第3話 二つの解決法
魔界?
ゴミモンスター?
広明の脳は、突如として降りかかってきた非現実的な単語の奔流に、完全に処理能力の限界を超えていた。
理解しようとすればするほど、思考は空回りし、現実感が希薄になっていく。
目の前でふわふわと浮遊する女神と、床を蠢く染みスライム。この部屋で起きていること全てが、もはや悪質な冗談か、質の悪い悪夢のようにしか思えない。
恐怖を通り越して、一種の脱力感、あるいは諦念のようなものが、彼の心を支配し始めていた。
しかし、広明のそんな内面を知ってか知らずか、
「空間は歪み、外界への道は、お主の穢れによって完全に塞がれてしもうた。今の状況は、いわば自業自得。お主は、自らが長年かけて作り出したこの汚染領域・ゴミ屋敷大魔境に、完全に閉じ込められたも同然じゃ」
「で、出口がないって……!」
その言葉で、広明はわずかに現実に引き戻され続ける。
「じゃあ、俺、大学は!? 今日1限から、落としたら留年確定の必修科目なんだぞ!」
単位への執着という、極めて現実的な問題が、彼の意識を覚醒させた。
「知るか、そのような俗事」
「それよりも、この魔境からの脱出方法じゃ。よく聞け……」
女神の言葉に、「脱出」という
「だ、脱出する方法はあるのか!? でも、今さっき外界への道は閉ざされたって……?」
広明の表情にわずかな希望の色が浮かぶのを見て取ったのか、
しかし、すぐにその表情を引き締めると、再び神妙な面持ちで言葉を継いだ。
「二つだけな」
女神は、焦らすように、あるいはその選択の重さを示すかのように、ゆっくりと間を置いた。そして、小さな人差し指をすっと立てる。
「一つは……この部屋全体を、魔界の住人ですら『うわ。こいつの衛生観念、マジ引くわ……』とドン引きするレベルまで、徹底的に、完璧に、掃き清めることじゃ。それには、床の隅のホコリ一つ、壁のシミ一つ残さぬほどの、狂気じみた徹底性と、神域に匹敵する清潔さが求められるぞ」
広明の顔に浮かんだ希望の色が、見る見るうちに絶望の色へと変わっていくのを、
「そ、掃除……!?」
広明は、頭を抱えてその場に崩れ落ちそうになった。
完璧な清掃?
このゴミの海を?
しかも、狂気じみたレベルで?
それは、五大陸最高峰を登頂するよりも、はるかに困難で、非現実的なミッションに思えた。
「む、無理だ……。絶対に無理だ……! 俺一人でなんて……!」
広明は、力なく首を振り、うなだれる。
視界に入るのは、どこまでも続くゴミの山、山、山。
絶望が再び彼の心を覆い尽くそうとした、その時。
「まあ、そう悲観するな。もう一つ、道はある」
「もう一つは、この大魔境の奥深く、最も穢れの
「《穢れの核》……? それを浄化すれば、この魔境から出られるのか!?」
広明の目に、再び光が宿った。
「それなら、掃除よりずっと簡単じゃないか!」
掃除という絶望的な選択肢に比べれば、《穢れの核》の浄化という方が、まだしもファンタジー的で、攻略のし甲斐があるように思えたのだ。
広明の単純な反応を見て、
そして、立てていた指を引っ込めると、代わりに右手の人差し指を立て、それをチッチッ、と左右に振ってみせる。
その仕草は、子供を諭すようで、妙に偉そうではあったが、不思議と嫌味な感じはしなかった。
「そう甘くはないぞ、小僧。先程も言ったであろう? この部屋はすでに魔界に通じ、お主が生み出した様々なゴミや汚れが、モンスターとなって蠢いておる。《穢れの核》に至る道は、それら危険な魔物どもが徘徊する、文字通りの魔境じゃ。浄化には、相応の覚悟と……。そう、『戦う力』が必要となるぞ」
女神の言葉は、広明の高揚しかけた気分に冷や水を浴びせた。
そうだ、忘れていた。この部屋には、あの気味の染みスライムのような存在が、他にも無数にいるかもしれないのだ。
「戦うって……どうやってだよ。武器なんて持ってないし……」
広明は途方に暮れる。
「ふむ。まあ、そこらを見渡せば、使えそうなガラクタの一つや二つ、転がっておるじゃろうて」
「例えば、そこの棒なぞ、長さがあって扱いやすいかもしれんぞ?」
女神が指し示したのは、広明が大学の測量実習で使い、そのまま部屋の隅に立てかけてあった、赤と白の縞模様が特徴的なジュラルミン製の棒――測量ポールだった。
ジュラルミンはアルミニウム合金の一種で、軽量でありながら高い強度を持つ。鉄ほどの硬度はないが、そこらの棒切れよりはずっと頑丈だ。
持ち運びしやすいように伸縮式になっており、最大まで伸ばせば2mの長さになる。
太さも握りやすく、打撃力も期待できそうだ。
そして何より、先端部は地面に突き刺しやすいように金属製で尖っている。
「これは……。武器になるかもしれない」
広明は、土木工学を専攻している自分に、思わぬ形で専門道具が役立つ可能性を感じた。彼は測量ポールを持ち、重さと強度を確かめるように数回振ってみる。
ずしりとした重みが手に伝わり、先端の金属部分が鈍い光を放った。
これは、槍としても使え、鈍器としても使えそうだ。
「……マジかよ」
広明は、しばし逡巡した。
これを武器として使う?
魔物とはいえ、これで殴ったり突いたりするのか?
考えようによっては、正当防衛が成立するか怪しいレベルの立派な凶器だ。
しかし、他に選択肢はない。
生き残るためには、これを使うしかないのだ。
広明は深呼吸を一つした。
早鐘のように鳴っていた心臓が、少しだけ落ち着きを取り戻し、代わりに腹の底から奇妙な覚悟のようなものが湧き上がってくるのを感じた。
(とにかく、やるしかないんだ……!)
広明は、自分の部屋(大魔境)からの脱出と、なにより自分自身の生命維持という、二つの重く――。極めて個人的な十字架を背負う覚悟を決めた。
いや、それは覚悟というより、半ばヤケクソの決意表明だったかもしれない。
「それで、その《穢れの核》ってやつを目指せばいいんだな?」
広明は、測量ポールを握りしめ、
だが、女神は再び首を横に振った。
「慌てるでない、小僧。それはあくまで根本的な解決策じゃ。いきなり最深部に突入して、返り討ちにあって死んでしまっては元も子もないであろう?」
女神は広明の頭をポンポンと叩き、続けて提言する。
「今回、まず目指すべきは、玄関ドア。外界へと繋がる唯一の脱出ルートを確保するのじゃ。そうでなければ、お主が気にしていた、1限目の講義にも到底間に合わぬであろう?」
なるほど、確かにその通りだ。
まずは出口の確保。
それは、いざという時の退路を確保することにも繋がる。
ゲーム知識だが、ダンジョン攻略の基本だ。玄関を安全地帯として確保できれば、今後の探索も少しは楽になるかもしれない。
「……分かった。まずは玄関を目指す」
広明は頷いた。
「
腹を括った広明の、その目に宿る決意の光を見て、
広明の、六畳一間からの脱出を賭けた、最初の戦いが始まろうとしていた。
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