十四
信建の妻、松が亡くなってから早くも一年が過ぎた。
信建へ伝えたが、さすがに衝撃が大きかったのか、京の方でも数日寝込んでしまったと建広から連絡があった。
しかし、その後は立ち直り、津軽を代表する者として時慶との応対や神社への寄進などをつつがなく行い、慶長八年の八月に無事帰国した。
「ご苦労であったな」
「ありがたきお言葉」
為信は信建を労い、京滞在時の報告を聞く。
病でこけていた頬はやや膨れ、他者から見ても顔を知らない者なら痩せた男で通りそうなぐらいにまで戻ってきている。
「……某からはこれにて」
「うむ。ご苦労だった」
信建が頭を一段と深く下げるのを見て、小さく息を吐く。
ほとんどが彼、建広、彼らの従者からのもらっていた報告と変わりないもので、改めて聞く必要などなかった。
「わしは近々京へと向かう。戻ってきて早々だが、留守はしかと頼むぞ」
信建は驚いたと顔を上げ、心配そうな表情を向けてくる。
「真にございまするか」
「すでに支度も始めておる」
本来ならもっと早くに上洛する予定が諸事情で遅れてしまっている。これ以上、後回しに出来るほど体が耐えられるか分からない。
「承知いたした。留守はお任せを」
為信は立ち上がるとすれ違い様、信建の肩に静かに手を置く。
「松の墓前に向かうと良い」
「……早速、向かわせていただきまする」
信建は立ち上がり、斜め後ろから続いて歩を進める。
先程答えた時、やや低い声には松に会うことが難しくなるための無念さが垣間見えていた。
慶長八年十月、為信は京へ入った。
まず、昵懇の仲である商人、具足屋を通じて時慶に上洛したことを伝え、会談の日を取り決める。
後は彼に贈る産物を決めて、支度を整えればいつものように接待を続けるだけの京滞在となる。
そう為信は思っていたが、同時期において謁見しなければならない相手が伏見に来ていた。
「津軽殿、此度は突然の呼び立て、真に申し訳ない」
「いえ、我が家も徳川様あってこそのもの。馳せ参じるのは当然のことで」
為信は内心の早く帰りたい思いを堪えて、真摯な口調で頭を下げる。
家康が同時期に伏見に滞在していることは承知だったが、よもや向こうから会いたいと言われるなど予想していなかった。
この年、家康は朝廷から征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開いた。
豊臣に恩義のある者としては面白くないが、反抗するような力のある大名達も唯々諾々と徳川の政権を認めている。関ヶ原の前からの各大名への工作や毛利や石田に与した者達への徹底した処罰を行った結果だろう。
このような中で反乱を起こせば、かつて豊臣が行った東北での仕置のように改易されてしまうだろう。
相変わらず何を考えているのか分からないような目でこちらを真っ直ぐ見てくるが、早く用件を伝えてほしい。
少しの沈黙がどれだけでも長く感じて、たまったものではない。
「して、家中は如何だ」
家康がおもむろに口を開く。
「当家、皆が忠勤に励んでおりまする」
「左様か。未だに揉め事を話し合いではなく、力で解決しようとする不届き者がいる故、よくよく気を配るようにな」
先の騒動の嫌味だろうか。
苛立ちを押さえ、落ち着いて「御意」と小さく返答する。
「時に、お主の子息だが、よう励んでいるようだな。貴族の間でも大層評判ようだ」
「ありがたきお言葉。我が息子にも伝えておきまする」
「うむ。その弟もなかなかの切れ者と聞く。子宝に恵まれておるな」
感謝の意を表するため、頭を下げる。
一方で頭の中では疑問が渦巻いていた。今、息子達のことを切り出すとはどういうことだろうか。自分がいつ身を引くのかを気にしているのか。否、そのような単純なことであれば、ここで含みのあるような物言いなどしない。
今の家康にとって気がかりなことが何か。
豊臣との関係性、各大名の動き、家康の個人的なこと、それらを並べると答えは恐ろしく単純に導き出せた。
「滅相もございませぬ。これからも我らは天下の平穏と徳川様の御為に力を尽くす所存」
「左様か左様か」
頭に愉快そうな声が降り注ぐ。まだ豊臣が健在だというのに天下を取ったつもりでいるのだろう。実際、征夷大将軍となった家康に対して豊臣の支配は畿内に留まっている。
これに不満を持つ者は少なくないだろう。
「だが、秀頼様のこともよう支えてくれ」
為信は無言で咄嗟に頭を下げる。表情には出さなかったが、想定外の言葉による困惑は頭での整理がすぐに付くものでなかった。
自分の忠誠を試しているのだろうか。
家康がこれから先、豊臣をどう扱うか分からない。いつか武力衝突が起こるかもしれない。その時に自分が生きているか不明だが、今回のように石田の血を絶えることを防いだように何か手助け出来ることがあれば良いのだが。
「のう。津軽、その方も大分老いた。そろそろ、跡を継がせてはどうか」
家康の声から威圧感が無くなり、不意に目をそちらへ向ける。品定めをするような視線は無くなり、いかにも好々爺とした雰囲気になっている。
あえて油断を誘っているのだろうか。
周りの家臣達のこちらに対する警戒は全く緩んでいない。そもそも、彼らの動向で家康の真意が分かるとも思えない。
相手も多くの修羅場を潜り抜けてきた強者である以上、下手なことを言えば自分の首どころか御家さえも飛んでしまう。
「恐れながら、我が津軽の家はすでに嫡男左馬頭が万全を期しておりまする。故に、某はいつ死しても構わぬ身。それ故、最期まで御身を天下の泰平と御家の安寧に身を捧ぐ決意にて」
家康の唇が一瞬動いたような気がする。だが、目の方はこちらを品定めするようなことをしてきていない。
「左様か。その方は実に恵まれているようで何より」
家康は少し眉根を落とし、話は終わったと腰を上げる。為信は意味が分からないと思うまま頭を下げ、彼が部屋を去っていった方を見つめる。
徳川の行く末を案じているのか。だが、彼の跡継ぎである秀忠も関ヶ原の前から充分に役割を果たしていると聞いている。
確かに中山道からの関ヶ原への行軍ではしくじったと聞いているが、家康とて秀吉に遅れを取るなど、敗戦を何度も重ねているだろう。
為信は会見を終えるとその足で西洞院時慶の下に向かった。
元々、約束していたため、すぐに中へと通してもらい、時慶が入ってきた。
「久しいのう右京太夫、息災だったか」
「はっ、参議様も変わりなく、何よりでございまする」
すでに五十近いと聞いているが、通りの良い声と真っ直ぐに伸びた腰は壮健さを伝えてくれる。顔にはこれまでの苦労を語るかのような皺を持っているが、蓄えた口髭と共にむしろ威厳になっている。
「うむ、此度もよう来てくれた。されど、お主も年。はるばる陸奥の最北端からこちらに来るのは大変だろう」
「寛大なお言葉、痛み入りまする。されど、津軽の家のため、京の皆々様と交わり、安寧をもたらすことが肝要と思う所存」
「徳川と豊臣、いかに思う」
普段、他の貴族同様に風見鶏な対応をする彼だが、信頼を置いているが故に誰もが答えにくいことを聞いてくる。
「必ずや戦になるかと」
「どちらが勝者となる」
為信は視線を落とす。
難しい問い。時慶は秀吉の正室、高台院と近い。時流が徳川に流れていることを危惧しているのか、身の振り方を決めあぐねているのか。
これまで何度も面会をしているが、今回、その真意がどちらにあるのか掴めない。
「徳川殿がいつ戦を仕掛けるか次第」
顔を上げ、時慶の目を見て答える。
無難な回答で落ち着かせるしかない。だが、彼は納得がいかないのか、眉根をひそませる。
「されど、家康は生きている内に方を付けたがるであろう」
「然り。故に、何かを手を打つかと」
「如何なることだと思うか」
先程の家康とのやり取りを思い返す。
津軽の徳川に対する態度を見ていた他に心当たりがあるとすれば、しきりに跡継ぎのことを気にかけていた。
先程からもしかすると、と思っていたが、時慶との会話でそれが確信に変わった。
「例えるなら、御嫡男への征夷大将軍を譲ることもあり得るかと」
確信に変わったとはいえ、確証が無い以上、含みを入れておく。
「秀忠殿か……さもありなん」
時慶は驚くこともなく、素直に受け入れる。流石に貴族として乱世を生き延びてきたためか、世の中の動きには柔軟である。
しかし、気落ちしたような口調から、本人として面白くないと思っているのだろう。
徳川が豊臣を滅ぼすか否かは別として、徳川の世を盤石にするための布石は打つ。自分が家康であればそうする。国替えか、減封か、人質か。
「まぁ良い。戦に備えておかねばならぬだろうな」
「御意」
時慶からの更問いはなく、その後は互いの近況を話し合う、和やかな雰囲気の中での会談が続いた。
しかし、為信の感情は会談が進むにつれて、負の方向へと沈んでいく。時慶もそうだろう。
戦となれば、為信も時慶もどちらに付くかでその後の御家の天命を決める。西洞院家ほどの家が取り潰しになるようなことなど無いだろうが、冷遇は免れない。そして、津軽という徳川からすれば指で突付けば飛んでしまうような家など言うまでもなく。
為信は会談を終えた後、すぐに宿屋にて信建宛に武具と兵糧の調達に備えた資金を集めるように指示を出す書状を認めた。
それからは、翌年の慶長九年三月に帰国するまでの間、時慶を中心として、貴族らとやり取りを行った。
慶長十二年十月、突然のことだった。
「平太郎が、死んだというのか」
「はっ……」
為信の頭は薬師からもたらされた報告をただ拒絶し続ける。現実ではなく、夢だと自覚したかった。しかし、自覚が出来ている時点でそれが夢ではないと気付かされる。
「真か」
「……はっ」
それでも確かめずにいられなかった。これまで描いていた津軽家の理想の未来像が脆くも儚く崩れ去る。
確かに信建の病は癒えずにはいたが、小康状態が続き、主としての役割を充分に果たしていた。
自身の体力も限界を感じていたこの時期に亡くなるとは。
これまでの悪行の報いとでも言いたいのだろうか。
顔を両手で覆い、いかがしたものかと思考を巡らせる。
もう信建は帰ってこない。自身もこれ以上、津軽の主を続けるのは厳しい。新たな次を考えなければならないが、意中の孫は未だに幼い。
「このことを平蔵に伝えたか」
「これよりお伝えしようかと」
薬師の言葉を聞くや否やすぐに立ち上がった。
「平蔵には俺から伝える。他に知っている者がおれば、このことは他言無用と伝えよ」
返事を待たずに部屋を出る。
不安が足取りを早くし、あっという間に信枚がいる部屋の前に着く。
扉を許可を得ないまま勢いよく開く。ようやく為信は自分が肩で息をしていることに気付いた。
「如何なされました」
「平太郎が死んだ」
普段、表情を崩さない信枚の目が丸くなる。
しばしの沈黙の後、彼から口を開いた。
「これから、当家は如何に」
内心で立派になったと思う。現実を見て、これからを見据えている。
為信の憂慮は消え、すぐに口を開いた。
「この期に及んでは、お主がこの家を継いでもらう他ない」
さらに信枚の目が大きくなる。
「お待ちくだされ、兄上には熊千代がおりまする。まだ齢は十二ですが、しばらく父上が取り仕切ることは」
「俺ももう長くはないだろう」
「ならば、熊千代の元服を早く行いましょう。さすれば、私が支えまする」
「お前なら俺や平太郎の行ってきたことを間近で見て、学んでいる。京に長くいさせたことがかような形で功を奏すと思わなんだがな」
「されど、必ずや不穏な動きはあるはず。兄上を支えていた者は必ずや動くでしょう」
信枚が口に出さなかったが、津軽建広のことを言っているとすぐに察した。
建広は関ヶ原の戦いの前年に為信の長女を娶っていて、発言力は家臣の中でも大きく、彼は信建の側近として動いてきた。時慶との窓口を務めたこともあるため、働きを考えるとそれに同調する者も少なくないだろう。
「ご案じはもっとも。されど、私は私の立ち位置を弁えておりまする」
信枚は、為信が眉間にしわを寄せ続けていたのを察し、先んじて口を開いてくれた。
それこそ待っていた言質である。
「……分かった。そこまで言うのであれば、熊千代に継がせる。忙しくなるぞ」
「御意。すぐさま手配をいたしまする」
為信は部屋を先に辞した信枚の背中を見て、ほくそ笑む。
彼自らがこの争いから降りると言えば、憂いなく信枚派として動くであろう者を押さえ込める。
それから、為信は故郷に向けて手紙を認め、供回り達に信建の死を伝えた。
悲しいという気持ちなど、脇に置いておかなければならない。それだけの急を要する事態である。
だが、天は何故自分ではなく、信建を選ぶのか。
「奥方様がご到着されました」
「なに」
信建の死の翌日だった。
「急に如何したのだ」
「それが、久方ぶりに皆に会いたいと」
詭弁だとすぐに分かった。
何を感じ取ったのだろうか。彼女の嗅覚は鋭い。よもや、嫡男の死さえも感じ取ったのか。
さすがにそれは無いだろうと気持ちを整理して、待たせている部屋へと向かう。
福はどのような面持ちで自分の言葉を聞くだろうか。さすがに驚愕するか。それとも、これまで通り冷淡に対応するか。
「よう来たな」
「ええ、少しね」
部屋に入るとすでに福がゆったりと膝をついていた。
含みのある言い方に何か裏があると感じる。構わずに腰を下ろすと口を開いた。
「理由はなんだ」
「ちょっと、気になることがあってね。特にあなたの子供達の」
そのようなあやふやな理由でわざわざこちらまで来るとは思えない。
だが、いつまでも事実を隠すわけにもいかない。
「平太郎が死んだ」
「あら、病気かしらね」
「ああ」
「はぁ、もう少し頑張ってくれると思ったけど……あーあ、やっぱり駄目だったか」
信枚との違いに眉根を潜めるしかない。
「次のことは決めているんでしょう」
「熊千代に継がせる。それが定石だ」
「いえ、熊千代よりも平蔵の方が良いわ。彼に継がせましょう」
平然と言ってのけたことに目を丸くするしかない。
「しかし、奴とて熊千代を補佐すると言うておる」
「あなた、熊千代にしたことを忘れたの。あれのこと、熊千代は忘れていないわ。このままだと私の意のままにはならない」
どれだけの年月が経とうとも口を挟むつもりなのか。
彼女らしいといえばそれまでだが、自分が正式に跡を継がせることになれば、そう簡単にはいかないだろう。
「平蔵に跡を継がせるとして、如何ように政に携わるのだ」
「あら、私は血が繋がっていなくても母よ。いくらでもやりようはあるわ」
「よもや、平蔵までも抱き込むつもりなのか」
隠していた動揺が初めて表情に出ているのを感じる。福にとって赤の他人であり、都合の良い人形になりうる信枚も、為信にとって大事な息子の一人。
それが自分のような人生を歩むことになるのは忍びない。
「ええ、何か文句でも」
「いや、いつまで左様にいられるのかと思うてな」
「大丈夫。私はあなたより遅く死ぬわ。少なくとも、ね……」
「な……」
思わず声が出てしまった。
「俺に死相が出ていると」
「いや、そういうわけじゃないわ」
反射的に福の胸ぐらを掴む。一瞬しまったと思ったが、もう止めることはできない。
「いかなる訳で、そう言える」
「さぁ、何故でしょう」
「はぐらかすな。一体、何故……」
為信の頭に殴られたような痛みが走る。
その隙を福が見逃すはずもなく、為信の掴んでいた腕を振り払い、逆の手で腕を引き、足をかけてきた。
為信は痛みに耐えることに必死だったため、抗えずに成されるがままにうつ伏せに倒れる。
「まったく……どうしてこうなるのか」
外から従者が駆け寄ってきて、「何事か」と声をかけてくる。だが、福が優しい声で「何でもありませぬ」と言うと素直に去っていってしまった。
「普通だったら、耄碌していってくれるのにねえ」
腕を掴む力が強まる。抵抗しようにも体に力が入らない。
「あなたが意を決して森岡を守って、石田なんかに着こうとした時、何かが芽生えてしまったのかしらね……いえ、くすぶる何かが目覚めてしまったのか」
「俺は玩具ではなくなったということか」
「そうね、失敗だったわ。まぁ、平蔵は何とかしましょう」
「駄目だ……」
「無理よ。今のあなたではね」
何故、今まで気付かなかったのだろう。自分が福にとって特別と思っていたからだろうか。それが最適解だろう。
だからこそ、子供達にも牙が剥くと思っていなかった。
彼女にとって、津軽とは何なのか。彼女は東北を統べることが目標だと言っていた。しかし、何も出来ずに南部から独立したこと以外に何も成せずに世の中が乱世から抜け出そうとしている。
彼女の真の目的が分からない。だが、問うことも出来ずに為信の意識は飛ぼうとしている。
「……」
自分でも何を言っているのか、もはや分からない。
視界が暗転し、最後に見えたのは福の屈託のない満面の笑み。
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