(3)
「まず。わたしがここにしがみつくと、誰かに家事を全部丸投げしないとならなくなる。一時的に綾瀬さんに手伝ってもらったけど、余生は彼の方がずっと長いんだ。『今』を無駄に使うと、貴重な将来を全部どぶに捨てることになる」
髪を短く切り、学生っぽさが残っていたカジュアルすぎる服装を少し改めた綾瀬さんが、唇を強く噛み締めながら頷いた。少しは現実に慣れたのだろうか。
じろりと横目で綾瀬さんを睨んだ豊島さんは、その視線を俺に移した。
「わたしも死んだ旦那も、誰かに使われるような生き方はまっぴらだった! したいようにして、当たれば総取り、負ければすってんてん。責任は自分一人分取れればいい。そう決めて生きてきた。だけど、たった一人分の責任すらなかなか取れないんだよ! 今がまさにそうだ!」
悔しいんだろう。目を真っ赤にして豊島さんがまくしたてる。
「誰の世話もしないが、誰の世話にもなりたくない! わたしが絶対に崩したくなかったポリシーだ! でも、もう無理。限界なんだよ。く……」
歯を食いしばる音が聞こえる。拳で目をこすった豊島さんは、ケアマネさんに視線を移した。
「悔しいけど、支援だけではやっていけない。わたしが自力でできなくなったことは、カネで買うしかないんだ!」
はあはあと荒い息に混ぜ、豊島さんが吠え続ける。
「旦那が死ぬ前に打った博打はそこそこ当たりだった。贅沢さえしなければ一生食うに困らないくらいの財を残してくれたけど、わたしは手をつけたくなかった。旦那の人生をカネに換えて食い潰すみたいで嫌だったんだ!」
まだ涙で濡れている拳を車椅子のサイドバーに叩きつける音が、何度も響いた。
「そんなこと、言ってられなくなったけどさ!」
きつい視線がケアマネさんに向けられる。睨まれているケアマネさんは苦笑しているだけ。老人のわがままに付き合うのは慣れているんだろう。
「ここに人を入れるのは、どうしても必要なヘルパーさんであっても絶対に嫌なんだよ! わたしのこだわりをなんとかするには、ここから離れるしかないんだ!」
やっぱりか。お元気な時に俺が家を訪ねても、絶対に敷居をまたがせてもらえなかっただろうな。親父やお袋だって、豊島さんの家を訪ねたという話は一度もしたことがない。豊島さんは、これまでこのプライベート空間を死守してきたんだ。まるで、変化を拒絶する野原のように。
豊島さんがお元気なら、いかに事情があるとはいえ綾瀬さんを家に住まわせるなんてことは絶対にしなかったはず。豊島さんの意識変化はもっと前から起こっていた……か。きっと身体の不調が自らに課した鉄則を考え直すきっかけになったんだろう。もちろん、苦渋の決断だったに違いない。
不躾かと思ったけど、直言が豊島さんのポリシーだ。俺は遠慮抜きで直に聞いてみた。
「介護つき老人ホームに移り住むということですか?」
「そう。あんたのお母さん、早苗さんが入ってるとこにした。征さんからいいところだと聞いていたからね」
おわ! それは……知らなかった。驚いた俺を見てにやっと笑った豊島さんは、その笑みを瞬時に消し飛ばした。
「ただね。わたしがここを出ると、綾瀬さんが宙に浮いちまうんだよ」
「そうか」
豊島さんが綾瀬さんの面倒を見る義理はどこにもない。落ち着いたらあとは自力でなんとかしろと必ず言うはず。そうしなかったことには訳があるな。
じろっ! 豊島さんが綾瀬さんを睨みつけた。
「もちろん、ビジネスだよ。綾瀬さんのスタートアップに手を貸す見返りとして、この家の管理とわたしの死後処理をやってもらう」
う……わ。本当に、豊島さんには驚かされてばかりだ。
「大丈夫なんですか?」
「さあね。綾瀬さんに全幅の信頼を置くわけにはいかない。だから、立会人と監視役に来てもらったんだ」
「私が立会人てことですか?」
「そう。信ちゃんは征さんや徳さんを知ってる。あんたの母さんや章ちゃんとわたしとのやり取りも理解してる。鈍臭いけど、真っ直ぐなのは征さん譲りだね。誰とも馴れ合いたくなかったわたしが唯一警戒なしにホンネをぶちまけられるのは、今は信ちゃんだけなんだ」
「……ええ」
「特に何もしなくていいよ。わたしがここで言うことを覚えといてほしい。それだけさ」
「わかりました」
俺が立会人を承けたからほっとしたんだろう。豊島さんが若い弁護士さんに向き直った。
「わたしが直接資産管理すると他に何もできなくなるから、
弁護士さんは度会さんというのか。まだ経験が浅そうだけど、大丈夫なのかな?
「ええと、度会さんとおっしゃるんですね」
「いえ、あの……」
いくらか気後れした様子で、弁護士さんが顔を伏せた。
「わたしは度会法律事務所の職員で、高木と申します。この度豊島さまのご依頼を拝命いたしまして、こちらに……」
おっとっと。そうか。優と雅美さんの件でお世話になった弁護士さんが個人で仕事をされてる方だったから、思い込みが先走ってしまった。
「失礼しました」
「いいえー」
俺のしでかしをあっさりスルーして、豊島さんが高木さんの顔をじっと見据えた。
「わたしらは山っけのある仕事ばかりしてたから、トラブルも多くてね。わたしや旦那が若い頃から、度会さんとこに度々お世話になってきたんだよ。もちろん、初代はとっくに亡くなってる。二代目の息子さんも数年前になくなった。今、度会筋の人は事務所に誰もいないんだ」
「それなのに、度会の名が消えてないんですね。すごいな」
「だろ? 二代揃って温厚篤実で、弁護士としての腕も良かった。客からも職員からも慕われたんだよ。今の所長は二代目がつきっきりで育てた。とてもやり手なんだけど、度会の看板は下ろそうとしない。初代と先代が築いた実績と名声はちゃんと後進に受け継がれたんだ」
静まり返った部屋に、豊島さんの大声が響き渡った。
「血で繋ぐばかりが能じゃないのさ!」
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