第45話 奇跡なんていらない
心のどこかでわかっていたのだ。わたしは特別なんかじゃない。
何も変えられず、陽ちゃんも葵ちゃんもいなくなってしまった世界で生きていくしかないんだって。
呆然としながらへたりこむ。もう息をするのさえ億劫だなとぼんやり思う。
飛び散っていたガラスの破片でまた足のどこかを切ったみたいだけど、その感覚さえフィルターを通したみたいに他人事だった。
どれほど時間が経ったのかわからない。
自分が道端の石ころや名前も知らない草とさほど変わらない気がするほどにまで、荒れ放題のリビングで放心し続けていた。
そんなわたしの意識を強制的に引き戻したのは来客を告げる呼び鈴の音だ。
誰、と思う間もなく玄関の鍵が開く音がする。帰ってきたお父さんやお母さんならわざわざインターホンを押したりはしない。
「イズミー、ユイの作ったお昼ごはんを持ってきたよー」
遠慮なく上がりこんできたのは常盤くんだった。
出迎える気力のないわたしはそのままの姿勢で動こうとしない。やってきた彼と目が合っても、表情を変えることさえできずにいた。
いろいろな物が散乱している状況を一瞥し、常盤くんは引き返す。そしてまたすぐに戻ってきた。今度は救急箱を携えて。
彼の行動には躊躇がなかった。
予告なくわたしをお姫様抱っこのようにして、近くに置かれているソファーへと運び、ピンセットを手に持って足の傷を確認していく。
それからいくつかのガラスの破片を慎重に抜き取って消毒する。
なぜだろう、足を切ったときよりも消毒液がしみたときの方が痛く感じた。
相当の重傷みたいにして常盤くんはわたしの足にぐるぐると包帯を巻いていく。
「大げさだよ」
ようやく声を出した。
家族が出掛けるときもいつの間にか挨拶すらしないようになっていたわたしにとって、いったいどれほどぶりの会話なのだろう。
「ばい菌が入ったらまずいじゃないか」
さも当たり前みたいに常盤くんは答えるが、現在の軽傷の治し方が自然の治癒力を活かす方向へシフトしているのをどうやら知らないらしい。
消毒液やガーゼの使用はむしろ傷の治りを遅くするのだ、と道場の師範から教わっていた。
「これでよし。後でちゃんと病院に行きなよ」
几帳面に巻いた包帯を結んでいる常盤くんに、「……助けてくれなくてもよかったのに」と呟いた。
もちろんこの包帯のことではないし、彼にならちゃんと意味が伝わるはずだ。
さすがにわたしだってそのセリフを両親の前で口にはしない。平手打ちされたって文句は言えないとわかっているから。
家族でなく、もちろん恋人でもなく、友人と呼ぶのも憚られる距離感の相手だからこそ口にできる言葉だってあるんだ。
しかし常盤くんから返ってきたのははぐらかすような反応だった。
「イズミ、知っているかい」
何を、と短く彼に問う。
「この街が劇的に変化したのをさ。結構世間を賑わせているはずだよ」
「新聞も、テレビも、ネットも見てないから」
取りつく島もないほどぴしゃりと言い放った。
それでも常盤くんは態度を変えることなく、淡々と話を続ける。
「たとえば二週間ほど前、マンションの十二階から幼児が転落するという事故があった。普通なら地面に叩きつけられて即死だろうさ。なのにその子は少し離れた木に落ちて、枝によるかすり傷を負っただけで助かった。
似たような例は後を絶たないんだ。居眠り運転の大型トラックがハンドル操作を誤ってコンビニに突っこんでしまったときもそうだ。店内に何人も客がいたにもかかわらず、なぜか一人も入口側にはいなかった。おかげで怪我人さえゼロさ」
「その話とわたしに、何の関係が?」
「大ありだよ。驚くべきことに今やこの地は奇跡の町だ。誰も不慮の事故や悪意ある事件では死ねなくなったみたいだからね。アオイの最後の願いによって」
「──葵ちゃんの、っていうかたぶん陽ちゃんが考えたんだと思う」
絞りだすようにしてわたしは言った。
「だろうね。ボクが知るかぎり、アオイはこんな突拍子もないことを思いつく子じゃなかった。こういうのはバカの仕事だよ」
「同感」
立ち上がった常盤くんがにっこりと笑い、閉まっている窓の外を指差した。
「おそらく、アオイとヨウヘイはこの町の守り神と言っていい存在になったんだろうね。そしてその加護を最も強く受けることができるのはイズミ、間違いなくキミのはずだ」
「わたし、そんなのいらない」
「それもいいさ。キミは自由だ、どこへだって行ける。ここで生きていくのもいいし、遠く離れた土地で新しい人生を見つけるのもいい」
ほんの少しだけ想像してみた。
気候も言葉もまるで違う、見知らぬ町で暮らす自分を。
雪が降り積もっているのだろうか。乾いた砂の大地なのだろうか。めまぐるしいほど人が多かったり、坂ばかりで自転車に乗るのも一苦労だったり。
でも、どこであろうとそこには陽ちゃんも葵ちゃんもいない。
わたしだけだ。
「いやだよぉ」
ひとたび感情をあまりに率直な言葉にしてしまったなら、涙腺が決壊するのは早かった。
「そんなのやだよぉ。独りぼっちなんていやだぁ。だったらわたしも陽ちゃんと葵ちゃんに、一緒に連れていってもらいたかったよぉ」
まるで幼児みたいに泣きじゃくりながら駄々をこねるわたしのすぐ前に、常盤くんがゆっくりと跪いて語りかけてきた。
「決して独りぼっちなんかじゃないさ。イズミ、キミにはタツミとユイという、とても素敵な両親がいる。あと、及ばずながらボクもね」
彼の真っ直ぐで強い視線に捉えられる。
「死ねない身体でよかった、今は心底そう思うよ。何があろうとも、キミを一人きりにさせずにすむ」
「常盤くん……」
「それにさ、あの世見学ツアーに出掛けるのは、しわくちゃになるまで年をとってからでも遅くはないよ」
おどけながら常盤くんが言う。
「もうすぐキミはとびっきりの美人になるさ。それこそヨウヘイが『もったいないことをした!』って地団駄踏んで悔しがるくらいにね。
で、そのうち素敵な男性と恋に落ちて、ユイみたいにタフな母親になって、誰よりも優しいおばあちゃんになって、最後にたくさんの子供たちや孫たちに看取られて旅立てばいいんだ。できればその場にボクもいさせてくれるとうれしい。
もちろん、世界中の見たことがないものを求めて冒険する、なんてのもロマンがあっていいけどね。どんな形でもいい、キミがきちんと年を重ねていくことを願うよ。それはボクやヨウヘイ、そしてアオイには叶わなかった生き方だから」
鼻をすすりながら、涙声のままでわたしは小さく首を横に振った。
「陽ちゃんより好きになれる人がいるなんて、とてもじゃないけど想像できない」
「あんなにバカなのに?」
「うん、バカなのに」
泣き笑いのようになりながら、今度は力強く頷いてやった。
その瞬間、風など吹きようがない部屋の中で、なぜかすぐそばのカーテンが存在を主張するかのように大きく揺れる。
たしかあれは葵ちゃんが気に入って選んだやつだったっけ、と思い出していたわたしのお腹が豪快に鳴った。
陽ちゃんなら「お腹に何か飼ってるのか」とからかってきそうなくらいの音だ。
さわやかに紳士的な笑みを浮かべた常盤くんが「ユイ特製のクロックムッシュとクロックマダム、どちらがいい?」と訊ねてきた。
ハムとチーズを挟んだパンをトーストしたのがクロックムッシュ。さらにそこへ目玉焼きを乗せたのがクロックマダム。シンプルだがとても美味しい。
お母さんの定番レパートリーの一つであり、有坂家の食卓によく並んでいた。
幼い頃から葵ちゃんと並んでかぶりついていたものだ。
「どっちも食べる」とぶっきらぼうにわたしは答える。
有坂姉妹は雨を待つ 遊佐東吾 @yusa10
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