第1話 混沌の目覚め
けたたましいアラームの電子音が鼓膜を突き刺した。
大学生・山口広明は、重たい意識の泥沼から引きずり上げられた。
カーテンの隙間から差し込む、やけに白々しい朝日が、彼の網膜を無遠慮に焼く。
唸り声を上げ、寝返りを打とうとした瞬間、彼の体は何かの硬い感触に阻まれた。重たい瞼を、まるで錆びついたシャッターを持ち上げるかのように、億劫にこじ開ける。
それは昨日、いや一昨日だったか、彼が床に投げ捨てた漫画雑誌のタワーだった。雪崩を起こしかけたそれを、彼は寝ぼけ眼で忌々しげに睨みつける。
広明は、今年の春から念願の大学生となり、同時に一人暮らしという名の自由を手に入れた。
しかし、その自由という名の甘美な翼は、彼を輝かしい未来へと羽ばたかせるどころか、怠惰と無秩序の底なし沼へと急降下させたのである。
わずか一ヶ月――。
彼の城となるはずだった六畳一間は、もはや部屋というより、局地的な災害に見舞われた被災地の縮図、あるいは文明の墓場と呼ぶ方がふさわしい有様だった。
足元に広がるのは、もはや床と認識できる平面ではない。
コンビニ弁当の容器がプレートのように重なり合い、ペットボトルは倒壊したビル群さながらに散乱している。
脱ぎ散らかされた衣類は地層を形成し、その合間からは、読み終えた漫画雑誌や、あろうことか大学の教科書、ノート。
そして、人には見せられない種類のエロ本までもが、雪崩を起こした山の斜面のように顔を覗かせていた。
それらは渾然一体となり、ある種の不気味な均衡を保つ、混沌のビオトープを形成しているのだ。
部屋の中央、かろうじてその存在を確認できるコタツ机の上は、さらに凄惨な状況だった。
食べ終わったカップ麺の容器が、ヒマラヤの高峰にも似た、不浄なる山脈を築き上げている。
その麓には、空になったエナジードリンクの缶が、まるで忘れ去られた古代遺跡の円柱のように、虚しく林立していた。
ファミリーアニメでは暖かな団欒の象徴であったはずのコタツ机は、今やゴミの祭壇と化している。
そして、この空間を満たす空気。
それは、淀み、重く、生命の活力を奪うかのような瘴気を帯びていた。
鼻腔を遠慮なく突き刺すのは、青春の甘酸っぱい香りなどでは断じてない。
正体不明の食品が腐敗していく過程で放つ甘ったるい悪臭と、積もり積もって部屋の景色と同化したホコリの乾いた匂い。
それらが化学反応でも起こしたかのような、形容しがたい複合的な悪臭が、常に彼の周囲を漂っていた。
「……はぁ」
広明の吐き出した息さえ、この淀んだ空気にすぐに溶けていく。
深い、諦念に満ちた溜息。
今日もまた、この混沌の中から一日が始まる。
母親の「あんたの一人暮らしなんて、ゴミ屋敷製造にしかならないわよ!」という言葉。
それは単なる小言ではなく、恐ろしいほどの精度を持った予言だった。
その予言は呪いとなって、この六畳間に現実として巣食っているのだ。釈迦どころか、世界三大預言者・ノストラダムス、エドガー・ケイシー、ジーン・ディクソンでもここまでの的中率は見抜けなかっただろう。
それでも、広明の腹は減る。
生存本能だけが、このゴミの海から「食料」と呼べる何かを探し出せと、鈍い警鐘を鳴らしていた。彼は、もはや賞味期限などという概念を超越し、カビの一歩手前で奇跡的に踏みとどまっている(かもしれない)フランスパンか、あるいは酸化して油臭くなったカップ麺でも発掘しようかと、重い上半身を億劫に起こした。
その時だった。
視界の隅で、何かが、動いた気がした。
一瞬、見間違いかと思う。
疲労と寝不足で、幻覚でも見ているのかもしれない。
だが、反射的にそちらへ視線を向けると、それは気のせいなどではなかった。
「……ん?」
カップ麺の容器が積み重なった、通称「ヌードルマウンテン」の麓。食べかすが絨毯のように散らばる、薄汚れた大地(床)の上を、それは蠢いていた。
緑がかった灰色。
腐った苔のような、あるいは病的な皮膚の色を思わせる、不健康極まりない色彩。
大きさは、握り拳ほどだろうか。
明確な形はなく、まるで意思を持つ粘菌か、アメーバのような、不定形の塊だ。その表面には、死斑を思わせる黒い染みがいくつも浮かび上がり、まるで生きているかのように、ゆっくりと、しかし確実にその面積を広げているように見える。
それは、生命の黎明期を思わせる、あるいは終末期のグロテスクな塊でありながら、確かに「生きて」おり、もぞもぞと、ぬらり、と脈打つように蠢いていたのだ。
「うおっ!? な、なんだアレ……!」
広明の喉から、ひっくり返った声が漏れた。
全身の産毛が逆立ち、背筋に氷を滑らされたような悪寒が走る。
「ゴキブリ……の、突然変異体か!?」
彼の脳裏をよぎったのは、この世で最も忌み嫌う存在、漆黒の悪魔Gだった。
あの生命力と、不快な動き。
もしかしたら、この劣悪な環境が、あの悪魔をさらに凶悪なモンスターへと進化させたのではないか?
脊髄反射的な恐怖が全身を駆け巡り、鳥肌が粟立つ。
広明は、この世でゴキブリを最も恐れる生物の一つだったのである。もしあれがGの進化形なら、自分はもうこの部屋では生きていけないかもしれない……!
広明は冷静に務める。
それは、昆虫が持つような明確な器官、足も、触覚も、目鼻すら持たない。
ゴキブリではない――。
その事実は、広明の恐怖を少しも和らげるものではなかった。
むしろ、未知なるものへの根源的な畏怖が、じわりと彼の心を侵食し始める。彼は、息を殺してその奇妙な存在を観察した。
ただ、不定形に、まるで腐りかけたゼリーのように蠢く塊。スライム、と呼ぶのが最も近いだろうか。
だが、ゲームに出てくるような愛嬌のある姿ではない。
色は病的な緑灰色で、表面はぬらりとした粘液に覆われているように見え、時折、黒い斑点が脈打つように動いている。
それは、生命の最も原始的な、あるいは最も末期的な姿を体現しているかのようだった。
その不定形の塊は、目標を見つけたように、ゆっくりと床(という名のゴミと汚れの層)に落ちていたポテトチップスの欠片へと這い寄っていく。
動きは遅鈍だが、粘液を引きずるような、湿った摩擦音が微かに聞こえる。
そして、欠片に到達すると、その体の一部をにゅるりと伸ばし、まるで捕食するかのように、むにゅむにゅと音もなく体内に取り込み始めたのだ。
その光景は、異様であり、そして強烈な生理的嫌悪感を広明に抱かせた。
背筋を、鋭利な氷柱で貫かれたような悪寒が走った。全身の血が逆流し、指先が冷たくなる感覚。
――幻覚か?
そう思わずにはいられない。
この非現実的な光景は、疲労やストレスが見せる悪夢の一部なのではないか?
いや、しかし、昨晩は特に変なものは(広明的に)食べていないハズだ。
広明の鋼の胃袋は、生まれてこの方食中毒というものを知らず、小学生の時、集団食中毒が起こった時でも、ただ一人ピンピンしており、医者曰く食中毒菌すらも消化吸収してしまったのではないかと言わしめた逸話の持ち主なのだ。
少なくとも、ケガとインフルエンザ以外で病院の世話になることは今まで一度もなかったのだ。それが、いきなり幻覚を見るようになるとは考えにくい。
やはり、あれは幻ではないのだ。
ならば、目の前の事象は現実ということになる。
(もしかして、新種の虫とか……? それとも、もっとヤバい病気の前兆とか……)
得体の知れない、この世のものとは思えない存在の出現に、彼は息をするのも忘れて硬直するしかなかった。
思考は完全に停止し、指先一つ動かせない。
そんな静寂の中、部屋には、時計の秒針が進む音だけが響いている。
カチ、カチ、カチ、というその音は、次第に速度を増していき、やがて早鐘を打つ心臓の音をかき消すほどに大きくなっていった。
呼吸が荒くなり、全身が小刻みに震える。
(やばい ! あれはマジでヤバい奴だ!!)
少なくとも、意図してはおかしなものを口にした記憶はない。
賞味期限?
そんなものは知らないし、この部屋ではとうの昔に形骸化している。
だが、それでも、ここまで鮮明で奇怪な幻覚を見るようなものは……。
混乱が脳をかき乱す。
彼は、現状を把握しようと、震える視線で部屋全体を見渡した。
そして、さらなる異常が、彼の乏しい理解力を容赦なく打ち砕いた。
部屋の広さが、明らかにおかしいのだ。
いつもなら、ベッドから手を伸ばせば届くはずのカラーボック。
数歩も歩けば突き当たるはずの壁。
そして、一直線に見えるはずの玄関ドア。
それらが、まるで遠近法を狂わされた騙し絵のように、遥か彼方へと引き伸ばされている。
特に玄関ドアは、陽炎の向こうにある蜃気楼のように、ゆらゆらと霞んで見え、現実感を失っていた。
まるで、巨大な魚眼レンズを通して世界を見ているかのように、空間そのものがグニャリと歪曲している。
六畳一間という物理的な制約が、まるで意味をなさなくなっていた。
さらに、天井。
いつもなら、まっ平らな清々しいまでの天井が見えるハズのそこには、信じられない光景が広がっていた。
天井がない。
いや、あるのだが、それは彼が知る天井では断じてなかった。
毒々しいまでの紫色をした、禍々しい空。
暗雲が渦を巻き、まるで巨大な生物が呼吸しているかのように蠢いている。
そして時折、その雲の間を、鋭い稲妻のような閃光が走り、部屋の中まで陰鬱で不吉な光を投げかけるのだ。
雷鳴は聞こえない。
ただ、無音の光だけが、この世ならざる景色を照らし出している。
「は……? はあああああ!? な、なんだよこれ!?」
ついに、広明の思考は限界を超えた。
理解不能な現象の連続に、彼の脳は悲鳴を上げる。
恐怖と混乱が渦巻き、言葉にならない叫びが喉からほとばしった。
これは夢なのか?
それとも、俺はついに狂ってしまったのか?
確かめなければならない。
広明は、ほとんど無意識のうちに、自分の頬を力任せにつねり上げた。爪が食い込み、肉が捩れる。
「いっっってぇ!!」
焼けつくような、皮膚がちぎれんばかりの鋭い痛み。
紛れもない現実の感覚だ。
涙が滲むほどの、その痛み。
しかし、広明の最後の希望を打ち砕いた。
これは、夢ではない。
紛れもない、現実なのだ。
だが、目の前の光景は、どう見ても彼の知る日常ではなかった。歪んだ部屋、異形の生物、禍々しい空。
これは、悪夢よりもさらに恐ろしい、理解を超えた現実。
声にならない悲鳴が、再び喉の奥からせり上がってくる。パニックで叫び出しそうになった、まさにその時。
彼の耳が、不意に、ある「音」を捉えた。
いや、音ではない。
それは、明らかに「声」だった。
はっきりと、誰かの声を耳にしたのだ。
この部屋には、自分以外、誰もいないはずなのに。
一人暮らしであるにも関わらず。
全身の血が凍りつく。
だが、このゴミの海のような部屋に、俺以外の誰がいるというんだ?
広明は、疑心暗鬼になりながら、ゆっくりと声の方向へ顔を向けた。そして、目を疑った。
目の前の空間に、ふわふわと、まるで綿毛か陽炎のように、小さな影が浮かんでいたのだ。それは、徐々にはっきりとした形を取り始め全長30cm程の、小さな少女の姿になった。
古風な
(幻覚か? ついに俺も、この汚部屋の状況に頭がおかしくなったのか?)
しかし、その少女は、つぶらな瞳でじっと広明を見つめている。
その存在感は、あまりにも確かだった。
広明は、自分の部屋に突如現れた、この奇妙で小さな訪問者を、ただ呆然と見つめるしかなかった。
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