(5)

 ショックでしゃがみこんでしまった綾瀬さんを力任せに野原から引きずり出し、豊島さんが待っているところまで戻る。俺と綾瀬さんのやり取りを見ていたせいか、豊島さんは俺より冷静だった。


「やれやれ。今度は浦島太郎かい」


 彼に無情な事実を告げたのが俺一人なら綾瀬さんは俺の説明を信じなかったかもしれない。だが、豊島さんの一言は彼にとどめを刺してしまった。綾瀬さんは、その場に倒れ込んで号泣し始めた。変化を拒絶するために野原がいろいろやらかしてきたが、基本は野原からの排除だ。どっかに隠すなんて聞いてないよ。


「はあっ……」


 野原から目を背け、天を仰ぐ。さすがに今回の件は堪える。とんでもない形で綾瀬さんが野原から放り出されてしまった以上、目の前の事実を受け入れるだけでは事態が収拾しない。俺たちが彼のケアを考える必要があるんだ。そのためには、綾瀬さんに失った過去を諦めてもらわなければならない。追い詰められた綾瀬さんが過去から来たと騒ぎ出せば、俺たちの手に負えなくなるからだ。

 今は過去の情報をいつでも誰でも入手できる。五十年前の失踪事件に関わる情報を瞬時に、しかも細部に到るまで取得可能なのだ。いかなるストーリーもリアルに『作れて』しまう。綾瀬さんが過去から来たと主張したところで、荒唐無稽な作り話か妄想だとみなされるだけ。何の解決にもならない。


 綾瀬さんがどうしても自分の出自を証明したいのなら関係者による本人確認と証言が必要になるが、それは不可能だと思う。失踪時三十過ぎだった綾瀬さんの関係者は軒並み八十後半の老人になっている。亡くなっている人も多いだろうし、往時のことを覚えているかどうかもわからない。もし覚えていたとしても、彼らは時を飛び越えた綾瀬さんを現実の存在として受け入れられず、偽物もしくはバケモノとして遠ざけるだろう。証明が得られないだけでなく、サポーターとしても全く期待できないんだ。

 今は。五十年前から来たと言い張るよりもどう生き抜くかを優先して考えなければならない。職も人脈も資格も資産も。当時のものは何一つ役に立たないのだから。


「一番厄介なのは、身分証明……か」

「そう。そいつを何とかするのが最優先だよ」


 豊島さんは俺よりずっと冷静で現実的だった。泣き暮れている綾瀬さんを一顧だにせず、俺よりきつい声でどやした。


「なあ、あんたは玉手箱を開けたいのかい?」

「……」

「そんなものはないけどさ。もしあったって開けたくないだろ? 若けりゃこなせることを全部どぶに捨てて、ただ死ぬのを待つだけのじじいになるんだから」


 椅子から自力で立てないほど肉体が衰えていても、豊島さんの鉄のような意思だけは決してしなびない。綾瀬さんではなく自分自身をどやすようにして、豊島さんが力いっぱい吠えた。


「わたしゃまっぴらだよっ!」


◇ ◇ ◇


 現実問題として、綾瀬さんを放置することはできない。人道的な理由だけではなく、きちんとケアをしないと最悪の形で俺たちにもトラブルが降りかかってしまうからだ。もし警察とマスコミが動き出すと、五十年前の騒動が再燃して俺たちの生活まで危うくなってしまう。

 意気消沈して自殺しかねなかった綾瀬さんを諭すために豊島さんが持ち出したたとえがとても秀逸だった。


「浦島太郎? 違うよ。あんたはロビンソン・クルーソーだ。一人でどっかに放り出されたってだけのことさ。しかもロビンソン・クルーソーよりずっと恵まれてるよ。ここは無人島じゃないんだ。言葉の通じる人が大勢いて、普通に意思疎通できるんだからね」


 間髪入れずにどやしが畳み掛けられる。


「悲劇の主人公みたいなつらぁすんのは止めるんだね。開拓者が生き残るには、自分とその周りをましにするしかないんだ。それだけさ」


 今を切り抜けるために何より必要なのは、とんでもない非現実を乗り切るタフネスだ。豊島さんはタフネスの重要性を言葉にするだけでなく、すぐに実践してみせた。


「あんたはぴんしゃんしてるけど、わたしは死に損なったんだよ。まだ地獄から還ってきたばかりなんだ。地獄に堕ちたくないなら必死に現世にしがみつくしかない。しがみつくのに必要なら何でも使う。たとえそいつが名なし宿なし文なしのフーテンでもね」


 豊島さんが俺らに提示した支援案は、突飛だが確かにそれしかないだろうという内容だった。

 失踪した息子に子供がいたということにして、綾瀬さんを豊島さんの戸籍にぶら下げる。行方不明の息子さんはもう死者扱いだから、綾瀬さんが実の孫かどうかなんて確かめようがないわけだ。綾瀬さんの苗字は豊島に変わるが、実質縁者が誰もいない綾瀬さんが旧姓にこだわる意味はない。再始動するなら、変えた方がすっきりするだろう。

 履歴書がでたらめになるから、条件のいい就職先は見つからない。身分照会の緩いバイトでしばらくしのぐしかない。住むところもしばらく確保できないだろうから、豊島さんが自宅の一室を提供すると言った。


「わたしはまだ死神を背負ってるんだよ。そいつの気配が薄まるまでは、家事と買い物を代行してちょうだい。家賃代わりの義務だ」


 本当なら、俺の家に彼を置くのが筋なんだろう。だが、もうすぐ陽花がうちに引き上げてくる。見ず知らずの男が家にいるんじゃ、やっと開き始めた陽花の天岩戸がまた閉じてしまう恐れがあるんだ。病み上がりの豊島さんには大変申し訳ないんだが、今回は厚意に甘えさせてもらうことにした。

 その代わり、彼に宿題を出した。彼のやらかしたことは若気の至りでは済まされない。穂村さんに大迷惑をかけた代償はきっちり払ってもらう。


「綾瀬さんは、あの奇妙な野原の出自や性質を調べようとしたんでしょう?」

「……はい」

「それなら、生活に使う以外の時間はあなたの本業に割いてください。ただね、野原の中を調べるのは無理ですし時間の無駄です。ここは永遠の野原。いかなる変化も拒絶するんです」

「う……く」


 つい先程まで絶望にどっぷり埋め尽くされていた綾瀬さんの感情に、小さな反発の火が灯った。それは……理不尽や非合理への反発。もちろんどんなに反発したところで野原も自分の運命も変わらないが、反発心を培わない限り生きる気力が湧いてこないだろう。


「野原の正体を暴くには、地味に外堀を埋めていくしかないんですよ。このあたりの史実や伝承の解析なら、ダイガクの先生にはお手のものでしょう?」


 綾瀬さん。あなたは自分の人生を野原にひん曲げられて悔しくないかい? 五十年分の人生を取り上げられて、それで納得できるのかい? 野原の非情な振る舞いに一矢報いたくないかい?

 俺や豊島さんが、あなたの数奇な運命に同情を寄せるのは簡単だよ。でも、それはきっと生きる役に立たない。野原に人生を食われたという敗北感が残るだけだ。あの世からの帰還を果たした豊島さんとは違うけれど、あなたも野原からこちらの世界に帰還したんだ。それを幸運だと思えるようになるまで、野原ときっちり対峙し続けた方がいい。


 豊島さんに手を貸して車に乗せ、綾瀬さんには後部座席に乗ってもらう。車を出す前に、秋の長閑な野原には似合わない呪詛を車窓から吐き捨てた。


「この野郎、いい加減にしやがれ!」



【第十話 帰還 了】

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