。

 ひとまず立ち上がろうとする私の意志に反して、私の体はきょろきょろと辺りを見回した。

 そのとき私は確信する。今、この体を動かしているのは私ではない別の何かなのだと。

 あなたはふいに声を上げて泣き出した。まるで生まれたばかりの赤ん坊のように。

 人は生まれたときに、どうして皆泣くのだろう。悲しいから泣くのだろうか。それとも――

 それは、あなたが忘れていた過去。あなたの記憶はそこから始まる。

 あのときあなたがいなければ、私はきっと死んでしまっていたのだろうと思う。今の私の存在は、もしもの未来を垣間見ているようなもの。これは、あなたがいたからこそ見られている夢なんだ。

 生きようと、あなたが必死に手を伸ばしたあの瞬間。

 私が私でなくなって。

 そして、あなたが生まれた。

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樹上の蜥蜴座(ラケルタ) 速水涙子 @hayami_ruiko

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