第27話 下山

あれから二日が経った。わずかな山菜・川魚を口にしながら、荒木とおキヌはただ傷と疲労を癒すことに集中した。


荒木は山の小屋で、失った腕の痛みと闘いながら身体を休めている。忍びの里で学んだという薬草を調合し、おキヌが必死に看護を続けたおかげで、出血もだいぶ落ち着いていた。


おキヌは荒木の腕を包帯代わりの布で丁寧に巻き直し、さらに忍びの里伝来の滋養強壮の錠剤をお湯に溶かして飲ませた。


「なんじゃこれは!?」


今まで嗅いだことのない強烈な香りと脳天を貫くような苦味。荒木は往生しながらも、おキヌに言われるがまま、それを飲み干した。すると、体がポカポカと熱くなる感覚があった。


夜中、荒木は何度か小刀をとって小屋を出て行こうとしたが、気配を察知したおキヌに止められた。


「荒木さま、もう少し……、もう少しだけ安静になさって」


そう言われても、荒木はいても立ってもいられない心境だ。あの化け物が襲った農村はどうなったのか。被害は拡大していないか――気がかりが絶えない。


「だが、おキヌ殿……これ以上、民が犠牲になるならば、それがしは……!」

「今、山を降りてどうにかなるわけでもありません。体が万全ならまだしも。どうか、こらえてくださいませ」


おキヌの強い眼差しに、荒木は渋々唇を噛む。


「……うむぅ……」


二人とも深い傷を負い、まだ自由に動ける状態ではない。焦りを抑えるように、荒木は薬草の独特の苦味を噛みしめながら体力の回復を待つしかなかった。


三日目の朝。


外から差し込む朝の光がほのかに眩しい。荒木は肩に走る鈍痛をこらえながら身を起こす。

「……おキヌ殿?」


あたりを見回しても彼女の姿がない。寝床として使っていた藁の束には、彼女の衣服が乱れた形跡だけが残っていた。

不安がよぎった荒木は、小屋を出て周囲を探す。森の静けさの中、近くの小川へ足を進めると、そこにうずくまるおキヌの姿があった。彼女は小川の水で口をすすいでいるが、明らかに気分が悪そうだ。


「おキヌ殿……! 体が……まだ、無理をしては……」

荒木が駆け寄ろうとすると、おキヌはわずかに身を震わせていた。吐き気なのか、動悸なのか、荒木には分からないが、その表情は苦しげだ。


「……申し訳ありませぬ……少し気分が……」


視線を落とすおキヌは青ざめたままだが、口元を抑えている。「もしかして、つわり……ではないのか?」荒木が恐る恐る尋ねると、おキヌはそっと頷いた。

「ええ……お見苦しいところを……」


思わず荒木はドギマギしてしまう。妊娠しているのは知っていたが、こうも露わに“母としての身体の変化”を見せられると、何とも言えない気まずさと愛おしさがないまぜになる。


しかし思い切って彼は問うてみた。


「その……子の父親は……?」


おキヌは押し黙ってしまった。気まずい沈黙が森に広がった。


すると、おキヌは「……まあ、誰でもよいではありませぬか」と、うっすら苦笑すると視線を逸らした。その表情に深い事情を感じつつも、荒木はそれ以上立ち入るのをためらい、


「……すまない。変なことを聞いた」

と苦笑した。


二日間じっくり休んだおかげで、荒木はとりあえず歩行と最低限の戦闘は可能な程度に回復している。


「山を下りよう」荒木が言った。


「そのご様子でしたら、もうお止めする必要のないかと」おキヌが言った。


荒木はうなずく。「ああ、そなたのおかげじゃ」


おキヌは黙ったまま、少し頬を緩めた。


「……和辻(十蔵)殿や源田隊長、吉六は……無事であってくれればよいのだが」


荒木が苦渋の表情で呟くと、おキヌは強い眼差しで返した。


「あのお方たちなら、きっと大丈夫でしょう。ところで荒木さま、どちらへ向かうおつもりで?」


「城下だ。家老の林原様に会い、軍を編成してもらうのだ。もとよりこたびの任務は林原さまより賜ったもの。一も二もなく林原様は加勢してくれるであろう。あの化け物、竜義隊ですら壊滅状態……さらなる規模の軍隊で対抗するしかない……」


敷島藩は佐幕派と攘夷派のいがみ合いから距離を置き、軍勢を温存していると聞く。今ならそれを出動させる余力があるはず。


荒木がふと目をやると、おキヌは自分のお腹をさすっていた。その横顔はすでに母そのものだ。


「おキヌ殿……体は大丈夫か? そなたは……もうここで身をひいてもよいのだぞ。そ、そうだ、安全な場所まで送っていってやろう」


おキヌは首を振って言った。「私には私なりの戦う理由があるのでございます。それに、化け物を倒さぬ限り、安全な場所などありませぬ」


おキヌは口元を引き結び、袋にまとめた薬草や錠剤を荒木の腰に結びつける。

「これ、道中の痛み止めでございます。また使うこともありましょう」


荒木は、少し照れたように頷き、先頭に立って下山を開始した。気力は十分だ。一刻も早く、城下に着かなければ。そして、皆に知らせるのだ。おキヌが言っていた身重の女の血が化け物の弱点かもしれないという情報、これがこの戦いのカギになることを確信していた。


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