(5)
「二つ目」
間髪入れずに二つ目のノルマが切り出された。
「わたしゃ筋金入りの嫌われ者だったから、すり寄ってくるやつなんか誰もいなかった。旦那の方も含めて親族との縁は全部切れてる。だけど、死んだら話は別さ。残された遺産は我を張らないからね。いろんなやつが縁者のふりして綾瀬さんにすり寄って来るよ。そいつらは一人残らず撃退して」
「もちろんです」
「頼もしいね。ただ、その中にもしかしたら息子がいるかもしれない」
全員、ぎょっとしてのけぞった。
「死んだんじゃ……」
青くなった高木さんが、改めて確認する。
「行方不明期間が長くなったから、死亡認定してもらっただけさ。社会的死者であって、本当に死んでるかどうかはわからない。でもね」
真っ赤に茹だった豊島さんが、ガラス窓をぶち割る勢いで叫んだ。
「自分の尻も拭けない腑抜けのクソ野郎に、何一つ遺すもんかあっ!」
ああ、わかる。生きるってのは苦行だ。その苦行から逃げ回れば、逆に苦行が膨れ上がる。陽花を孕ませた男は、結局自分の人生でそのツケを払った。豊島さんの息子がもし生きていても、彼と大差ないんだ。
どれほど窮屈でも己の生き方を徹底的に貫くのが豊島さんの信条。自分を下げて人におもねるのは仕方ないにしても、全ての責任を放棄して逃げたことは絶対に許せないんだろう。
「三つ目。あの野原のことだ!」
ぎっ! 綾瀬さんが歯を噛み鳴らす音が聞こえた。
「あの野原は、わたしの戦友であると同時に仇敵だよ。一人だけのうのうと生き延びやがって! くそ腹立つ!」
一人……か。そう、野原の主がもしいるとすれば、それは神仏のような超越者ではなく、ただの人。それも、豊島さんのようにとことん偏屈で頑固なやつのような気がするんだ。以前豊島さんと話をした時、野原が人っぽいと感じる印象が一致している。野原の行状が神罰や仏罰と言った高尚なものではなく、単なる駄々や八つ当たりに見えるんだよ。
豊島さんが、容赦無く綾瀬さんをどやした。
「なあ、綾瀬さん。あんたが失ったのは五十年という時間だけじゃない。財産も人脈も地位も、何もかもあの野原に持って行かれたんだ。絶対に許せないだろ? 死ぬ気でやり返せ!」
「もちろんです!」
綾瀬さんが悔し涙を流している。このまま敗残者で終わりたくないという気概が誰からもはっきり見える。その気概が……俺の家に移った陽花にはまるっきり欠けてるんだ。全く、どうしたもんかな。
「綾瀬さん、あの野原の正体を暴いてちょうだい。そのあとどうするかは信ちゃんに任せるしかないけど、わたしゃあの野原にだけは絶対負けたくないんだ!」
「一つ目と二つ目は僕だけではどうにもならないかもしれません。でも、三つ目は」
がしっ! 拳と拳を力任せにぶつけ合った綾瀬さんが、声を震わせながら誓った。
「必ず。必ず!」
「頼むね。純粋な被害者はあんただけだ。そして、誰もあの野原を裁けない。だったらあんたが納得するまでやり返すしかない。それが……」
豊島さんが皺だらけの細腕を伸ばし、指を突きつけた。
「あんたの生きる糧になる!」
◇ ◇ ◇
遺言状にしても契約書にしても、書面にしなければならないものがいっぱいある。それに、戸籍のみならず綾瀬さんの身分保障をどうするかはとても微妙かつ難しい話になるだろう。法律の専門家でも頭を悩ませる事案だ。俺に出来そうなことは何もない。
込み入った話がまだ続きそうだったので、一足先に帰ることにする。もともと野原に来たのは陽花に心の整理をさせるための時間稼ぎだったからな。立会人としての義務も果たしたし。
この家に上がり込むのは最初で最後になると思うが、だからと言って豊島さんとの縁を切るつもりはない。お袋が同じ園にいるから、度々顔を合わせることになるだろう。ソファーから立ち上がったら、豊島さんから声がかかった。
「信ちゃん、帰るのかい?」
「ええ。今日から陽花がうちに来てるんです。姪っ子と所帯を分けるための自立訓練ですね」
「やれやれだ。あの年になってもまだよたよたかい」
呆れ果てたという口調で、豊島さんがばっさり切って捨てた。
「生まれもっての性格ですから、いきなり自立は無理ですよ。少しずつやるしかないです」
「ふん!」
強がってはいるが、豊島さんにしたってこの家からの離脱は大きなチャレンジなんだ。今までと違って、百パーセント我を通せる空間がどこにもなくなるからな。
生命と我欲を天秤にかけて生命維持を優先する決断を強いるなんて運命の女神もひどく酷なことをする。だが試練を乗り越えない限り、生きる気力はすぐに失われてしまうんだ。俺は豊島さんの決断を大いに褒め讃えたい。
「渡りの刻、だね」
「え?」
「ほら」
豊島さんが窓外を指差した。リビングのガラス窓上端。編隊を組んだ冬鳥が薄い青空のケープを縫い止めようとして飛行を繰り返している。
「わたしも。信ちゃんも。陽ちゃんも。綾瀬さんも。みんな、渡りの刻さ。一箇所に留まり続けることは誰にもできない」
「そうですね」
「鳥ってのは、わたしらが思ってる以上に寿命が短いんだ。渡る途中で命を落とす鳥がいっぱいいる。それでも……」
豊島さんの目は鳥の動きを追おうとしない。その向こう。不動の何か。永遠というものが在るのかないのかを確かめようとするかのように一点を凝視する。
「鳥は渡る。代をまたぎ、命を懸けて。刻み込まれた生き方だから、自らの意思で変えることは出来ない。でも人間は渡りの意味を考えることができる」
「ええ」
「ただね。考えちゃうと足が動かなくなるんだ。鳥よりずっと劣ってる」
視線を俺に戻して。豊島さんが嘆いた。
「本当に。人間てのは面倒臭い生き物だよ」
◇ ◇ ◇
自宅に戻る前にもう一度野原を見にいった。牧柵に身体を預けて薄い青空を見上げると、どこかに飛び去った渡り鳥の幻影がごく薄い擦り傷を残している。
繁殖や生活に適した場所に移り住む渡り鳥は、変化を許容しているわけじゃない。むしろ逆だ。好ましくない変化の影響を小さくしようとして、あえて危険を伴う渡りに挑む。ぎちぎちと自分の縄張りを主張し続けるモズにしたってそうだ。夏の間は繁殖に適した山寄りに移動するらしい。
ただ
「さて、そろそろ帰るか。鯛焼きでも買って帰るかな」
野原に背を向け、同情混じりの捨て台詞を風に流した。
「おまえには何の楽しみもないな。変化は悪いことばかり持ってくるわけじゃないんだよ」
野原が言い返してくるわけはない。ただ……いつもより枯れ草のざわめきが大きく聞こえたのは気のせいだろうか。
「またな。この、ろくでなし」
【第十一話 渡りの刻 了】
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