(3)

 翌朝。有美ちゃんとのやり取りで疲れたのか、まだ起きてこない陽花をそのままにして家を出た。


「うーん、やっぱり冷え込むと途端に機嫌が悪くなるなあ」


 俺たち人間が寒くてぶるぶる震えるならわかるが、もともと冷たい鉄の塊のくせに寒くなるとぶるぶる震えるなんざまるっきり根性が足りん。……とか訳のわからない八つ当たりを軽にぶちまけ、いつもはほとんどしない暖機運転に少しだけ時間を割く。車内で吐く息がまだ白いうちに、もう一度今日のスケジュールを確かめておこう。


「まずお袋の様子を見る」


 お袋が認知障害を発症したのは早かった。還暦過ぎてすぐに専門医に診せたが、かなり症状が進んでいると言われた。発症したのはもっと前だったんだろう。典型的なアルツハイマー型だと診断され、退職後の親父がつきっきりで面倒を見ていたものの親父が後期高齢者の年齢になって体力が尽き、自宅介護の限界が来てしまった。

 お袋は専業主婦だったから無意識に家事をこなそうとするんだが、何をしていたのかすぐ忘れてしまう。毎日扱う火や水の適切な管理ができなくなれば、即座に事故やトラブルに直結するんだ。集合住宅でトラブルを起こすと夫婦揃って居場所を失いかねない。親父は断腸の思いでお袋を施設に入れることにした。


 お袋の症状に気づくのが遅れたのは、お袋がもともと無口だからだ。会話がとんちんかんになればもっと早く症状に気づけたはずだが、しょっちゅう家事をとちるようになって初めて親父が異変に気付いた。その時には症状がかなり進行してしまっていた。俺が章子の病に気づけなかったのと同じ後悔を、親父もしたんだ。

 因果なもので、最後までお袋のことを案じながら親父が先に逝き、お袋は認知症を抱えながらもまだ生き長らえている。七十を過ぎてからは親父と俺との区別がつかなくなり、今は俺が誰かもわからないようだ。何もかも忘却の彼方に置き去っているように見えるが、黙して語らぬ何かをひっそり心の内に灯し、日々を積み重ねている。


「ただ……トシがトシだからな」


 施設は至れり尽くせりでとても親身にお袋をケアしてくれるが、脳の衰微に伴って全身の機能が徐々に低下している。心肺の筋力も衰えているので、健康な状態を維持するというより緩和ケアに近い状態なんだ。いつ何時容体が急変するかわからないから、これまで以上に施設と緊密な連絡を取り合う必要があるんだが……。

 お袋と不仲の陽花は最後までお袋との接触を避けるだろうし、仕事と乳児の世話で手一杯の子供らは全くあてにできない。俺だって、愚図で不器用だから仕事との両立はしんどい、本当は野原に関わっている暇なんかないんだ。それでも俺が野原に手を突っ込んだのは、俺ら家族の幸福のカタチが野原にあったからだ。


 親父もお袋も生家との関係が壊れていた。

 親父は権威主義者の祖父に反発して家を出た。その時に親子の縁を切られている。あの温厚でのんびり屋の親父が二度と顔を見たくないというくらいだから、筆舌に尽くし難い激しいやり取りがあったのだろう。家を出て以降、親父には帰る家がなくなった。

 だが、自力で進む道を切り拓いた親父はマシだった。親父曰くお袋の境遇はもっと悲惨だったという。両親から古臭い価値観を叩き込まれていたお袋は、娘でありながら家の下女として使い潰される寸前だったそうだ。女はつべこべ言うなという無理強いに逆らえず、親父が強引に家から引き離さなければロボットにされていたかもしれないと聞かされた。お袋は暖かい家庭を体感したことがないんだ。

 暖かいはずの家庭が、因習がちがちの冷たいコンクリートじゃあ身が保たないよな。親父たちは、ささやかでいいから暖かくて穏やかな家庭を作ろうとしたんだろう。


 だが。超スローペースな俺が生まれたことで、当てが外れた。俺と陽花の世話にかかる時間がアンバランスになり、豊島さんが言ったように陽花が本音を隠すいいかっこしいになった。陽花はすぐ黙りこくってしまうお袋を嫌っているが、お袋も本心が見えない陽花に苦手意識を持ったんだろう。まさに同族嫌悪だよ。

 穏やかに過ごせるはずの家にじわりと不協和音が響くようになって、お袋は疲れたんだろう。口数が少なかったお袋がますます黙り込むようになった。親父が俺たちを連れて近場に出かけるようになったのは、家族サービスではなくお袋の心を休ませるためだったと思う。そして……運命に引き合わされたかのように、親父は永遠の野原に出会った。

 永遠の野原では親父もお袋も子供の世話をする必要がなかった。俺たちを野原に放牧している間だけは、憧れ、渇望し、作り上げようとした理想のひとときが確保できたんだ。難ありの俺たちだけでなく、親父もお袋も野原では自由だった。心を縛る全てのくびきを解き放ち、草と陽光以外何もない野原を無心に見渡していられた。


 そうやって野原でガス抜きをしながら過ごしていけたらよかったんだがな……。

 大学に進んですぐ、陽花が出来ちゃったの修羅場を引っ張ってくるなんてのは予想外もいいところだ。両家話し合いの席でお袋が最後まで口を開かなかったのは、陽花を責めていたからじゃない。ただ呆然としていただけだろう。だが陽花は両親と袂を分かち、俺らの家を捨てた。代価として宇沢姓と有美ちゃんを得たが、失った家庭の穴を他の男で埋めようとしてくだらない失敗を繰り返すようになった。お袋はがっかりしただろうな。

 陽花に家を台無しにされたお袋はひどく落胆したんだろう。俺が章子と結婚して子供が出来てから度々両親の住むマンションを訪ねるようになったんだが、会うたびにどんどん老け込んでいくお袋を見て怖くなったのを今でも覚えている。そして……いつしかお袋の記憶が零れ落ちていくようになった。まるで、思い出したくないものを残らず放り捨てようとするかのように。


「ふう……」


 それでも。それでもまだ、お袋は生きている。生きている限り、何かを覚えているだろう。思い出そうとするだろう。残されている記憶が、どんなにささやかでもいいからお袋にとって幸福だと思えるものであればいいなと。心からそう祈る。


「あとは豊島さんを見舞って、帰りに野原に寄って帰るか」


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