中華街探検
その板谷沙都子ちゃんには次の休日に会えた。幸奈に紹介されたのではなく、部屋を出たところで遭遇したのだった。
これが「さとちゃん」かと笑顔になった美晴だったが、まずは隣人としてきちんと挨拶する。
「先日隣に越してきました椎名美晴といいます。よろしくお願いします」
「ども、板谷沙都子ッス。よろしくッス」
おもしろいと幸奈が言った沙都子は、ちょっと美晴の周囲にはいないタイプだった。
黒のセミロングヘアにスモーキーピンクとモスグリーンのメッシュ入り。おしゃれな髪を後ろにまとめていて化粧っけはなく、体育会のような丁寧語で話す。でもひょうひょうとした、軽やかな雰囲気の人だ。
「ええと、そっちに住んでる宮下幸奈と私、高校の同級生で」
「ああユッキーさんの。んじゃシーナさんも先輩ッスね」
「いやもう大人なんで、ちょっとの年の差だけで先輩後輩っていうのやめましょうよ。職業だって違いますし。ぜひ気楽な隣人として仲良くしてください」
「そうッスか、あざす」
ふへっと笑った沙都子は、出勤するッス、と出かけていった。動きやすそうなパンツスーツでキビキビしている。写真屋の助手って何をするんだろう。
「さとちゃん……て私も呼んでいいかなあ」
なんだか部活の後輩みたいだった。しゃべり方のせいかもしれない。慕われる先輩になれるだろうか。先輩後輩じゃなくと言ったくせにそんなことを考えてしまい、美晴は照れて笑った。
今日の美晴は観光地を散歩するつもりで部屋を出ていた。なので駅へ向かうのとは反対に歩いてみる。
丘の上の山手本通りまで出ると汐汲坂という細い急坂があった。おりていく途中にはギャラリーや隠れ家的レストランがひっそりたたずむ。かと思えば幼稚園があって、子どもたちが駆け回って遊んでいた。
「……ん? 文学碑?」
幼稚園の前の看板に何やら由来が書いてある。中島敦という文豪ゆかりの地らしく、園庭の奥に碑が建てられているのだった。国語の授業に出てきた人かもしれないが、美晴の記憶からはすっぽり抜け落ちていた。
「使わない知識って忘れるよね……」
ここで育つ園児たちのほうがよほど賢そうに思えてくる。のぞきこんでいたら元気に手を振られてしまい、苦笑いした美晴は足早に立ち去った。
坂の下は元町商店街だ。人気の服飾店とカフェが並び、犬を連れて歩いている人までいちいちおしゃれに見えた。そして路肩のパーキングに停まっている外車がお高そう。
あとは宝石店も点在していた。婚約指輪や結婚指輪の広告が美晴の心に刺さる。二十代どん詰まりにきて彼氏と別れた身なので。
「だけどあのまま結婚にこぎつけても、さ」
きっといずれ不倫騒動を起こされることになっただろう。それよりマシだったと考えるしかない。
職場ではひとまず落ち着いて仕事ができていた。店舗内のレイアウトや品ぞろえにも慣れたし、同僚たちも前店での騒動には表向き言及してこない。裏で何か言われているかもという被害妄想は、持たないように自制していた。
でもそう思えるのは幸奈が近所にいたからだと思う。逃げ場があるのは大事なことなのだ。
ひとり気楽にぶらりと歩くのは思ったより楽しかった。まだ昼前だし、海も見ようと山下公園へ向かってみる。
「うわ……っ」
港が近づくといきなり風が強くなった。秋の海風はニットだけだとすこし肌寒い。
公園沿いの道は両側がイチョウ並木で、葉はまだ緑色を残しているのに歩道には銀杏がたくさん落ちていた。けっこう臭い。マリンタワー前なんてザ・ヨコハマな場所が、空気はおしゃれじゃなくてなんだか笑えた。
足早に公園に逃げ込んだら、すぐそこにバラ園がある。秋のバラと様々な花が咲きみだれていて夢のようだ。やや低くなった花壇に近づくと芳香がただよい、こんどこそおしゃれだった。
岸壁まで来ると意外に風がない。港の波もおだやかで、大桟橋にはクルーズ船が停泊していた。公園の真ん中にある噴水には何かの女神像が立っていて、そういえばこのあたりはニュース番組でよく映るかも、と気づいた。
見回すと海と反対側、道路の向こうの方に青っぽい門があり、あ、となった。あれが中華街の朝陽門か。よし、行ってみよう。
足を踏み入れた中華街は、日本だか台湾だかわからない不思議な街並みだった。
入ってすぐにあるのはパンダキャラだらけの観光案内所、そしてシウマイ屋。全国的にはシュウマイだけど、ここの商品は〈シウマイ〉というらしい。
「――今日は食べ歩きかな」
お昼はどこかで食べようと思って出てきていた。お店に入ってもいいけれど、あちこちで観光客が立ち食いしていて目の毒だ。見ていると参加したくなる。とりあえず何があるのか物色して歩くことにした。
「ええと、肉まん……胡椒餅……大きな唐揚げがいい匂い。いやちょっと、チャーシューメロンパンってどういうこと、甘いしょっぱいの無限機関なうえにカロリー爆弾じゃん!」
ワンハンドで食べられる北京ダックや、イチゴとマスカットのフルーツ飴にも心ひかれる。目移りしてしょうがないが、美晴はそんなに大食いではないので食べるものは厳選しなければならないのだ。まあこれからは近所なんだから、しょっちゅう来られるんだけど。
まずは人気の焼小籠包にした。四個入りで、半分ずつ味が違うらしい。
道の端に立ちどまり、割り箸で白い皮を破った。これはフカヒレ小籠包。中から熱々で透明の汁があふれ出し、期待に目を細めた。汁が容器にこぼれるのはそのままにして、とりあえず本体をかじる。
「あふっ、うまっ」
焼かれた底面がガリリと香ばしく、肉はじゅんわりジューシー。チュルンと出てきたのがフカヒレの繊維なのだろうけど、ぶっちゃければ美晴に高級食材の味などわからない。でも食感は楽しめるし、スープの旨味が心に染みた。
大満足しながら周りを見ると、おひとり様はあまりいなかった。そりゃそうか、みんなで遊びに来るところだし。
「……でも、負けないもんね」
アラサー女子を舐めるなよ。
好きなことをして生きられる、超ボーナスタイムが今なのだ。フリーになった醍醐味ってこれかもしれない。
お腹に余裕があった美晴はさらにハリネズミまんも買ってみた。見た目の可愛さに食べるのがためらわれたが、ガブリといく。尖ったハリ部分の生地はクッキーっぽく、中がとろけるカスタード。
「はああ……こーゆーのなんだよ」
解放感に上を向いたら、漢字だらけの看板の上に鳩が群れていた。
なんだかすごく、幸せだった。
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