8-α 人間は考える葦である
その日、あなたは橘綾乃の家を訪れていた。
門前に立ったあなたは、何度もこの場所で間違いがないかを確認している。なぜなら、彼女の家が思いがけず大邸宅だったからだ。
正面には仰々しい鉄の門が構えられていて、壁に囲まれた敷地も広い。そこにある建物も見るからに立派なものだった。
こんなところに住んでいるなんて、彼女はいったい何者なのだろう。謎の多い人物だとは思っていたが、ここに来て彼女の謎はさらに深まっていた。
表札を確かめたあなたが呼び鈴を鳴らすと、橘綾乃がすぐさま応答する。入るように促されたので、あなたは目の前の門を開け、恐る恐る足を踏み入れた。
玄関で橘綾乃に出迎えられたあなたは、そのまま中へと通される。室内を見回せば、内装や家具からも裕福な生活がうかがえた。吹き抜けのエントランスには、何やら高価そうな美術品が飾られている。
しかし、そこには橘綾乃以外の人影はなく、家族はどうやら不在のようだ。この大きな家にひとりきり。そのせいか、どこか寂しい印象も受けた。
案内された彼女の自室は、これまた普通ではない部屋で、あなたはさらに驚くことになる。
四方の壁に天井まで届く本棚が並べられていて、窓はどこにも見当たらない。そのせいか、玄関や廊下と比べても薄暗く感じられた。この穴倉のような場所で、彼女は毎日を過ごしているのだろうか。
棚には当然ぎっしりと本が並べられている。背表紙で内容がわかるものはほとんどなく、難しそうな本ばかりだ。
まじまじと室内を見ているあなたに向かって、橘綾乃はこう言った。
「私の部屋に誰かを通すなんて、初めて」
「そうなの?」
あなたは意外そうに問い返す。驚いているというよりは、この家に圧倒されているといった感じだが。
「橘さんは普段何をしてるの?」
「大抵は家にいて、本を読んでるかな。たまにふらっと、歩きに出るけど」
これまでに見てきたことを踏まえれば、彼女の答えは何ら意外なものではない。あなたはためらいながらも、さらにこう問いかけた。
「学校に行くつもりはないの?」
「言ったでしょう? 行く必要があるとも思わないって。そもそも私、型にはまったことって嫌いなのよね」
彼女は平然とそう答えたが、あなたはどうにも納得していない様子だ。神妙な面持ちになって、こう話し始めた。
「私、橘さんが来なくなったのは、私のせいかと思ってた。だって、あの後すぐに学校に来なくなったから」
それを聞いた橘綾乃は、小さく肩をすくめている。
「あのことよね。私も思い出した。でも、それは本当にただの偶然。気にしなくてもいいのに。金谷さんって損な性格ね」
橘綾乃は笑っているが、あなたは少しも笑わない。
「でも、橘さんが嫌だと思ったことは確かでしょう。ちゃんと謝りたいと思って。ごめん」
「本当に金谷さんっておもしろい」
橘綾乃は真剣に受け止めた様子もなく、ただくすくすと笑っている。あなたはほんの少し眉をひそめた。
「どうして、私を家に呼んだりしたの?」
橘綾乃は真顔になると、あなたの問いかけにこう答えた。
「あなたの正義を知りたいと思って」
「私の、正義……?」
思いがけない言葉だったのだろう。あなたは頓狂な声を上げている。
「私はね、人の心に興味があるの。それで、あなたみたいに自分を見失っているような人が、どんな考えを持っているのか、話を聞いてみたいと思って」
橘綾乃はそう言うと、近くに並んでいた本を一冊手に取った。そして、それをぱらぱらとながめ始める。
「正義というものは、人の行動原理の根幹となるものだと思っているから。それが正しいものであれ、歪んでいるものであれ、人は自分が心から正義だと信じているものに思考も行動も影響されるもの。だからこそ、私はその人自身を知るためには、それを知るのが一番いいと思っていて」
「はあ」
あなたはぽかんとした顔のまま、ひとまず相槌だけ打った。橘綾乃は本の紙面に目を落としながら、こう続ける。
「あなたは自分を探しているって言っていたでしょう? それって拠りどころをなくしてしまっているんだと思うの。けれども、それは」
「ど、どうして、私にそんな話を?」
あなたが慌てて話をさえぎると、橘綾乃は小さく首をかしげた。
「自分を探すのはどうかと思うけど、自分を知ることは大事なことだと思うから。だから、あなたとあなた自身のことについて、話してみたいと思って。『人は自分自身を知らなければならない。それがたとえ真理を見いだすのに役立たないとしても、すくなくとも自分の生活を律するには役立つ。そして、これ以上正当なことはない。』」
「えっと……それは何?」
「パスカルの『パンセ』」
橘綾乃はそう答えたが、あなたはきっと、頭の中に疑問符を浮かべているだろう。とはいえ、それは私も同じようなものだけれど。
「それで? 金谷さんはどうして自分を探していたの? まずはそれを教えてちょうだい」
橘綾乃は無邪気にそう問いかけた。あなたは言葉を選んでいるのか、しばらく考えから、ようやく口を開く。
「私は家族に嘘をついているの。私は本当の私じゃない、というか何というか」
「……それだけ?」
橘綾乃は拍子抜けしたような顔をした。いったい、どんなことが打ち明けられると思っていたのだろう。
彼女はあからさまにため息をついている。
「自分探しだなんて言うから、あなたはもっと深刻な悩みを抱えているものだと思っていたのだけれど……そうではなかったみたい。あなたは、本当の私というものを知っている。だとしたら、それを探しているだなんて、やっぱりおかしな話ね」
どうやら、あなたと橘綾乃は認識を
しかし、あなたにはそのことを正す気などようだ。あなたがどうしたものかといった表情を浮かべた、そのとき。室内にノックの音が響いた。
橘綾乃がどうぞと声をかける。中年の女性が顔をのぞかせると、あなたの姿を認めて心底驚いたように目を見開いた。
「お友だちが来ていたのね。あなた何も言わないから……」
「いいのよ。お母さん気にしないで」
橘綾乃はすぐさまそう返すと、続けて、何か用? と問い返した。
母親への態度にしては、ずいぶんと冷たい気がする。橘綾乃の母親もその冷ややかさを恐れているかのように、今帰ったわ、とだけ小声で答えた。
その後の、奇妙な沈黙。
「何かお出しするわね。ちょっと待って」
そう言って去ろうとする母親を追うように、橘綾乃は強い口調でこう声をかけた。
「いらないわ」
「でも」
「いいの」
そうした押し問答の末に、結局は母親の方が折れたらしい。何も言わずに、苦々しい表情だけを残して去って行く。
母娘のやりとりを前にして、あなたは終始ぽかんとした顔をしていた。橘綾乃だけは涼しい顔をして、平然とあなたの方へと向き直る。
そして、あっさりとこう言った。
「私はもともと孤児だったの。養子としてこの家に来ているのよ」
突然の告白に、あなたは戸惑いながらこうたずねた。
「それで、お母さんとは仲が悪いの?」
橘綾乃はあなたの問いを一笑する。
「仲が悪い? 別にそんなことはないけれど。でも、母親だと思ったことはないわね。あくまでも、現時点での私の保護者ってだけだから」
あまりに冷たい言い分に、あなたは言葉を失ってしまったようだ。しかし、橘綾乃はあくまでも楽しそうに笑っている。何だか空々しいほどに。
「昔、この家には娘がひとりいたんですって。生きていたら、私と同い年くらいの。だから私はね、死んだ娘の代わりなのよ」
「そう言われたの?」
あなたはそう問い返したが、橘綾乃は首を横に振っている。
「誰もそんなことは言わない。でも、私がそう思っているから、そうなの」
あなたは考え込むような顔をしてから、こう問いかけた。
「あのときにあなたが怒ったのは、そのせい?」
そのとき私も思い出す。あなたの言う、あのときのことを。
「勘がいいのね。そうよ。アヤはね、亡くなった娘と同じ名前なの。だから、そう呼ばれるのは、ちょっと腹が立ってしまって。ごめんなさいね。あなたに悪気なんてないでしょうに」
何ということはない。あなたと橘綾乃が知り合ったとき、あなたは彼女に問いかけたのだ。綾ちゃん、と呼んでもいいか、と。
そういえば、平賀千代に対しても、あなたは当初、千代ちゃんと呼んでいたっけ。ちゃんはやめて、と言われて、それで菅原憂が提案したあの呼び名になったのだ。千代ちゃんはダメでひらっちょはいいのか……と驚いた覚えがある。
あるいは、小瑠璃のことも。るりちゃんるりちゃんと呼んで、あなたはいまだによく怒られている。
ともかく、名前への思い入れは人さまざま。しかし、あなたは知らずに橘綾乃を怒らせてしまったらしい。本人は気にしていない振りをしているけれども、おそらくはそういうことだろう。
彼女は手にしていた本を閉じながら、こう言った。
「私は綾乃。別の何かになったりはしない。私は誰かの望む私にはならない。金谷さんもそうじゃないの? あなたが自分を探すのは、本当の自分でありたいから――自由になりたいからじゃないの。私だって、誰かの代わりなんて、ごめんだもの」
あなたは考え込むように口をつぐんでいる。
「それなら、それはとても簡単なことでしょう。他人のことなんて気にしなければいいの。自分がしたいようにすればいいだけ。誰かが私をどんな風に評価しようと、ただ私は私が思うようにあるだけ」
あなたは悲しそうな表情で、彼女にこう問いかけた。
「今のお母さんのこと、好きじゃないの?」
「どちらでもない。私にとっては、ここは仮宿のようなもの。だから、どうだっていいのよ。学校も家族も」
橘綾乃の言葉に、あなたは悲しげな表情を浮かべた。
「そうやって他人を排除していって、何者にも左右されない、その中心にいるのが、自分というものではないの? そうして自分だけの価値観を持っている人こそが、本当の正義を示せるのだと私は思っている。それはきっと、特別な資質なんだって」
橘綾乃はそう言うと、今まで見たこともないような笑みを浮かべた。うっとりと何かを夢見ているかのような。
そんな彼女を見つめながら、あなたは淡々とこう返す。
「そうかな。私にはよくわからないけれども……他人を排除したいって思うなら、その時点でもう、誰かのことを意識してしまっているように思う。ただ反発しているだけ、というか。それは本当の意味での自由なの?」
おそらく、彼女とっては思いがけない反論だったのだろう。橘綾乃は途端に表情をなくす。
彼女の話を聞いているうちに、私もこんなことを考えていた。
あなたと彼女はどこか似ている。拠りどころを失い、誰にも悲しみを打ち明けられないでいるようなところが。
それでも、あなたと彼女では考え方が真逆だった。つながりを求め続けているあなたと、つながりを拒絶して、それがないことに意味を見いだそうとする彼女と。
そうして思いを
「私の考えに主体性がないって言うの。そんなこと――あなたがそう思っているだけでしょう?」
「うん、そうだね。でも、それはきっとお互いさまだと思う」
あなたの言葉に対して、橘綾乃は怒りをあらわにするかと思われた。しかし、彼女は感情を表に出すことなく、むしろ何かを押し殺したかのように目を閉じてしまう。
「そう……残念ね。あなたなら、わかってくれると思ったんだけど」
そう言って、橘綾乃はため息をついた。ほんの少し寂しそうな顔で。
細い路地を歩いて行くと、目的の場所へとたどり着いた。あやしげなところかと思えば、そうでもない。むしろあまりに普通だったので、すぐにはわからなかったくらいだ。
そこには、占、の文字が書かれた看板が掲げられている。その下には小さな文字で、花鶏の店、ともあった。周囲には他にそれらしき店もないから、ここで間違いないだろう。
入り口を探すと、ビルの側面にある階段を降りた半地下のようなところに扉があるのを見つけた。あなたは意を決して、中へと入って行く。
その先に続いていたのは小さな部屋。橙色のランプだけが灯っている店内は、薄暗いが不思議と落ち着く雰囲気だ。
中央には黒いベルベットの布が敷かれた丸テーブルが置かれていて、その向こうには黒いドレスを身にまとい黒いベールを被った女性が座っている――アトリだ。
「ようこそ、理子ちゃん。私の店へ」
いつもとは違う姿でありながら、いつもと変わらない笑みを浮かべて、彼女はそう言った。驚きながらも、あなたは慌ててこう返す。
「あの、すみません。お時間をいただいて。大丈夫だったでしょうか……」
「今日はもう店じまいしたところよ。ゆっくりしていってちょうだい」
彼女はそう言って笑っている。
店のことを教えてくれたのは菅原憂だった。初めて知ったときは驚いたけれど、あらためて見ると、彼女はこちらの出で立ちの方がしっくりくるような気もする。
「こういう店に来るの、初めてです。お店の名前は、はなにわとりの店……ですか?」
「あれはねえ。花の鶏と書いてアトリと読むのよ」
アトリはそう言うと、あなたにテーブルを挟んだ向かいの席につくよう促した。
店内には占いっぽいものはあまりないと思っていたが、よく見ると部屋の隅には小さな水晶玉や
椅子に座ったあなたと真っ直ぐに向き合うと、アトリはテーブルに両肘をつきながら、軽くおしゃべりをするように切り出した。
「さて。相談したいことは何かしら」
その言葉にうなずいたあなたは、ゆっくりと話し始めた。すべてを。記憶をなくしたと思っていた幼い頃のことから、真実を知って今に至るまでを――
あなたの話を聞いている間、アトリは息を潜めるように沈黙していた。どんな話を聞いても笑うことはない。眉をひそめるようなことも、あるいは、首をかしげることも。淡々と事実を受け止めているかのように。
すべてを話し終えたあなたが息をつくと、アトリもまた、静かに息をはいたようだった。そして、考え込むように目を閉じてから、彼女はぽつりとこう呟く。
「不思議な話ね。脳に寄生する生命体も、未来を予知する力も……」
あなたはアトリの反応をうかがいつつも、うなずきながらこう言った。
「それを言い始めた人が信用できるのかどうか、私にもよくわかりません。嘘をついたり、騙したりといった感じではないんですけど。存在自体がうさんくさいと言うか……それでいて、今流行りの店とかに嬉々として並んでそうな人なんです」
「何それ。何だか私も、その人に会いたくなっちゃったじゃない」
思わずといった風に吹き出したアトリに、あなたは苦笑いを浮かべている。
「私の話、信じてもらえるでしょうか」
アトリはすぐさまうなずいた。
「理子ちゃんは嘘つくような子じゃないものね」
その言葉を聞いて、彼女は強い人だな、と思う。心の中ではきっと信じられないという思いでいっぱいだろうけど、そんなところは微塵も感じさせない。
それまで張りつめていたものが緩んだかのように、あなたもほっとした表情を浮かべている。
「このことは他の誰も知りません。だから、私は何もかもなかったふりをして過ごせばいいだけなのかもしれません。それでも私は、みんなに嘘をつきたくはないんです。だって、私は家族のことや友だちのことが大好きで――だからこそ、ここにいたいと思うから」
あなたはまくし立てるようにこう続ける。
「そう。私はここにいたいんです。私はこの前、家族のことをどうでもいい、と言う子と話をしました。でも、私は違うんです。私は家族のことを、どうでもいいだなんて思わない。私は家族のことが好きだし、家族には私のことをわかって欲しいとも思う。だからこそ、そうできないことがつらいんです」
あなたはそう言うと、問いかけるような視線をアトリに向けた。
「私は家族に本当のことを伝えて、それでもここにいていいんだと、言ってもらいたい。そう言ってもらえるのだと、信じたい。そう考えるのは、虫が良すぎるでしょうか。すべてを明かして、何もかも受け入れて欲しいと望むのは」
それを聞いたアトリは、ふとやさしげな笑みを浮かべた。
「理子ちゃんは、生きることにひたむきなのね。その気持ち、忘れないで欲しいな」
彼女はそう言うと、姿勢を正してから、ふいにこう打ち明けた。
「実はね、私も秘密にしてることがあるの。聞いてくれるかしら」
うなずくあなたを見返しながら、アトリはこう続ける。
「こんな仕事をしているけどね。私ってば特別な力とか何もないのよ。未来も過去も見えないし、心も読めない。幽霊を見たこともない」
彼女のそんな告白に、あなたは呆気にとられたようにぽかんと口を開けている。
「えっと……それ、言っちゃっていいんですか」
あなたがようやくそう返すと、アトリはいたずらっぽく笑みを浮かべた。
「そういうものが見えなくても、占いはできるものだから。ただし、これ他の人には内緒ね」
人差し指を口に当てて笑う彼女と一緒に、あなたも少しだけ笑っている。
アトリは小さく肩をすくめながら、こう続けた。
「もちろん、特別な力を否定するわけじゃない。知り合いにはそういう力を持っていると言う人もいるし。霊と思われるものが見えたり、妙に勘がよかったりね。理子ちゃんは共感覚って知ってる? 文字や音に色があるように感じたりするんですって。まあ、そんな風に、世界が人とは違うように見える人はいるのよ。だから、そういう不思議なことはあるんだと思う」
そこでひと息つくと、彼女は静かに目を閉じた。
「だけど、私は違う。私はただ目の前にいるその人を見て、その人が語ることを聞いて、それで答えを示しているだけ。それでも、お客さんの中には私が特別な力を持っているのだと信じてる人もいる。私はあえて否定したりはしないの。その方が、うまくいくこともあるから」
彼女はそこで小さく苦笑いを浮かべた。
「本当のことを知ったら、がっかりする人もいるでしょうね。もしかしたら、怒られるかもしれない。でもね。私は、私の元にやって来る人たちに寄り添うためなら、私にできることは何でもしたいと思っているの。そうして、その人のためになると思う言葉を届けられるなら、嘘だってつく。それが正しいことかはわからないけれども、それは確かに私のやりたいことだから」
そう言うと、アトリはテーブルに肘をつきながら、小さく首をかしげてみせた。
「どう? 私って虫がよすぎるかしら。でもね。私は今さら、この生き方をあらためられないのよ。呆れてくれてかまわない。自分の心は自分で決められたとしても、他人の心までは決められないものだから」
「他人の心までは、決められない?」
あなたがそう問い返すと、アトリはゆっくりとうなずき返した。
「ええ。でも、だからこそ、自分にとって何より大事なのは、自分自身の気持ちなの。理子ちゃんは、さっきこう言ったでしょう? ここにいたいって。それでいいの。もちろん、お互いの主張がぶつかり合うなら、相手と話し合わなければいけないときもある。話したところで理解してもらえるとは限らないし、すべてを受け入れてもらうのは難しいことだけれど……」
アトリはあなたの目を真っ直ぐに見返した。
「でも、だからこそ理子ちゃんはゆっくりと考えてね。焦っちゃダメ。これはね、いろいろな人と話してきた私からのアドバイス。チャンスを待つことは、悪いことではないわ。嘘をついたり、真実を伝えないことで人を貶めるような人も確かにいるけれど、あなたはそうじゃない。だから、その気持ちがあれば、あなたはきっと大丈夫」
ほほ笑むアトリを見つめながら、あなたはしばらく何かを考え込んでいるようだった。しかし、そのうち深々とうなずいたかと思うと、こう話し始める。
「いろいろなことがあって、私は私に自信が持てなくなっていました。自分というものは、もうなくなってしまったんだと。でも、そんなことはなかったと、今では思います。私は確かにここにいました。誰かの期待に応えられないことが怖くて、周りに合わせていた私とも違う。それが受け入れられるかどうかはわからないけれども、もう少しゆっくり考えてみようと思います」
あなたはそう言うと、少しだけ照れたようにはにかんだ。それをごまかすように、すぐさまこう続ける。
「来年のお祭で神事を見て、もしもまた彼女の声が聞こえたなら、今度はちゃんと話してみようと思います。あのとき私が誰より話さなければならなかった相手は、きっと彼女だったと思うから。もしかしたら、遅いって怒られるかもしれないけれども、話してみないと何もわからないってこと、いろいろな人と話してみて、ようやくわかったんです」
アトリはうなずき、こう言った。
「何かあったら、また相談に来てちょうだい。いつでも大歓迎よ」
「ありがとうございます」
そう言ったあなたの顔は、いつになく晴れやかだ。
あなたの考えを知って、私もいろいろなことを思い返していた。
初めて私のことを知ったとき、あなたは何を思ったのだろうか。知らなければよかったと、あるいはすべてを忘れたい、と――そう思ったこともあっただろうか。
思えば私も、いつかのときに、私はもういない方がいいのかもしれない、と――そんな風に考えたこともあった。誰にも声が届かないなら、心なんてなかった方がいいのに、と。
けれども、今は違う。私はあなたと話ができることを楽しみにしていた。あなたが私のことをどう思っているかはわからないけれども、私はあなたのことをよく知っていたから。
だって、私はあなたが楽しいときも嬉しいときも、悲しいときも苦しいときも、いつでも一緒にいたんだから。これはもう、魂の双子のようなものではないだろうか。
そんなことを話したら、あなたは驚いてしまうかもしれないけれども。
それからもうひとつ、私には気がかりなことがあった。
あなたのことをずっと見ているうちに気づいたのだけれど、どうやらあなたは、あのときのことを忘れてしまっているらしい。もしも、話すことができたなら、私はあなたにそれを伝えなくてはならなかった。私のためにも。あなたのためにも――
さまざまなことに思いを巡らせながら、私はそんなことを考えていた。
*『人は自分自身を知らなければならない。それがたとえ真理を見いだすのに役立たないとしても、すくなくとも自分の生活を律するには役立つ。そして、これ以上正当なことはない。』
パスカル『パンセ』(中公文庫)より引用
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