第4話 染みスライム戦

 測量用ポール手に、広明は最低限の装備を行う。

 服装については、動きやすさを重視した結果、上は薄手の長袖シャツ一枚、下はストレッチジーンズにした。締め付け感が少なく動きやすいストレッチジーンズは、この状況下での活動にもってこいだ。

 靴は履き慣れたスニーカーではなく、普段あまり使用しないが動きやすさからスポーツシューズを選んだ。土足生活のおかげで、ベッド脇に転がっていた、この靴をすぐに手に取れたのは、不幸中の幸いか、あるいは皮肉な偶然だ。

 通学用リュックにノートと教科書を詰め込み、土木の実習で使用する安全ヘルメットを被り、顎紐をしっかりと締めた。

 留め具の音が、妙に心強く響く。

 日本の安全ヘルメットは伊達ではない。厳しい労安検をクリアしたABS樹脂製で、5kgの鉄塊落下にも耐える耐衝撃性と耐貫通性を持つ。内側のハンモック構造が衝撃を分散し、頭部へのダメージを最小限に抑え頭部を守る、まさに技術の結晶だ。

(日本の安全ヘルメットは、世界一だからな)

 とはいえ、こんな形でその恩恵にあずかることになるとは、皮肉なものだった。

「よし。準備完了だ」

 頭部だけが重装備という、傍目には滑稽な姿かもしれないが、今の広明にはこれが精一杯の武装であり、覚悟の現れだった。

「うむ、なかなか様になっておるぞ、小僧」

 肩の上あたりで、矢乃波波木神ヤノハハキノカミ)が満足げに頷く。ふわふわと宙に浮くその姿は、どこか遠足気分にも見え、広明は苦笑した。

「あ、そうだ」

 広明はスマホを取り出し、動画撮影モードにして胸ポケットに滑り込ませた。レンズを塞がぬようボタンを留める。

「何をしておるんじゃ?」

 矢乃波波木神ヤノハハキノカミの問いに、広明は答えた。

「動画撮影。これが夢や幻じゃないって、後で確認する為だよ。それと、もし万が一の場合に備えて、対策にもなるかと」

 我ながら、冷静な判断だと思う。

 これから挑む相手は、現実世界にいる本物の怪物なのだ。今後の対応や戦い方の参考になりそうなものは、少しでも記録しておきたかった。

「まずは玄関だ」

「よかろう。この矢乃波波木神ヤノハハキノカミ自らが道案内をしてやろう。穢れの気配を探れば、おおよその方向は分かるからの。ありがたく思うがよい」

「はい」

 広明は苦笑気味に応える。

 ぬいぐるみサイズの女神のナビゲーションを頼りに、ゴミと瓦礫が散乱する部屋(大魔境)へと、慎重に足を踏み入れた。

 一歩進むごとに、足元でビニール袋がガサガサと鳴り、空き缶がカラカラと転がる。視界は悪く、鼻をつく悪臭は相変わらずだ。

 周囲を見れば、ゴミの山がどこまでも広がり、まるで廃墟となったゴーストタウンのようだった。

 近未来を舞台にした犯罪都市の風景。

「まるで199X年後の世界みたいだ」

  思わずつぶやく。

「なんじゃそれは?」

 女神が訊く。

「核戦争後の世界を舞台にした漫画。もっとも人類は死に絶えていなかったけど、この世界に人間は俺一人なのを考えると、そっちの方が状況は酷くはなかったかな……」

 そんなことを話しながら、少しずつ玄関へと進んで行く。

 足元に転がっていたスプレー缶を踏んでしまい、パキッと音を立てて割ってしまったりもした。中には中身がまだ残っている物があり、踏んだことで、中身は床に飛び散ってしまい、辺りに酷い臭いが立ち込めてしまった。

 実際、ここはもう既に人の住む環境ではなくなっていた。

 当然ならが周囲に人影はなく、不気味な静けさに満ちている。

 そして何より、空間が歪んでいる感覚が、平衡感覚を狂わせる。まっすぐ歩いているつもりでも、気づけば壁際に寄りすぎていたり、ゴミの山にぶつかりそうになったりする。

「本当に、ここは俺の部屋なのか……?」

 改めて、自分の招いた事態の異常さを実感する。

 足元の雑誌につまずきそうになりながら顔を上げれば、遥か遠くに、天を突くかのような巨大な雑誌の塔が見える。

 広さだけでなく、物のサイズ感まで狂っている。

 何もかもがチグハグな、悪夢のような空間だ

 それでも、歩みを止めるわけにはいかない。

 一度踏み入れてしまえば、そこはもはや魔物の支配地なのだ。一刻も早くこの場から逃れるためにも、勇気を振り絞り前進を続ける必要がある。

 途中何度か、何かに足を取られ転倒しそうになるが、その都度、体勢を崩しながらもなんとか堪えることができた。

 足場の悪さを考えれば、奇跡的と言って良いだろう。

 これも、今まで鍛えてきた肉体のおかげだろうか。

 土木は体力勝負の仕事である。

 大学入学当初こそ、講義後の土木体験活動に参加した後は筋肉痛に悩まされたが、今では、すっかり体が慣れていた。

 おかげで、今は重い工具類を抱えていても、さほど苦もなく作業することができるようになっていた。

 そうしてしばらく歩き続けゴミ袋を横切った時だった。

 ふいに、矢乃波波木神ヤノハハキノカミが険しい表情をした。

「……む。前方、やや右。穢れの気配が強まっておるぞ。何か潜んでおるやもしれん」

 矢乃波波木神ヤノハハキノカミが、小さな声で警告を発した。

 広明は息を呑み、測量用ポールを構え直す。

 女神が示した方向を注意深く観察する。

 そこは、床という名の汚れの層の一部が、妙に黒ずんで濡れているように見えるエリアだった。以前、彼がケチャップをこぼした染みが、広がって固まったような跡。

(まさか、あんな染みまで……?)

 広明が警戒していると、その赤褐色の染みが、じわり、と動き出した。

 表面が粘液のように泡立ち、ゆっくりと盛り上がってくる。

 そして、不定形の、汚れたアメーバのような塊が姿を現した。大きさは小型の文机程で、表面には黒い粒々が不気味に浮かんでいる。

 それは、矢乃波波木神ヤノハハキノカミが先程、説明していたゴミモンスターの一種に違いない。

「出たな……!」

 広明は、初めて対峙する魔物に、緊張で体がこわばるのを感じた。

 相手はスライム状。

 動きは鈍そうだ。

「よし、まずは先制攻撃だ!」

 広明は測量用ポールの先端を鋭く突き出した。

 測量用ポールの金属製の先端が、染みスライムの体に深々と突き刺さる。内蔵をかき混ぜるような、最低最悪の感触が手に伝わる。


 グルッ……


 染みスライムは、苦しむというよりは、不快そうに体を波打たせた。

 手応えはあった。

 しかし……。

「……あれ!? あんまり効いてない?」

 広明が測量用ポールを引き抜こうとすると、染みスライムの粘着質な体が絡みつき、なかなか抜けない。それどころか、染みスライムは測量用ポールを伝って、広明の方へと這い上がってこようとしている!

「うわっ!  離れろ!」

 広明は慌てて測量用ポールを振り回し、染みスライムをその辺にあるゴミに叩きつけた。

 染みスライムはゴミに張り付き、びちゃり、と嫌な音を立てたが、すぐにまた動き出し、広明に向かって滑り寄ってくる。

「ダメだ! 突いただけじゃ、決定打にならない!」

「ふむ。相手は不定形の魔物じゃからのう。物理的な刺突や打撃は、あまり効果が期待できんやもしれんぞ」

 矢乃波波木神ヤノハハキノカミが冷静に分析する。

「じゃあ、どうすればいいんだよ!? これ! 弱点とかないのかよ!?」

「観察するんじゃ、小僧。どんな存在にも、必ず弱点はあるものじゃ。あの染みスライムは、何から生まれた? その性質は?」

 矢乃波波木神ヤノハハキノカミの言葉に、広明ははっとした。

「……そうだ、こいつは『染み』から生まれたスライムだ。ならば、シミを落とすものが有効じゃないのか? そう洗剤だ」

 しかし、今、広明の手元に洗剤はない。

 染みスライムは、じりじりと距離を詰めてきている。

 粘液を引きずる音が、耳障りに響く。

(洗剤以外で、シミに効くもの……なんだ?)

 広明は必死で記憶を探る。

 思い出す。

 昔、広明が溢したカレーだ。母親は、そのカーペットにできたカレーのシミ抜きに、塩を使っていたのを思い出す。

 赤ワインなどの飲み物やケチャップやカレーのように色の濃いもののシミは塩を山盛りに載せる。少し置くと塩が汚れを吸い取るので、掃除機をかけていた。

「塩だ。 いや、そんなものはこのゴミの海には……」

 広明は焦りながら周囲を見渡した。

 ゴミ、ゴミ、ゴミ……。

 その中に、何か使えるものはないか?

 すると、そこに敗れた塩の袋を見つける。

 以前、ゆで卵を食べた時に使った残りだ。

「あった! これで、なんとかなるかもしれない……!」

 広明はそれをつかみ取り、染みスライムに塩を大量に撒き散らした。

 塩は染みスライムのブヨブヨとした体の表面を覆うと、急速に水分を奪われていき、やがて固形化していく。

 染みスライムの動きが激しくなる。

 苦しんでいるのだろう。

 どうやら、効果があったようだ。

「これならいける!」

 そこで、広明は再び測量用ポールを構えた。

 狙いを定め、突き刺す。

 先程より深く食い込んだ感じがする。

 パリン、と乾いた音を立てて染みスライムは砕け散り、後には汚れたケチャップの塊だけが残った。

「ふぅ……。なんとかなった……」

 広明は息をついた。

 初めての魔物との戦闘は、予想以上に厄介だったが、機転を利かせて切り抜けることができた。

「ふむ、見事じゃ小僧。やはり『汚れ』には、それに合わせた『掃除』が一番ということじゃな。魔界のことわりとて、元の世界の法則から完全に外れてはおらんらしい」

 再び、矢乃波波木神ヤノハハキノカミの声が響く。その声には、感心した響きがあった。

「ま、まあな……」

 広明は少し照れながら、測量用ポールを握り直した。

 初めてのゴミモンスターとの戦闘は予想以上に厄介だったが、自分の知識と機転で切り抜けられた事実に、ほんの少しだけ、この大魔境で生き延びる希望を見出した気がした。

 しかし、これはまだ始まりに過ぎない。

 玄関までの道のりは、まだ遠いのだ。

(続く)

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