第26話 小屋で二人きり

荒木仁右衛門は、おキヌを片腕で抱きかかえながら山中をさまよっていた。空には雲が厚く垂れこめ、やがて夕陽すら霞み始める。足元は石や木の根が多く、歩くたびに激痛が肩を襲うが、歯を食いしばって進むしかない。


やがて細い獣道をたどっていくうち、視界の先に小さな小屋が見えてきた。おそらく薪山や狩りのために、誰かが使っていた猟師小屋かもしれない。壁は粗末だが、屋根がしっかりしていて床もあるようだ。藁を敷いた簡易の寝床も見える。


「助かった……」


荒木はほっと息をついた。思わず力が抜けそうになるが、ここで倒れ込むわけにはいかない。小屋の扉をひらりと押し開け、なんとかおキヌを中へ連れ込む。


中は埃と土の匂いで充満していたが、雨露はしのげそうだ。荒木は力を振り絞り、おキヌをできるだけ優しく床へ横たえた。


「……すぐ、何か……暖かいものでも……」


そう言いかけたが、もう体が言うことをきかない。荒木自身も呼吸が浅くなり、そのまま膝をついて倒れ込む。肩の痛みに加え、疲労や空腹、精神的な消耗が限界を突破していた。おキヌを介抱してやらねばという気持ちはあるのだが、意識は抗いがたく遠のいていった。


翌朝――


荒木は何か暖かな感触を感じて目を覚ました。重たい瞼をゆっくり開けると、すぐ目の前におキヌの顔があった。まるで猫のように体を寄せて寝ていたらしく、互いの鼻先が触れそうなほど近い。荒木は一瞬息を呑んで固まる。


(な、なにごと……!?)


背中には藁の寝床が敷いてある。知らぬ間におキヌがやってくれたのだろうか。いつの間にか、おキヌが荒木の腕にしがみつくようにして眠り込んでいたらしい。普段は戦闘能力の高い忍びだが、こうして見ると――まるで少女のようにあどけない印象を受ける。


荒木の胸はドキリとしたが、すぐに彼女の顔色が蒼白なままだと気づいて表情を曇らせる。


「おキヌ殿……大丈夫か?」


荒木がそっと呼びかけると、おキヌが薄く瞼を開けた。目が合うなり、お互いギョッとして体を離す。


「とんだ失礼を……」


おキヌはそれだけ言うと、再び目を伏せる。少し気まずい空気が流れた。


「いや、なに……」荒木は左手で頭を掻こうとしたが、その腕はもうないのを忘れていた。


「なあおキヌ殿、腹は減らぬか?」荒木が言った。


「いえ、私は……」


すると、ぐぅとおキヌのお腹が鳴った。


「お腹の子が腹が減ったと言うておるの」荒木は少し頬を緩めた。


「からかわないでください」おキヌの青白い頬に少し赤みがさしたような気がした。


「待っておれ、食い物を調達してこよう。これでも父上と共に野山にこもって修行をしたこともあるでな」



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山の朝は冷え込むが、幸い小川の流れる音が近くで聞こえる。荒木は片腕で慎重に斜面を降りていき、川に下った。そこには小さな魚の姿があった。片腕だけでは思い通りに水を掬えず何度か失敗するが、すぐに1匹とらえ、小屋から持ってきたザルに入れた。


(父上、腕はなまっておらんでしょう。片腕ではございますが)


彼なりのユーモアだったようで、一人で少し笑った。


荒木は何とか5匹ほどの川魚を捕まえ、山菜も摘んだ。幼い頃、父に教えられた食べられる山菜やきのこ類の知識が活かせた。荒木はこの切迫した状況の中で、父との思い出をほのぼのと思い出している自分に驚いた。しかし、今は焦ってもどうにもならない。


小屋に戻ると、おキヌが起きていた。壁に背を預け、やや疲れた表情でこちらを見ている。荒木が意外そうに眼を見張ると、おキヌは微かに微笑んだ。


「ありがとうございます……荒木さま。山菜……ですか。私が鍋でもつくりましょう」


「いや、休んでおれ。まだ顔が青白い……」


荒木はそう言いながら、古い鍋に水を汲み、山菜を入れて煮込むようにする。おキヌが「なら火を起こすだけ……」と、辛そうに腰を落としてかまどらしき場所を整える。


火打ち石でなんとか火を起こし、荒れた藁や枝を使って鍋を炊く。川魚は串を作って少し焼くかたちにした。


料理と呼べるものではないが、湯気が立ち上り、ほんのりと香りが生まれる。山の中の冷えた空気には、それだけでも十分心が和む。


おキヌは弱々しいながらもお椀を持ち上げ、山菜の汁をすすった。


「……あったかい……」


荒木魚を焙って一口かじった。素朴な土と水の味が、体に染みわたるようだ。


「生き返るなあ……」


二人きりの小屋には外の鳥の声や、川のせせらぎだけが微かに聞こえてくる。昨夜までの血と咆哮と絶叫に満ちた世界が、まるで嘘のような穏やかさ。荒木は思わず安らぎすら覚える。


しかし──


この温かい一杯とわずかな休息が終われば、再び死地へ身を投じる覚悟をしなければならない。そのとき自分に何ができるか、片腕でどこまで戦えるか――考えると不安は尽きない。


荒木はずっと気になっていたことをおキヌに問うた。


「おキヌ殿、一体何があったのだ? 情けないが、おキヌ殿が“太陽”に突進したところから記憶がないのだ。あなたは自ら血を流しておられた。あれは一体なんだったのだ?」


「私にもはっきりとは分かりません。ただ……私の血を化け物が嫌がっている気がしたのです」


「……は? それがしには理解のできぬが」


「私だけが捕らえられても血を吸われることはありませんでした。他の者は干からびるまで吸い尽くされていたというのに」


「……」荒木は炭鉱で見た死体の山を思い出していた。


「朦朧としていた中でも覚えているのは、一度化け物が私の血を吸おうとして、むせたようになったことでございます。そして、私の体を遠ざけた。それに、戦いの中で私が血を流し、船の肉壁にそれが落ちると、火傷のような痕がそこに広がるのです」


「なんと!?」


「確信は持てませんでしたが、きっと私の血は化け物にとっては毒なのかもしれないと感じていたのです。それで、あの状況で一か八かそれに賭けてみようと思ったのです」


「それが、やはり当っていたのか?」


「はい、私の手首から流れ落ちる血が“太陽”をみるみる黒い漆黒の闇で多い尽くし、やがて脈動がなくなると船は落ちていったのです」


「待ってくれ。となるとあの船自体が……」


「化け物の体の一部だったということなのでしょう」


「生きた船……。しかし、なぜにおキヌ殿の血だけが……」


「これはただのカンですが……私が身重だからではないかと」


「身重……そういえば蘭学に詳しい者に聞いたことがある。女子は身籠ると体が変化すると。確か血も流れている成分が変わるのだと。しかし、そんなことが……。にわかには信じ難い……」


「荒木さま。化け物に襲われた亀瓦宿の惨状をご覧になったでしょう」


「ああ」


「亀瓦宿の女たちはほとんどが殺されました。生き残った女は、私を含めみんな身重なのでございます」

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