十五(終)
目覚めの前触れは何もなかった。
夢を見ることもなかった。
ただ、静かに深い眠りについていた。
真っ暗だった視界が白くなり、開けた目を強く瞑る。
視力以外の感覚が呼び戻される感覚が自分はまだ生きているのだと実感させてくれる。
福にあのようなことを言われたため、もうこの世から去ったのかと思ったが、そこは安堵する。
「父上、お目覚めになりましたか」
近くで信枚の声が聞こえる。まだ安定しない視界は彼の姿を認めることができない。
「ここは……」
「伏見の屋敷にございまする。三日眠っておりました」
「なっ……」
驚きの余りに腰が浮いたが、立ち上がれずに再び横になる。
何かが体に触れる。徐々に明るさに慣れてきた視界が信枚の腕だと教えてくれた。
「すまぬな」
声が掠れている。これでは何かを伝えることもできないだろう。そうなるとより一層、信枚の役目が増えてしまう。
「ご無理されることはございませぬ。某が父上の代わりを務めている故」
「左様か」
安堵の息を吐く。積極的に対応してくれるのであれば、問題はなかっただろう。
「このことは皆知っておるか」
「いえ、某と母上、家人以外は知りませぬ」
三日も人前に出なければ怪しまれるだろう。それを隠し通していたのはお見事と言う他ない。
「よくやってくれた。何かと苦労をかけたであろう」
「とんでもございませぬ。これも父上の跡を継ぐための者の役目でございまする」
為信は目を丸くし、眉根を潜ませる。
(かようなことは一言も言っておらぬ……)
声に出そうとしても、喉が開かない。どういうことだと信枚を睨むが、彼も困惑するようにこちらの顔を見てくる。
「母上がそう仰っておりましたが」
やられたと天を仰ぐ。三日も自分の目がなければ、信枚へ接近も容易いだろう。その時にどのような甘言があったのか分からないが、心を強く揺さぶられたのだろう。
純粋な疑問を浮かべた信枚の表情を見る。目の色はいつもの彼であり、一見すれば決して変わらない、いつも通りのそれである。
だが、為信には彼の目に僅かな濁りがあるのが見えてしまう。福に毒され、今は弱くても着実に侵食しようとしている。
「平蔵、今一度申し上げておく。お前には熊千代を支えてもらうためにこれからは動いてもらうぞ」
「え、それは……」
信枚の目の濁りが少しだけ浄化されていくのが分かる。やはり、まだ完全に毒されているわけでない。このまま説得を続ければ必ず元に戻ってくれる。
「俺も長くない。だが、この津軽という家をこれからもずっと続くものとしていきたいという思いは死しても変わらない」
信枚の肩をできる限りの力で強く掴む。
「良いか。熊千代に家を継がせるのは嫡流の流れを守り、津軽を存続させることだ。そのためにはお前の力が欠かせぬ」
「さ、されど……これより津軽を大きくするには熊千代では……」
「乱世はもうじき終わる。ここで無駄な争いを起こしてみろ。我らは徳川に睨まれるだけでなく、南部や秋田からは取り潰しの好機と捉えられるのだ」
福は未だに夢を見続けている。それを叶えるにはもう老いた。時代が変わった。
疲弊した民は平穏を求め、各国の大名達も理不尽な平穏を受け入れた。逆らう者は豊臣によって滅ぼされ、徳川によってさらに減った。御家存続のために死んだ者もいる。それを好機と見て何度動いてきたことか。
だが、乱世を憂うような流れが日ノ本を飲み込もうとするだろう。乱世を知らない者がこれから生まれていき、御家を大きくするのではなく、守る方へと進むだろう。
「良いな、これは御家だけでなく、お前のためでもあるのだぞ」
「……承知いたしました」
信枚の目を覗く。先程までの汚れた目が清くなっている。これで彼女による支配は自分だけで終える。徳川に逆らうことも、波風の立つようなこともせず、平穏に泰平の世を謳歌し、民とともに生きることができる。
「少し横にさせてくれ。疲れた」
「ご無理のなきよう」
為信は信枚が退出するのを認めると周囲が閉じた襖と壁に囲まれた部屋から、せめてと外の様子を耳で窺う。
家人の動きからして朝だろう。
そう確信し、横になって目を瞑る。
為信が再び目を覚ましたのは、その日の夜だった。
一度、夢か現かを確認するため、周囲を確認し、腕を動かしてみる。深い眠りに入っていたのか、夢を見ることもなかった。先程よりも体は軽く、立ち上がることもできそうだ。
「よっ……んっ……」
上半身と足は動かせるが、そこから先がままならない。これでは歩けないともう一度力を入れるが、肝心の腰も立たない。
焦りが表情を歪ませ、口を開かせる。
「誰か、誰かいるか」
数秒の沈黙の後、うるさい足音が近付いてくる。
「父上、お目覚めになられましたか」
「すまぬが、肩を貸してくれぬか」
「それはできませぬ」
入ってきた信枚に伸ばした手が止まる。
「何を言うか。外の様子を見たいのだ」
「父上はお加減が優れぬのです。今はここで養生くだされ」
「お主、己が何を言っているのか分かっておるのか」
「母上より、そうするのが父上がためと」
よもやと思い、信枚の目を見る。
「……手遅れだったか」
「いかような意味で」
「……なんでもない」
立てていた右膝に右腕をだらりと置く。彼はもう完全に福へと服従してしまった。かつての自分と同じように。そして、これからも津軽は彼女の意向のままに動いてしまう。
もはや、この流れは止められないのか。否、最期まで抗わなければ津軽は安寧を迎えることのないままこれからを生きていく。
「福に何と言われた」
「『我が殿はもう長くはない。これよりは、そなたが津軽の主となり、御家を盛り立てていかねばならぬ』と」
「熊千代のことは何も問わなかったのか」
「父上、熊千代は幼く、これからの津軽を受け持つことはできませぬ」
「今は泰平の世ぞ。乱世と違う」
「いつ乱世に逆戻りするか分かりませぬ」
「それも福から言われたか」
「はっ」
信枚は迷うことなく、肯定してしまった。
主になるのがお前ならば、その自分の意見はいかがなものか、持っていないのか。
頬を叩き、そう言いたい。だが、腕を上げることもままならず、当たり散らすような虚しい舌打ちのみを響かせる。
「今一度言おう。俺は左様なことは一切決めておらぬ。お主はあくまでも熊千代を支えよ」
「いえ、父上と母上が取り決めたと、母上が仰っておりました。故に、間違えではございませぬ」
気付いていないのだろう。自分の目から輝きが失われていることを。
人には見えない毒が我が息子にも侵食しているのが分かる。
何故なら疾うの昔に為信も侵されているのだから。
「お主、それを俺から聞いたことがあるか。俺が真にかようなことを申したか。思い出せ」
「あれは偽りであると申されておりまする」
「違う」
力を振り絞り、信枚の肩を掴もうとするが、腕が上がらない。だが、それに絶望する余裕もない。
「違うのだ。俺は……」
「母上に確認いたしまする」
「待て……」
信枚は聞こえていなかったかのように、一礼すると部屋を辞してしまった。
また、孤独な部屋に静寂が落ちる。主である為信が目を覚ましたのに誰も来る気配がない。
「森岡なら……」
懐かしい名前が自然と零れた。本当に信頼できるのはおそらく彼だけだったのだろう。それを殺めた自分はその時から誰からも信頼されなくなってしまったのではないか。
思えば、石田三成の家族を匿った時、誰かに同意を得ようとしたか。誰にも何も言わずに勝手に福と共に決めていたではないか。
因果応報。
その言葉が脳裏から刀となって自分の心臓を刺す。
体から力が抜けていき、大きな音を立てて、布団へ仰向けに倒れ込む。
「外まで聞こえるわよ」
福が音を立てずに部屋へ入ってきた。
為信を心配する様子はなく、面倒事を増やすなと怒りの目を向けてくる。
「これで全てお前の意のままか」
「そうよ。あなたがいなくても津軽は発展できるわ」
「争いを生むような真似をすれば、津軽が終わるだけだ」
「そんなことぐらい分かっているわよ」
福は口元だけを歪ませ、傍に座る。
「当分は無理ね。さすがに今回はあなたが正しかったわ。けどね、人っていうのは単純な平穏をすんなり受け入れられるような甘い連中ばかりじゃないのよ。その時に備えれば良い」
「お前は何故、先まで生きているかのように話せる」
「さぁ、どうしてでしょう」
悪寒が背中を走る。
「その時、津軽は生き残るのか」
「さぁ、興味ないわ」
「貴様……」
福の袖を掴もうとするが、あっさりと受け流される。みっともなく倒れる様を上から蔑むように見下す福の視線を感じながらも顔を上げることができない。
「あなたが死んだとして、津軽の血が絶えたとして、私の中に流れる成り上がりの血を絶やすことはできないわ」
「俺はもう不要か……」
「ええ。玩具は壊れたら捨てるでしょう」
忘れたことなどない。しかし、このような時に言われると心を抉られる。
紛いなりにも共に歩んだはずだろう。それすらも福にとっては価値のない出来事の一端にすぎない。
「安心してお逝き。貴方はもうただのごみなのだからね」
福は袖から小さな三角に畳まれた包装紙を取り出し、枕元に置かれていた湯呑みに水を入れ、その中に包装紙を解き、粉を湯呑みに入れて茶杓で丁寧に混ぜる。
「はい」
「……」
「飲みなさい」
「死ねというのか」
「嫌なら飲ませるわね」
福は言うや素早い動きで、為信の顎を掴み、口を無理やり空けようとしてくる。為信も必死に抵抗するが、福の力の前にあっさり口が開き、歯の隙間から薬が口内に入っていく。吐き出そうにも顔を上に向けられ、為す術もなく喉を通り抜け、体内へと入っていった。
「少しすれば痛みもなく死ねるわ。良かったわね」
為信は死への恐怖から歯を鳴らすしか出来ない。
「返事も出来ない。やっぱり、人間ってそんなものか」
腕を伸ばそうとするが、福がそれを扇子ではたき落とす。続けざまに後頭部を叩かれ、地面にもんどり打った。
めげずに立ち上がろうとするが、打ち所が悪かったのかうつぶせのまま動くことが出来ない。それどころか、意識が徐々に薄まってきている。
何と惨めな最期か。
「じゃ、今世はこれまでね」
足音が遠くなり、襖の閉まる音が聞こえた。
玩具契約 北極星 @hokkyokusei1600
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