第十三話 始動
(1)
昨年後半からウイークデイもオフ日もやたら慌ただしくなったので、年明け三が日くらいは完全寝正月にしたかったんだが、世の中そう甘くなかった。
正月気分は元旦のみ。陽花が翌二日から、有美ちゃんが三日からもう勤務だったからだ。二人のために特に何かしたわけではないんだが、自分だけがぐうたら牛モードを決め込むのは
それでも、子供らが襲って来なかっただけましなんだろう。
優と雅美さんは、連れ立って雅美さんの実家に年始挨拶に行ったし、由仁と敬士さんは夫婦水入らずで正月を過ごすらしい。陽花がいなければ由仁が食材漁りに来たかもしれないが、陽花には漏れなく有美ちゃんとこのかちゃんがついてくる。これまで散々陽花に迷惑をかけてきたから、冷蔵庫の高級食材をごっそり持ち帰るのはさすがに断念したらしい。もし家にいるのが俺だけだったなら、必ずやらかしただろう。
今年は三が日明けがすぐ土日で、俺の休みが長い。陽花と有美ちゃんが通常営業モードに入って不在になる二日間だけが、貴重な俺のリラックスタイムになるはずだった……が。四日の午前中に思いがけない来客があり、頭を抱えるはめになった。
「なるほどなあ。転勤の打診か」
「はい」
来客は敬士さん。由仁も愛理ちゃんも伴っていない。一人きりだ。昨年のクリスマスに家に来た時にも何か言いたげだったから、相談事だろうと察してはいたものの中身の見当がつかなかった。まさか転勤の打診だとはな。
「由仁が反対しているとかかい?」
「いいえ」
表情を窺い見る限り、説得できなくて万策尽きたという状況ではなさそうだ。顔に浮かんでいるのは困惑。
敬士さんの話だと、結婚する前に転勤を伴う仕事だということは話してあったそうだし、由仁も特別現職にこだわりがあるわけではなく、夫の転勤には付いていくと明言していたらしい。敬士さんへの転勤打診は結婚前からだったそうで、入籍、転居、妻の妊娠・出産、育児とイベント続きだったことを踏まえて、上が待ってくれたらしい。由仁がまだ仕事を続けていればもっと猶予を延ばせたかもしれないが、仕事はクビになり、乳児だった愛理ももう一歳を過ぎた。転勤を引き延ばす理由がなくなったわけだ。転勤は昇給昇格ステップの一つだから、敬士さんは打診を拒むつもりはないと言った。当然由仁も付いてきてくれると思って転勤の話をした途端……由仁が貝になってしまったそうだ。
嫌がる由仁を引きずってまで転勤するつもりはないので、イエスノーの意思表示をきちんとしてほしい。敬士さんのリクエストは至極当然だろう。だが、由仁は日常会話には応じるものの、転勤の話になった途端ぴたりと口を閉ざしてしまい、とりつく島もない。そろそろ上に諾否を伝えないとならないんだが、どうしたらいいだろう……という相談だった。
頭が痛い。なんだ、あいつ。普段とことん偉そうに調子こいてるくせに、肝心な時にびびりやがって。
口数で相手を丸め込もうとする連中には小心者が多い。由仁はその典型だと思っている。ちゃっかり屋というのは外見だけで、実際には逃げてんだよ。ちゃっかりを成功させるには、相手の警戒心や敵意をうまいことスルーし、好意や善意をそれとなく持ち上げなければならない。ちゃっかり屋ってのは、相手の心理を読む能力が優れていないとできない。
だが、由仁は常に逃げ腰だ。相手の心理を読む前に出まかせの言葉を積み上げて持論を正当化し、その勢いで頼み事をする。相手の心情にきちんと向き合わないから、ギブアンドテイクのバランスがいつも合わない。だから頼み事をする相手に「こっちの持ち出しばかりだ」という悪印象を植え付けてしまうんだよ。
「やれやれ……」
「僕はどうしたらいいんでしょう」
「そうだなあ。愛理は君にみてもらって、由仁単独でこっちに来るよう言ってくれ」
「来ますか?」
「来させる。あいつは逃げてるだけさ。転勤で知り合いが誰もいなくなれば、すぐ孤立無縁になると思い込んでるんだろさ」
「あ……」
思わず苦笑してしまった。
「君の包容力が優れているから、今は君に逃げ込んでいられる。でも、あいつがいつまでも家にこもっていられるはずがない。すぐに窒息するだろ」
「窒息、ですか」
「そう。君は由仁にとって出来過ぎなんだよ。俺はそう思っている」
「僕はそんな……」
「ははは。癖の強い由仁と上手に付き合っていられるだけで大人物さ。あいつに付き合いの長い友達は誰もいないはず。トラブったら逃げて次を探す。その繰り返しだったからな」
敬士さんが俯いたから、由仁の悪癖については十分認識しているんだろう。
逃げ込む先がなければ逃げ続けるしかない。あいつは、今までずっと不毛な逃避行を続けてきたんだ。しかし、幸か不幸か敬士さんという最大最良の安全地帯に出会ってしまった。
辛抱強く、温厚で奥が深く、何より由仁のことを深く愛している。外でどれほど嫌なことがあっても、家に帰れば全ての重荷を捨てて身軽になれる。これまでやらかしてきたちゃっかりの反動がどっと降ってきて、あいつは一刻も早く敬士さんに逃げ込みたかったんだろう。仕事がおざなりになり、ちゃっかりの度合いが常軌を逸した。悪循環に陥ったんだ。
だけどな。一度安全地帯に閉じこもると、そこから出る気力がなくなるんだよ。俺が全力で守った章子が、そのせいで家に引きこもってしまったように。
章子はそれで満足した。搾取する者さえ近くにいなければ良かったんだ。だが、由仁は違う。外の空気は吸いたい。自分の好きなようにやりたい。家にずっと閉じこもっていたくはない。今は、意識が激しく揺れ動いているんだろう。
「とりあえず、膝詰めで話をしてみるさ。説教じゃなくて聞き取りだよ。成人した大人に説教するなんざ、時間の無駄だ。ったく」
これでもかと渋面になった俺を見て、敬士さんがこそっと笑った。
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