9-β 卵が先か鶏が先か

「ねえ、りこちゃん。これ、どこでみられる?」

 そう言って小瑠璃が差し出したのは星空の写真集だった。

 私の部屋から本を勝手に持ち出していたのは小瑠璃だったか。そう思いながら、私は開かれたページをのぞき込む。

 小瑠璃が指差す先にはニュージーランドの煌めく星空が広がっていた。さすがに、これをこの近所で見るのは難しいだろう。

 私はできる限りやさしく、さとすようにこう答えた。

「今度、お姉ちゃ……お母さんに、プラネタリウムに連れて行ってもらってね。そこでなら見られるよ」

 とは言ったものの、周辺に小さな子供向けの施設があるのかどうかよくわからない。そもそも、小瑠璃にはまだ早いだろうか――

 そんなことを考えていたものだから、発言に真実味がないとでも思ったのか、小瑠璃は途端にかんしゃくを起こし始める。

「これみるの!」

 機嫌よく遊んでいるときならともかく、こういうときの対処となると私には荷が重い。とにかくなだめようとするのだが、小さな子ども相手に理屈を説くことができるような知恵を、残念ながら私はまだ持ち合わせてはいなかった。

「これは遠くの場所でしか見られないからね。るりちゃんが大きくなったら見ようね」

「るりじゃない! こるり!」

 小瑠璃は本を抱えると、むすっとした顔でリビングを出て行ってしまった。どうやら完全にへそを曲げてしまったらしい。

 父と姉は出かけていて、今は私と小瑠璃のふたりきり。姪は機嫌を損ねると話もしてくれなくなるから、しばらくそっとしておいた方がいいだろうか、とも思うのだが、託されたからには、見守るのも大事な役目だとも思う。

 仏壇のある和室に小瑠璃の姿を見つけて、しばらくは近くで様子をうかがっていた。そのうち気持ちも落ち着いたのか、小瑠璃は私に向かって星についての話をねだり始める。

 小瑠璃にもわかるように、やさしい言葉でいろいろな話をした。夜に船で海を渡るときに星は道しるべになったのだとか、あるいは、星座によって季節や月日の流れを知ったのだとか。

 それから、少し変わった星座についての話もした。例えば――とかげ座とか。新しい星座なので、それにまつわる神話があるわけではないけれども、星の並びで描かれるさまざまなものについて、小瑠璃は興味深そうに聞いていた。

 星がよく見える場所についても話している。月のない暗く澄んだ夜空。広くて高くて周囲に明かりが少ないところ――

 そんなことを話しているうちに、ふと疑問に思った私は、本にかじりついている小瑠璃に向かって、こうたずねた。

「どうしてそんなに星が見たいの?」

 しばし答えを待ったのだが、顔を上げた小瑠璃は何も言わずに私のことをじっと見つめ返してくる。機嫌が悪いわけではなさそうだったので、私は困惑しながらも、ただただ首をかしげていた。

 小さな子どもの考えていることはわからないな。そのときの私は、そう思っていた。




 その日は朝から雨が降っていた。

 昼を過ぎると雨足は急に強くなり、すぐさま嵐の様相となる。今日の予定は何もなかったので、私は自室のベッドに寝そべって、本でも読みなから静かに時を過ごしていた。

 異変を知ったのは、姉が私の部屋に顔を出したとき。ふいに扉が開いたかと思うと、隙間から目つきの悪い姉の顔がのぞき込んだ。

 その形相に、私は思わず飛び上がりそうになる。

「小瑠璃がいない」

 姉はひとことそう言ったが、私はとっさに何のことだかわからなかった。

 平日の今頃なら、小瑠璃は保育園にいるはず。いつもであれば、勤め先から帰宅する途中、姉が迎えに寄っていた。ここに姉がいるということは、小瑠璃も帰っているのでは。

 壁にかかった時計に目を向けてみたが、仕事帰りにしてはまだ早い時間だった。不思議に思っていると、姉は私の部屋を無遠慮に見回しながら、こう続ける。

「保育園にいない。家にも帰ってない。保育士さんにも探してもらってるけど、今は警報が出ているせいで混乱していて……」

 姉は明らかに動揺している。たちの悪い冗談ではなさそうだ。

 どうやら、激しい雨風によって保育園は午後から休みになることが決まったらしい。仕事を切り上げた姉は保育園に迎えに行ったが、そこに小瑠璃の姿はなかった、とのこと。

 父はまだ仕事だろうし、義兄もそうなのかもしれない。あるいは、姉の家にいるのか。いずれにせよ、行き違いがあったということもなさそうだ。

 ことの重大さが、ようやく身に染みてわかってきた。頭の中が、すっと冷えたような感覚がする。

 姉が無言で踵を返したので、私もすぐにその後を追った。姉はリビングに立つと、どこかはわからないが、携帯端末スマホで電話をかけ始める。

 この状況で私ができることなど、いくらもない。テレビをつけて天気の情報を集めるが、雨はしばらく止みそうもなかった。

 姉は思い当たる節を全て当たっているようだが、小瑠璃に関する情報は得られていないようだ。やがて、慌てた様子で父が家に帰って来たときにも、小瑠璃の行方はまだわからないままだった。

 父と姉が何やら深刻そうに話をしている。私はひとり自室で待機を命じられた。

 ごうごうとうなる強い風とばらばらと打ちつけるような激しい雨の音を聞いていると、その恐ろしさに思わず身がすくんでくる。姪はいったいどこにいるのだろう。無事だといいが――そう思うと、途端に居ても立ってもいられなくなった。

 小瑠璃を探しに行こうか。ふと、そう思う。危ないことは承知の上だ。しかし、家族にとっては、得体の知れない存在である私よりも、あの子の方が大事だろう。

 そのとき、鳩村が言った――思い詰めて、その体ごと太陽の果てまで飛び去ったりしないでくださいよ、という言葉を、なぜかふいに思い出した。どうして、そんなことを思い出したのかはわからない。今の今まで完全に忘れていたのに。

 確かに私は得体の知れない存在かもしれないが、この体はそもそも私のものではない。そう考えると、この嵐の中に飛び込むのは、やはり無謀なことのように思えてくる。

 それでも――

 私は端末で付近の地図を呼び出した。画面には原色で塗り分けられた町の地図が現れる。ハザードマップだ。

 町の東には川が流れていて、氾濫の危険があるとの情報がテレビのニュースで流れていた。保育園から家までの経路をたどって、危険な場所を確認していく。

 ――探しに行くの?

 そのとき、どこからか声が聞こえた気がした。

 しかし、とっさに気のせいだろうと思う。あるいは、端末からアクセスした先で、何かの音声が流れてしまったとか。何にせよ、今は取るに足らないことだと考えて、気にしないことにする。

 姉の家へ帰ろうとしたにせよ、この家に向かったにせよ、保育園からこの辺りまで、小さな子どもの足で歩くには少し遠い。晴れている日ならともかく、この雨の中、何ごともなく歩いて来られるとは思えなかった。

 どうしよう。もしも小瑠璃に何かあったら。私みたいなのがのうのうと生きているのに、何の罪もないあの子が危険にさらされるなんてことが、あっていいはずがないだろう。

 やっぱり探しに行こうか。ここで待っているだけだなんて、私には耐えられそうにない。

 小瑠璃が帰って来たときのために、姉は自宅へと戻って行った。父との会話からすると、義兄が車で近所を探しに行くようだ。もしも小瑠璃がこちらに来るといけないので、父はこの家で待つことになっている。

 他に小瑠璃が行きそうなところがあったとしても、すでに連絡は入れてあるだろう。お友だちの家だとか、よく行くお店だとか。それ以外には、どんな可能性があるだろうか。

 小瑠璃はさとい子だ。少しわがままなところはあるけれど。今まで黙っていなくなるなんてことはなかったし、ひとりでどこかへ行ってしまうような子ではないと思う。だとすれば、よほどのことがあったに違いない。

 ――もしかして、神社じゃないかな。

 その言葉に、はっとした。

 神社? どうして神社なのだろう。思いがけない場所だったので、私は思わず、神社、と呟いてしまった。

 そもそも、この声はどこから聞こえてきたのだろうか。さっきの声も、気のせいではなかったのかもしれない。そうでなくとも、小瑠璃の行方を考えているときに、そんな言葉が聞こえるだなんて、偶然にしては出来すぎているような……

 私は部屋の中を見回した。ここには私ひとりきり。誰かがいるはずもない。音を出すようなものがあるとすれば、手元の端末か、あるいは千代ちゃんのラジオくらい――

 千代ちゃんから託されたラジオは、今は本棚の上に置かれている。しまい込むのも違う気がして、けれども、近くにあれば壊してしまいそうで、とりあえずはそこにあるといったところだ。

 これは鉱石ラジオと言って、鉱石を利用して作られた、電気がなくても使えるラジオらしい。ラジオを受け取ってからいろいろと調べてみたのだが、正直言ってよくわからなかった。使ってみたこともない。しかし。

 ――あれ? もしかして、私の声が聞こえてるの?

 かすかなノイズが混じりながらも、声は思いのほかはっきりと私の耳に届いた。私が戸惑っているうちにも、その声はさらにこう続ける。

 ――ねえねえ。だったら、神社に行ってみようよ。私覚えてるよ。あなたが見た未来。

「私が見た未来? 何のこと?」

 思わずそう問いかけると、その声はうれしそうにこう答えた。

 ――この前も、話してたでしょう。ラジオを受け取ったときのことだよ。雨の中、神社で泣いている女の子を見たって。

 私はその言葉に首をかしげた。そうだっけ。いまいちよく覚えていない。そうでなくとも、私は自分が未来を予知できるなんてこと、やはり信じてはいなかった。

 しかし、その声は無邪気にこう続ける。

 ――ラジオを通して私の声が聞こえているんだね。何でなのかよくわからないけど。でも、よかった。思っていることが伝えられて。あなたの力は本物だよ。大丈夫。私はあなたのことを信じているから。

 どうして、そこまで信頼されているのだろうか。わけがわからなかったが、とにかくまずは小瑠璃のことだ。私は声が言ったことについて、あらためて考えてみた。

 あの神社は、付近に何かあったときのための避難所でもある。たとえ小瑠璃がそこにいなくとも、避難している人にたずねれば、もしかしたら何かわかるかもしれない。

 私はひとまず神社へ向かうことにする。おそらく、何の当てもなく探し回るよりはましだろう。

 地図を確認して準備を済ませてから、私は少しだけ迷った末に、ラジオに向かって声をかけた。

「えっと、その……じゃあ、行ってきます」

 ――うん。行ってらっしゃい。って言っても、私はあなたの中にいるんだけどね。

 そんな風に返されるのは、何だか不思議な感じがする。

 傘は役に立たないだろうと思ったので、雨合羽を着て、長靴を履いて、私はひとり家を抜け出した。

 激しい雨で視界はかすみ、吹き荒れる風でうまく息もできない。地上にいるのに、溺れてしまいそうだ。それでも私は、身をすくめるようにして、ゆっくりと前へ進んで行く。

 体を動かすことは苦手だ。無理をすればするほど、自分の体ではないような気がしてくる。それはそもそも、これが私の体ではなかったからだろうか。単に運動不足なだけな気もするが。

 とにかく進むしかない中で、私はあの声のことを考えていた。

 唐突に届いたあの声。確かに聞いたはずなのに、今となっては夢だったかもしれないとすら思っていた。しかし、あれはやはり、本来はこの体を動かしていたはずの、彼女からの声なのだろう。あまりに突然のことだったので、ずいぶんとあっさり言葉を交わしてしまったが――

 あのときの彼女の言葉を思い出す。

 彼女は私のことを信じていると言った。私は彼女に小瑠璃のことを託されたのだろう。そうであるからには、私は彼女の声に必ず応えなければならない。

 たとえどれだけ不自然な存在であっても、私は私でいたいと思ってしまった。けれども、今のままではいられない。こんなダメな私では、私は私自身を許すことができない。

 ここにいたいという思いと、ここにいていいという許しと。強い思いがあるから、ここにいられるのか、誰かに許されたから、ここにいられるのか。どちらが先で、どちらが後なんだろう。

 ここにいたいという思いと一緒に、ここにいてもいいのだろうかという自信のなさが私の中で巡っている。それでも、何度も何度も迷いをくり返しながら、私はこれからも進んで行かなければならない。

 だからこそ、今はとにかく、いなくなった小瑠璃を見つけなければ。

 冠水の危険がある地域を避け、それでも雨水が川のように流れる道と出くわしながら、私はどうにか神社へとたどり着く。

 役場の職員らしき人がいて、避難に来た人たちを誘導していた。私は他の人たちにまぎれて、境内にある会館の中へと入って行く。

 そこには思いがけずたくさんの人がいた。しかし、小瑠璃の姿は見当たらない。

 ここではなかったのだろうか。落胆しかけたが、それでも根気よく探して回っていると、ふいに私を呼ぶ声がした。

「りこちゃん!」

 振り向いた視線の先に小瑠璃がいる。私は小走りで彼女の元へとかけ寄った。

「小瑠璃!」

 抱きしめると、ちゃんと温かな体温が伝わってきた。当の小瑠璃は突然のことに驚いたのか、身をこわばらせている。しかし、私が何度もその名を呼ぶと、そのうちほっとしたように私の体にしがみついた。

「どうしてこんなところにいるの。みんな探してるよ」

 そう言って小瑠璃の顔をのぞき込むと、泣き腫らしたように目が赤くなっていることに気づいた。もしかしたら、怖くて泣いていたのかもしれない。

 しかし、そんなことなど微塵も感じさないよう、小瑠璃は気丈に振るまっている。そして、すぐ側にいた老夫婦を指差すと、ここに至るまでの経緯をたどたどしくも話し始めた。

 保育園が急に休むことが決まって、周囲が慌ただしくなっていた中、小瑠璃はひとりで家まで帰ろうとしたらしい。しかし、激しい雨で歩けなくなっていたところ、この老夫婦に出会い、ここまで連れて来てもらったようだ。

 私は老夫婦にていねいにお礼の言葉を伝えた。

 とにかく、早くお姉ちゃんに無事を知らせなければ。そう思った私は、慌てて端末を取り出した。

 通知の表示が目に入って、いくつか着信があったことを知る。家を抜け出したことがばれたのかもしれない。

 お姉ちゃんの番号を呼び出して、発信しようとしたとき、小瑠璃がふいにこう言った。

「こるりはね。おかあさんがいなくてもだいじょうぶだよ」

 突然何を言い出すのかと思って、私は小瑠璃を見返した。小瑠璃はさらにこう続ける。

「おかあさんがね。おばあちゃんがいなくなっちゃったから、いそがしくなるって。おじいちゃんや、りこちゃんがしんぱいだからって。こるり、だいじょうぶだよっていったの。だから、ひとりでおうちにもかえれるとおもって……」

 私はその言葉にはっとする。

 小さい子どもは何を考えているかわからない――なんて思っていたけれど、この子はこの子なりに、自分がしなければならないことを考えていたのだろう。

 何より、お姉ちゃんが忙しくて寂しかったのは小瑠璃の方なのに。この子は、私よりもよほどしっかりしている。勝手に行動したことは褒められたことではないが、自立しようという気持ちの強さは、姉ゆずりなのかもしれない。

 姉と連絡がついたので、私たちは安全だとわかるまで、その場で待つことにした。天気予報によると、もうすぐ雨は止むらしい。

 そのうち空がすっかり晴れた頃には、時刻は夕方になっていた。私たちは手をつないで家へと帰って行く。

 太陽は地平の彼方に消えてしまい、夕闇が辺りを暗がりに沈めている。そうして少しずつ光を失っていく道を、姪の手を固く握ったまま、私はゆっくりと歩いて行った。

 澄み渡る空には、徐々に小さな星の姿が増えていく。そのときふと、小瑠璃が上空を指差した。

「りこちゃんほら! おほしさま」

 西の空にぽつんとひとつ、輝く星を見つけたらしい。宵の明星。金星だ。

 うれしそうに笑う姪に、私が他にも星が見えていることを教えると、小瑠璃はこう問いかけた。

「おばあちゃんは、どのおほしさま?」

 私は思わず問い返す。

「何? 今、なんて?」

 私の声が思わず震えてしまったからか、小瑠璃は心配そうな表情で私の顔をのぞき込んだ。私が安心させるように笑ってみせると、小瑠璃ほっとしたようにこう続ける。

「おかあさんがね。おばあちゃん、おほしさまになったって。だから、さがしてあげようとおもったの。こるりもさみしかったけど、りこちゃんはもっとさみしそうだったから」

 小瑠璃が星を見たいと言っていたのは、もしかして、このためだったのだろうか。私はふと、そう思う。

 私は姪の頭をやさしく撫でた。

「ありがとう。小瑠璃の気持ちはうれしいよ。でも、私はもう大丈夫。お父さんもお姉ちゃんも、小瑠璃もいるから。私はもう、寂しくないよ」

 私の言葉に、小瑠璃はうんとうなずいた。

 もうすっかり暗くなってしまった頃に、私たちはようやく家に着いた。門前では、家族のみんなが私たちの帰りを待っている。

 しかし、姉の顔を見た途端、私は思わずぎょっとしてしまった。目を真っ赤に腫らしたあげく、顔中を涙でぐちゃぐちゃにした姉が、そこにいたからだ。

 姉は小瑠璃にかけ寄ると、その小さな体を引き寄せて、強く抱きしめた。親子の再会に水を差すまいと、私がそこからおずおずと離れようとすると、途端に姉の腕がこちらへ伸びて来る。

 その手に腕をつかまれて、私は一歩も動けなくなった。

「馬鹿! 馬鹿馬鹿馬鹿。本当にあんたは!」

 声を震わせてそうくり返す姉に、私が呆然としていると、ふいに苦笑いを浮かべている父の表情が目に入った。何だか気恥ずかしくなって、途端に顔が熱くなる。

 姉はひとしきり言いたいことを言い終えると、どうやらすっきりしたらしい。小瑠璃を連れて、さっさと家の中へと入って行った。

 私もその後について行く。家族の元へ。私の居場所へ。

 そうして、そのあとの私は、ひとりで小瑠璃を探しに出たことを、姉に烈火のごとく怒られたのだった。



 小瑠璃のことが落ち着いてから自室に戻った私は、本棚の上にあった鉱石ラジオを机の上に移動させた。そうして、あらためて真っ直ぐに向き合うと、ひとまずこう声をかける。

「えっと、初めまして……?」

 こんな呼びかけでよかっただろうか。不安ではあったが、ほどなくして声が返ってくる。

 ――うん。初めまして。

 どこか楽しそうなその声に、私は思わずほっとした。けれでも、いったい何から話せばいいのか。突然のことすぎて、まだ何も考えられていなかった。

 頭の中では、話さなければならないこと、話したいと思っていたことが、ぐるぐると渦を巻いている。そんな心の内のことなど知る由もなく、声は明るい調子でこう続けた。

 ――小瑠璃が見つかって、よかった。それにあなたと話ができたのも。私、あなたに話しておきたいことがあって……

「あの」

 いろいろなことがあって混乱していた私は、何を話すのかも決められないまま――心のままにそう声を上げていた。

 彼女は言いかけていたことを止めて、私の言葉を待っている。私は勢いのままに、どうしてもたずねたかったことを口にした。

「私はここにいてもいいのかな」

 しかし、口にしてから、すぐにそのことを後悔する。

 どうして、そんなことを聞いてしまったのだろう。彼女からしてみれば、それでいいよ、だなんて、単純に答えられることではないだろうに。

 自分の考えを押しつけてしまった気がして、心の中では今の言葉を取り消したいと思っていた。

 しかし、口から飛び出た問いかけは決して消えることなく、目には見えなくとも部屋の中を静かにただよっている。私はどうにかそれを取り返せないかと考えるように、視線を宙にさ迷わせていた。

 長い沈黙だったようにも思えたが、そうでもなかったかもしれない。ラジオから聞こえるその声は、あっさりとこう答えた。

 ――あなたがいないと、私は何もできないよ。だって、私にも、どうすれば戻れるのかなんて、わからないんだし。

 恨みがましい感じはなく、当然のこと、といった風に、彼女はそう話した。それでも不安を拭い去ることはできず、私はさらにこう問いかける。

「でも、つらくはないの? 私があなたの代わりで、私があなたの居場所を奪ってしまったことは」

 彼女はすぐさま、こう答えた。

 ――私はちゃんと、ここにいる。だから、悲しいことも、楽しいことも、きっとあなたと同じくらいだよ。

 そうだろうか。そんなことはないと思う。人に言えない苦しみを抱えている人がいること、私にはもうわかっていたから。

 それでも、あなたがそう言ってくれるなら、ほんの少し安心できるかもしれない。ずっと一緒にいたあなたなら、私のそんな気持ちもお見通しだろうか。

 そんなことを考えていると、彼女はふと思いついたといった風に、こう提案した。

 ――そうだなあ。それなら、私がしたいこと、言ってもいい?

「な、何?」

 どきどきしながら、問い返す。

 何を言われるのだろう。でも、何を言われたとしても、私は彼女の声に応えなければならない。けれども、もしも私に応えられないことだったら、どうしよう……

 そんな不安をよそに、彼女は明るくこう答えた。

 ――この間、新しくできたお店のドーナツを食べていたでしょう? あれ、おいしかった。また食べたいな。

 思わず、え、と声を上げてしまっていた。

 どういう意味だろう。その言葉には、何か隠された意図があるのだろうか。しかし、どう考えても、そこにそんな深遠な意味があるようには思えない。

「……そんなことでいいの?」

 拍子抜けしたような声でそう返した。しかし、彼女はそんなこと気にする様子もない。

 ――あと、映画を見るなら、こう、すかっとするやつがいいよね。この前、テレビのCMで見たアクション映画とか。それから……

 ぽかんと口を開けた間の抜けた表情で、私は彼女の望みを延々と聞いていた。

 あれ? 何だろう。この展開は。何というか。

 ――あ。ほらほら。ちゃんと書きとめておいて。忘れちゃうから。

 そう言われて、慌てて紙とペンを探しながら、私はこう考えてしまっていた。

 何か、思っていたのと違う……

 私は彼女から、恨みごとのひとつでも聞かされると思っていたのだろう。それなのに、楽しそうにやりたいことを話し続ける彼女に、私は大いに戸惑っていた。

 こんな感じで、いいのだろうか。

 いいんじゃないですか、というひとことが、なぜか鳩村の声で聞こえた気がして、私は何とも言えない表情で苦笑した。

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