第2話 矢乃波波木神《ヤノハハキノカミ》

 広明は、空中に浮かぶその小さな少女に、思わず間の抜けた声を上げてしまった。

「うお!?」

 この世で最も忌み嫌うG(悪魔)ほどではないにしろ、人は理解を超えたものを間近で見ると、やはり声が出てしまうものらしい。

 目の前の少女は、まるで重力という物理法則を完全に無視しているかのように、ふわふわと、頼りなげに空中に浮かんでいた。

 その姿は、いにしえの絵巻物から抜け出してきたかのような、みやびやかさそのものだった。

 絹糸のように滑らかで、光を束ねて紡いだかのような清らかな白い長髪が、小さな背中までさらりと流れ落ちている。丁寧に切り揃えられた前髪の下には、吸い込まれそうなほど大きな黒い瞳が、まるで驚いた小動物のように、ぱちくりと愛らしく瞬いていた。

 小柄な体躯を包むのは、夜明け前の空の色を写し取ったかのような、淡い水浅葱みずあさぎ色の柔らかな衣裳きぬも。肩から背中にかけては、まるで天女が纏うかのような、雲のごとき純白の領巾ひれがゆったりと掛けられており、風もないのに微かに揺らめいている。

 そこから覗く腕や脚もまた、雪のように透き通る白さで、触れれば壊れてしまいそうなほど華奢に見えた。

 その姿は、今にも淡い光と共に消え入りそうなほど可憐で、儚い。歳の頃は、見た目だけなら十にも満たないように見える。

 まるで、熟練の職人が魂を込めて作り上げた、最高傑作のビスクドールのような、完璧な美しさを持つ少女が、そこにいたのだ。

「な……なんだ、妖精? いや、人形……?」

 広明の口から、混乱した呟きが漏れた。自分の部屋に、こんな非現実的な存在がいる。悪夢だとしても出来すぎている。

 すると、その小さな少女は、ぷん、と可愛らしく頬を膨らませ、見た目に反して凛とした、しかし小さいながらもよく通る声で反論した。

「妖精でも人形でもないわ! 失礼な奴め!」

 怒った顔ですら、妙に庇護欲をかき立てられる愛らしさがある。

 広明は、自分の部屋に突如出現した、この奇妙で、美しく。

 そして、明らかに普通ではない訪問者を、ただ呆然と見つめるしかなかった。

「しゃべったああぁぁぁぁぁ――!」

 次の瞬間、広明の理性のダムは決壊した。

「朝からトリプルショーック! 変な生き物! 部屋の異次元空間化! そのうえ喋る謎の美少女(浮遊)! 俺の頭、ついにイカれたか!? ヤバい、マジでヤバいって! 誰かっ! 誰かこの状況を説明してくれぇぇぇぇ~!」

 広明は錯乱のあまり、両手で頭を挟み、意味不明な絶叫を繰り返した。ゴミの海の中で一人、狂ったように叫ぶ自分の姿は、客観的に見れば相当哀れだろう。

 しかし、今の彼にそんな余裕はない。

 そんな広明の醜態にも構わず、宙に浮かぶ不思議な少女は、やれやれといった風に小さな溜息をつくような仕草を見せ、言葉を続けた。

「……やかましいぞ、小僧。落ち着かぬか。それはともかく、ようやく己の住処の、この尋常ならざる『変化』に気づいたようじゃの。実はの……」

 少女は、小さな腕を組んだまま、すっと目を伏せた。

 その仕草には、見た目の幼さとは裏腹に、全てを知る者のような、あるいは賢者のような雰囲気が漂っていた。その言葉の重みに、広明の錯乱した動きがピタリと止まる。

 六畳一間の部屋が、まるでゴムのように引き伸ばされ、天井は禍々しい紫色の空に変わり果て、得体のしれない生物が床を蠢いている。この異常事態。目の前の少女は、その原因を知っている? もしかしたら、元に戻る方法も?

 そう思い至った瞬間、堰を切ったように、広明の口から疑問符の洪水が溢れ出した。

「一体、どうなってんだよ!? なんで俺の部屋はこんな変なことになってんだ!?  ここはいつから俺の知らない異世界に!? まさか世界滅亡!? そもそもお前、何者なんだ!? どこから来た? なんで浮いてんの? あ、俺がおかしいわけじゃないよな!? 他の奴にもお前が見えてるのか!? ていうか、なんで俺だけこんな目に!? どうやったら元に戻るんだよぉ!?」

 混乱の極みにあった広明の思考は、論理的な繋がりを失い、疑問、不安、恐怖が支離滅裂な言葉となって、濁流のように口から流れ出ていく。

 怒涛のごとく押し寄せる質問の嵐に、宙に浮かぶ少女の眉がぴくりと動き、その額に青筋が浮かぶのが見えた。

 彼女の周囲の空気が、わずかにピリつくのを感じる。

 広明の言葉がようやく途切れたタイミングを見計らい、少女の小さな手に、突如として一本のほうきが出現した。

 自身の身長ほどもある、清らかな白木の柄に、黄金色の稲穂のような穂先を持つ、神具然としたほうきだ。

 柄には、白い紙垂しでが揺れている。

 そして、次の瞬間。

 鋭い風切り音と共に、そのほうきが流星のごとき速さで、広明の頭頂部めがけて振り下ろされた!


 カッ!


 乾いた。

 しかし、妙に高い音が響き。

 少し遅れて、脳髄まで響くような激痛が広明を襲った。

「ぐっ……!」

 目から火花が散り、視界が白く染まる。あまりの痛みに声も出せず、広明はその場にうずくまり、悶絶した。

 頭上から、玲瓏れいろうだが、明確な苛立ちを含んだ声が降ってくる。

「やかましい! 一度に沢山質問するでない! ワタシの話が終わっておらぬというのに、貴様はいつまでしゃべり続けるつもりじゃ! 少しは礼儀をわきまえよ、この無礼者め!」

 少女の言葉には、疑いようのない怒気が込められていた。

 確かに、初対面の相手に、しかも自分の話の途中で矢継ぎ早に質問攻めにしたのは、広明が悪かった。相手が少女であれば尚更だ。

 痛みと反省で、広明の混乱した頭が少しだけ冷静さを取り戻す。

「……は、はい。も、申し訳ありませんでした……」

 広明は、殴られた箇所を押さえながら、とりあえず頭を下げて謝罪した。

「全くもって、嘆かわしい……」

 今度は呆れたような声と共に、ふぅ、と溜息のような気配が頭上から降ってきた。広明がチラリと見上げると、少女は相変わらず宙に浮いたまま、小さな腕を組み、やれやれといった様子で首を振っている。

 その仕草は妙に人間臭く、少しだけ親近感が湧いたが、彼女が空中に浮いている時点で、やはり尋常な存在ではないことを再認識させられた。

「あの……失礼ですが、あなたは、どなた様でしょうか?」

 まだジンジンと痛む頭を撫でさすりながら、広明は改めて、今度は丁寧な口調で問いかけた。

 すると、途端に少女の表情がぱあっと輝き、得意げに小さな胸を張った。

 どうやら、自分のことを聞かれるのは満更でもないらしい。

 あるいは、自分の存在を知られていないことを、気にしているのかもしれない。宙に浮かんだまま、両手を腰に当てて、ふふん、と鼻を鳴らすその様子は、どことなく自慢げですらあった。

「うむ! よくぞ聞いてくれた! まずは名前からじゃな。心して聞くがよい、ワタシの名は――矢乃波波木神ヤノハハキノカミじゃ!」

 少女は、自信たっぷりに、少し発音しにくそうな名前を告げた。

 広明は、その聞き慣れない響きに、ただ首を傾げるしかなかった。

 ヤノ…ハハキ…ノカミ?

  少なくとも「カミ」は聞き取れたが、他は一体どんな字を書くのか、全く見当もつかない。

(え? 神様なの?)

 広明は思ったものの、そもそも、そんな名前の神様、聞いたことがあっただろうか?

 広明の、あまりにも素直な無反応。

 それは、場の空気を一瞬で凍りつかせ、世界に気まずい静寂と沈黙をもたらした。


 ―――――――――。


「……えーっと……ど、どちら様、でしたでしょうか…?」

 あまりの静寂に耐えかね、広明は、恐る恐るもう一度尋ねてみた。

 瞬間、少女の体が、怒りか屈辱か、あるいはその両方か、わなわなと小刻みに震え始めた。ほうきを握る小さな両手――力が入り過ぎて白くなった拳を、ゆっくりと自分の胸の前まで持ち上げる。

「き、貴様ぁぁぁ! このワタシを、伊勢の内宮ないくうに祀られ、家と土地を掃き清め守護する、尊きほうきの女神! 矢乃波波木神ヤノハハキノカミの名を知らぬと申すかーっ!! この不敬者めがーっ!!!」

 雷鳴のような怒号と共に、再びほうきが振り上げられ、今度は広明の後頭部目掛けて、情け容赦なく振り下ろされた!


 ゴッ!


 鈍い衝撃。

 今度こそ視界が完全に真っ白になり、目の前に無数の星が瞬いた。

 さすがに二度目の不意打ちは、広明の意識を刈り取る寸前だった。

 そんな無残な広明を見下ろしつつ、ふんっ、と矢乃波波木神ヤノハハキノカミは不満げに鼻を鳴らした。


矢乃波波木神ヤノハハキノカミ

 掃除道具である「ほうき」に宿るとされている女神。

 魔を祓い、家や土地を守る神様。

 伊勢神宮内宮に祀られているが、『古事記』『日本書紀』の記紀神話に登場しておらず、その事からあまり一般的には知られていない。

 しかし、民間信仰では箒神として知られる神様となっている。

 箒の神という神格以外にも屋敷の神、安産の神としての側面も持っている事もあり、現在においても根強い信仰が脈々と続いている。

 矢乃波波木神ヤノハハキノカミが産神とされるようになったのは、ヤノハハキの名前の「ハハキ」という部分が「母木」に通じるとされ、そこから「母木=生命を産む木」という考え方が生まれた事によって産神とされるようになったと言われれている。

 また、もうひとつの神格である「屋敷神」というのはヤノハハキがアマテラスの宮の建つ敷地を守護するという役目を担っている事から発生したと考えられており、ヤノハハキは古代の朝廷においても天照大神アマテラスオオカミが鎮座する伊勢の宮地の敷地を守る神として崇められていたと伝えられている。

 その為、この神様の原像は土地に宿る神霊で、土地に住む人々の生活を守る産土神ともされる。

 尚、ほうきでゴミを掃き寄せるという行為は霊魂をかき集めるという行為に変換される事によって、ほうきは神秘的な力を持つ道具と考えられるようになり、様々な占いや儀式にも呪物としても用いられるようになった。


 矢乃波波木神ヤノハハキノカミほうきによる物理攻撃は、神罰と呼ぶにはあまりにも直接的で、強烈だった。

 ――痛い。

 正直、めちゃくちゃ痛かった。

 涙がじわりと滲み、星がまだチカチカしている。

 とはいえ、これで彼女が「矢乃波波木神ヤノハハキノカミ」という名前の神様であることは、広明の脳髄に深く刻み込まれた。

 生涯。

 いや、死んでも忘れることはない。

「……そ、それで、その、有り難くも恐ろしい女神様が、どうしてまた、この悪ふざけのような状況に……?」

 広明は、理不尽な暴力への恨みを込めつつも、涙目のまま矢乃波波木神ヤノハハキノカミを見た。

 しかし、当の本人はどこ吹く風。むしろ、「よくぞ聞いてくれた」とばかりに、再び得意げに胸を張る。

「ふざけてなどおらんわ! 現実を見よ、小僧!」

 矢乃波波木神ヤノハハキノカミ神は、ほうきの先で、先程の粘菌状の生物――むにゅむにゅとポテチの欠片を捕食中の――を指し示した。

「あれは、お主がラーメンスープを溢したにも関わらす掃除をしなかったことで床にできた染みが、この地の淀んだ気と魔界の瘴気によって変質した、染みスライムじゃ」

 女神は、さも当然のように、若干ドヤ顔で言い放つが、広明にはそのネーミングセンスも含めて全く理解が追いつかない。

 ぽかんと口を開けたまま固まる広明を尻目に、矢乃波波木神ヤノハハキノカミは厳粛な口調で説明を続けた。

「この部屋のゴミモンスターは染みスライムだけではない。お主が捨て置いた、ほんの僅かな残滓ざんしすら、この魔境では命を得るのじゃ」

「床の染みから、スライム!?」

 広明は愕然とする。

 床を汚したラーメンスープが、あんな気味の悪い物体を生み出すというのか?

 信じ難い。

 だが、目の前の現実は、それを肯定していた。

「お主の飽くなき怠惰が生み出したこの惨状! 清浄なる気が淀みきり、不浄なるけがれが、もはや飽和状態となって満ち満ちておる! もはやここは、お主が知る単なる汚部屋ではない!」

 矢乃波波木神ヤノハハキノカミの声には、神としての威厳と、深い憂いが宿っていた。

「次元の壁に、お主の部屋の汚さが原因で亀裂が生じ、あろうことか《穢れの魔界》の一部と接続されてしまったのじゃ!」

「《穢れの魔界》……」

 広明は呆然と繰り返すしかなかった。

「うむ。平たく言えば、お主の部屋は『大魔境』と化した。お主が生み出したゴミや汚れが、魔界の瘴気にあてられて魔力を帯び、魔物となって徘徊する、危険極まりない魔界の一部と成り果てたのじゃよ」

 にわかには信じがたい話だった。

 しかし、目の前に広がる、歪んだ空間、禍々しい空、蠢く異形の生物を見れば、信じざるを得ない。

 六畳一間のはずの狭い部屋は、見渡す限り広がり、天井は見えない。

 もしこれが本当ならば、一刻も早く逃げ出さなければ、命に関わるのではないか?

 いや、そもそも、この歪んだ空間から、どうやって「外」へ?

  玄関ドアは、遥か彼方だ。

(もしかして俺、マジで詰んでる……? 死ぬかも……?)

 そう思った瞬間、広明の背筋を、現実的な恐怖が冷たく走り抜けた。

 禍々しい紫色の空は、見ているだけで気分が悪くなる。

 周囲には濃い霧が立ち込め、視界は数m先すらおぼつかない。

 この魔境で、自分は生き延びることができるのだろうか……?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る