第25話 農村の惨劇
荒木仁右衛門は、どこか遠い夢から引き戻されるように瞼を開いた。いまだに胸の奥が苦しい。呼吸をしようと咳き込むが、先ほどまでの酸欠状態とは違い、少し肺に空気が入ってくるような気がした。
「あ……れ……」
ようやく焦点が定まってきたところで、自分が粘液まみれの船内の床に横たわっているのに気づいた。
(父上……それがしは、まだ生きているようですね……)
周囲を見やると、圧倒的な熱源──あの“小さな太陽”──は消えている。代わりに、焦げた匂いや破れたパイプから漏れる微弱な蒸気が漂っていた。
「源田……十蔵……おキヌ殿……吉六……?」
名前を呼んでも返事はない。視界には崩れた粘液の塊や、ぶつ切りのパイプが散乱しているだけだ。まるで大破した怪物の死骸をくぐり抜けているような、有り得ない惨状を目の当たりにしている気分だ。
「……ここは……?」
船の肉壁に大きな亀裂が走り、そこから朝の光が漏れている。荒木は自分がまばゆい光に晒されているのを感じた。どうやら船は地面に墜落し、横倒しになっているようだ。地面の匂いがわずかに混じり、ひどく鼻に沁みた。
(いつの間に……。あの“太陽”を破壊したのか、それとも……)
腕のない左肩に焼けつく痛みが走る。荒木は低く唸りながら体を起こし、視線をぐるりと巡らせた。崩れた肉壁を越えて外を覗けば、そこは城下に近い農村のようだ。遠くに畑が広がり、藁葺き屋根の家がいくつか立ち並んでいるのが見える。すぐ近くには田んぼらしい区画がある。
「十蔵殿、源田殿……おキヌ殿……吉六?」
呼んでも誰の応えもない。皆バラバラの場所で倒れているのか――そう考えたとき、低く重い足音が聞こえてきた。
ズシン、ズシン……。
荒木がふと隙間から外を見ると、まるで城砦が歩いているかのように巨大な化け物がゆっくりこちらへ近づいてくる。その体格は五メートルやそこらではなさそうだ。先ほどまで戦っていた化け物の母も大きかったが、さらに一回りは大きい。さながら要塞が地を這うかのようだ。
その輪郭の合間には節足動物のような節が見え、大蛇のようにうねった外骨格が幾重にも連なっている。荒木は思わず息を呑んだ。
“フシュー……グルル……”
その咆哮は悲しみを帯びているかのようだ。今まで出会った化け物にはない哀切が混じり、聞くものの胸をぎゅっと締めつけるような響きをもっていた。
(泣いている……のか?)
荒木が片腕で残骸に身を潜め、そっと息を殺す。化け物が何かしら恨みや悲しみを持っているのか――そんなはずはない。荒木は首を振った。仲間たちを無惨に葬ってきた凶悪な姿が脳裏に焼き付いている。
(父上、それがしがケリをつけなければなりますまい!)
荒木は握っていた短い小刀を構え、船の残骸の陰からそっと化け物の背後を狙った。甲殻の下にわずかな隙があり、そこを斬り込めば或いは……。少なくとも何もしないで百姓や城下の人間にさらなる犠牲を出すわけにはいかない。
小刀を振りかざし、一気に背後へ飛び出そうとした――その腕を、誰かに掴まれた。
「――それでは無理です、荒木様」
荒木が驚き振り返ると、おキヌがそこにいた。彼女は血に染まったまま立っているが、顔は死にそうなほど蒼白い。
「おキヌ殿! 生きておられたのか!」
荒木はその事実に一瞬胸を撫でおろそうとするが、次の瞬間にはおキヌがふらりと倒れそうになる。荒木が慌てて支えようとするが、片腕では思うようにいかず、結局おキヌはそのまま意識を失った。
「おキヌ殿……おキヌ殿っ!」
必死に呼びかけ、体を揺らすが何の反応もない。その物音を聞きつけたのか、化け物の足音が荒木たちのほうへ向かってきた。ズズン、ズズン、と地面を叩くごとに砂埃が宙に舞う。足元の船の殻を払いのけながら、どうやら何かを探っているらしい。
「まずい……」
荒木は息を殺し、しゃがみこむ。細い虫のような手足がまるで触覚のように船の残骸を掻き分け、すぐ目と鼻の先まで迫る。
化け物の手がひとつ、荒木の頬ぎりぎりをかすめて通り過ぎた。汗が冷たく流れる。心臓がうるさいほど鳴るが、ここで声を出せばおキヌもろとも終わってしまう。
(なんとかおキヌ殿だけでも……)
とっさに小刀を握り直すが、その巨大さに果たして通じるのかという不安が脳裏をかすめた。そのとき――
男の叫び声が外から響いた。
「うわあああっ!」「助けてくれえ!」
化け物が一瞬動きを止め、まるで音の出所を確かめるように首を上げる。荒木はその一瞬を逃さず、おキヌを抱え込むと、肉壁の隙間をくぐって外へと滑り出した。
光に目が焼かれる。そこは農村の田んぼの真ん中だった。そこへ何人かの百姓たちが運悪く通りかかっていたのか、化け物のほうへ気付いて悲鳴を上げている。
ズズン、と踏み締める化け物の足に、一人、二人……断末魔をあげながら農民たちが潰されていく。
荒木は歯ぎしりして低く唸った。
(すまない……お前たち……無力なそれがしを恨んでくれ)
後ろでは化け物が百姓たちを蹂躙している気配と絶叫が広がっていた。荒木は長く伸びた葦原の道なき道をかき分け、腕でおキヌを抱き、ぬかるむ地面に足をとられ、それでも進んだ。化け物の咆哮と百姓の叫び声が聞こえ続け、荒木の胸を針で刺すように痛めつ続けた。
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