(2)
「さて。豊島さんの様子を見に行くか」
今回ここに来たのは野原をチェックするためではない。陽花に一人……いや独りをちゃんと意識させることが主目的だ。今までも有美ちゃんが仕事に行っている間は一人だったはず。だが、有美ちゃんとこのかちゃんが帰ってくればいきなり賑やかになる。仕事をしていなかった間、陽花は家族三人でいるのが当たり前の世界だと思っていただろう。
俺だってそうさ。子供らが独立して家を離れても、章子と二人の日々はまだまだ続くと思っていた。いや……思い込んでいた。その日常が死神の鎌でいきなり断ち切られて。始めて俺は独りの怖さを噛み締めることになったんだ。
今だって孤立や孤独には慣れていないが、俺は仕事をしている。働いている間は必ず人とのやり取りがあるんだ。鈍臭くて濃い人付き合いが苦手な俺だが、やっぱり人の気配が身近にあるとほっとする。窒息しそうな人恋しさってのは、近しい人から離れてみないとしっかり実感できないんだよ。
そして、陽花は大きな勘違いをしている。男への依存癖は人恋しさ故ではない。自分の足がしっかり地に着いていない不安定さ故なんだ。有美ちゃんは陽花の生き方に芯がないことを知り尽くしているから、もっとしっかりしろとどやし続けている。だけど、そんな有美ちゃんも自立という点では陽花と大して違いがなかった。だからこそ、衝突が表面的で不毛なままだったんだ。
今回、陽花をうちに引き上げたことで、先に有美ちゃんが真の自立に向けて動き始めた。独りは寂しいが、その寂しさを乗り越えた先にはなんでも自由にできる気楽さと新たな人間関係の構築というご褒美が待っている。一度その味を知ってしまうと、以前のような実りのない母娘関係に戻りたいとは絶対に言わないだろう。これまで以上に陽花との距離を取ろうとするはずだ。陽花の再アプローチは徹底的に拒否すると思う。有美ちゃんのプライベートが容赦なく削られてしまうからな。
俺は男だが、兄妹だから恋人にはなりえないし、女性への配慮は一切できない。陽花にもそのくらいはわかるだろう。家の中に人の気配があっても、娘や孫に対する気楽さを俺に要求することはできないし、もし要求されても応えられない。どうにかして独りに慣れてもらうしかないんだよ。膝を抱えてうずくまっている今のステージから少しでも前に進めれば、パートでいいから仕事をしようという気になるかもしれない。
生活費の確保ももちろん大事なことなんだが、それ以前に小さく萎んでしまった社交性を少しでも回復させないと、エスオーエスすら出せなくなる。俺がいつまでも手を貸すことはできないよ。年を重ねていけば、俺はフォローする側からされる側になるんだ。それも陽花より早く、な。
訓練だからゴールがあるわけではないし性急に自立を促すつもりもないが、俺に倒れかかられるのは困る。少しずつでも独りに慣らさせるしかない。
「おっと」
考え事をしながら坂を下りていたから豊島さんの家の前を通り過ぎてしまった。慌てて回れ右をし、小走りに駆け戻る。なんのことはない、家は野原に上がるスロープの上り口にあった。毎回通り過ぎていたのに、一度も気づかなかったなんて、俺もとことん鈍臭いな。
もっとも豊島さんは表札を掲げていないから、場所を教わらない限り気付きようがないんだが。
門扉の前に立って、思わず唸る。
「うーん、それにしてもすごいなあ」
豊島さんの家は、この地区のどこにでもある一般的な建売住宅とはまるっきり違っていた。決して豪邸などではないが庭が広く取られていて、建物は石材をふんだんに使った純洋式。こじんまりした平家だし、敷地のぐるりを背の高い生垣で囲まれているので豪奢には見えないが、とても手がかかったこだわりの家だ。建築家のはしくれとして嫉妬と羨望を覚えてしまう傑作だ。
建てられた当初は白い壁面がひどく目立ったかもしれないが、風雨の研磨を受けて色合いが落ち着くのを計算して建てられている。屋根は瓦屋根ではなく銅拭き。緑青で飾られ、見事に神さびている。佇まいの美しさにほれぼれしてしまうが、住んでいるのが豊島さんだからなあ。苦笑しながら門柱の呼び鈴を押した。
「はい。今行きます」
そう答えた声の主は、豊島さんではなかった。下宿している綾瀬さんとも違う、若い女性の声。おやあ?
◇ ◇ ◇
豊島さんの家から走り出てきたのは、紺のスーツをぴしっと着こなした若い女性と、四十台くらいのおばさん。若い方が弁護士さんで、おばさんは市から派遣されたケアマネさんだそうだ。
そして、二人揃ってどうにも微妙な表情だ。以前からずっと付き合いがあったという感じではなく、急遽呼びつけられたような印象。そして、弁護士さんが首を傾げながら要約した話を聞いて、びっくり仰天した。
「うーん……」
これまでも豊島さんにはいろいろ驚かされてきたが、今回のサプライズが一番でかかったかもしれない。
「豊島さん、ここを離れるんですか」
「そうだよ」
ソファーではなく、車椅子に収まっている豊島さんは、この前会った時よりもっと萎んでいた。世の中全てのものに挑みかかろうとする向こう気の強さは変わっていないものの、身体の衰えが目に見えて進んでいる。今回の決断も、きっと不調に絡んでいるんだろう。もちろん本意のはずはない。それを裏付けるように、豊島さんが苛立ちを隠さないまま怒鳴り始めた。
「わたしは死ぬまでここを離れるつもりはなかったんだ! ここがわたしの世界で、ここがわたしの全てだからね」
「ええ」
「だからって、ここと心中することはできない。わたしはまだ生きてるし、したいこともある。それはここでなくてもできる」
「したいこと、ですか?」
「そう。最後の最後までわたしであることにしがみつきたい。自分を放棄したくないんだ。自分をうんと削れば、そりゃあ身軽になるよ。でも空っぽになってまで生きていたくない」
そのあと勢い任せに吠えた豊島さんの言い分と身の振り方を聞いて、俺は心底納得したんだ。
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