(2)

 家にいれば、どうしても身の回りのことをこなさなければならない。実際にするしないは別にして、家事山積の中にすっぽり嵌ってしまうとちっとも気が休まらないんだ。ここでは整備以外にすることがないから、整備さえ済ませてしまえば残りは自由時間。野原には何もないので、心ゆくまでぼーっとできる。牧柵に何もかも預け、心身を全開放する時間がたっぷり確保できるのは本当にありがたい。

 これから冬にかけては植物の成長休止期になる。整備の必要がなくなるから、命の洗濯をするだけでなく先々のことをゆっくり考える場所としても使えそうだ。


 それでも。ここへ来た時に完全に一人になれたことは少ないよなあ。牟田さんにあとをつけられたり、滝村さんが謝りにきたり、陽花の元ダンナがホームレスになって突然現れたり。豊島さんもよく巡回してたし。野原が「俺を放っておいてくれ」という強情を張り続けている割には、人寄せの場所になっちまってるのが笑える。


「……っと」


 自分で言って、強い違和感を覚えた。そういや、しばらく豊島さんを見ていない。最後に会ったのは、滝村さんがここに来た時。五月だ。梅雨時は道がぬかるんでひどいことになるし、今年は猛暑だったから夏の間は散歩を控えていたのかもしれないが、雨や暑さのピークはとうに過ぎている。豊島さんのことだから、すぐにでも散歩を再開すると思ったんだが……。

 違和感ついでに、もう一つ気づいてしまった。ここに来れば必然的に豊島さんと遭遇することになる。だから、俺は豊島さんの家がどこにあるかを知らない。伺って安否を確かめることができないんだ。


 野原の元オーナーだった穂坂さんは人懐こい人だったから、親父がよく家に呼んでいたし、親父も酒を持って穂坂さんのお宅を度々訪ねていた。

 でも、親父たちは豊島さんのプライベートには一切踏み込まなかった。いや、踏み込めなかったんだ。歯に衣着せぬ直言は、遮るものがなにもない野原でなら言いっぱなしにできる。だが、豊島さんや俺らの家で棘のある言葉が溢れると、それらがどこにも収まらなくて負の感情に化けてしまう恐れがあるんだ。親父もお袋も豊島さんも、家に来いとか来るなとかは一切言わなかったはず。それでも、互いに心おきなく直言をぶつけあえるよう、暗黙のうちにプライベートをすっぱり切り分けていたんだろう。


「どうしよう」


 どんどん不安になってきた。自分のライフスタイルを決して変えないという点では、豊島さんの頑迷さはこの野原と対を張る。そして野原の巡視はすでに豊島さんの一部だ。ずっと見かけていないのは、物理的に来られないからだろう。きっと何かあったに違いない。


「……踏み込むか」


 親父たちと豊島さんは戦友に近い関係だった。だが、俺や章子は違う。年齢は二回り以上違うし、過ごしてきた時代背景も全く異なる。俺らにとって豊島さんは、ここらへんに住んでいる「怖いおばさん」に過ぎない。親父やお袋のように対等な関係ではないし、普段から連絡を取り合うほど関わりも深くない。もっとフランクに踏み込んでもいいんじゃないだろうか。アプローチを拒否されたら、無理せず引けばいい。もともと野原でしか出会う機会がなかったのだから。

 そうと決まれば安否確認は早い方がいい。野原を降りて住宅街に入れば、近所の人を捕まえることができる。豊島さんのお宅がどこかはすぐに聞き出せるだろう。


 一旦車に戻ろうと思って振り返ったら、豊島さんが杖をつきながらゆっくり坂を登って来るのが見えた。心底ほっとしたのは一瞬で、そのあと不安が倍増した。見るからに様子がおかしい。

 五月に会った時は、杖はついていたものの足取りはしっかりしていた。それが……見ていてはらはらするほどよろけている。二、三歩歩いては休み、二、三歩歩いては休みで、ここまで上がって来るのにどれだけ時間がかかったのか想像もつかない。

 坂を一気に駆け下り、豊島さんの真ん前まで出て声をかけた。


「大丈夫ですか? 豊島さん」

「ああ、信ちゃんかい。久しぶりだね」

「どこか具合いが悪いとか……」

「死に損なったんだよ」


 血の気が引いた。喉が詰まって声が出なくなる。嫌だ! 悪魔め、親父と章子をあの世に引きずり込んだだけではまだ足りないのか! 激しくうろたえたものの、すぐ正気に戻った。ケアを優先しないと。

 車に駆け戻ってリアハッチを開け、折り畳みのレジャーチェアを引っ張り出して開く。


「座ってください」

「助かるわ。ああ、しんど」


 椅子に倒れ込むようにして豊島さんが椅子に腰を落とす。下ろす、ではなく、落ちる、だった。いつもきびきび立ち回っていた頃の姿しか知らないから、一気に老け込んでしまった姿を見て暗澹たる気分になる。


「ご病気ですか?」

「わかんないんだよ。検査はしたけど、脳や心臓系に大きな障害はないって言われた。他の臓器もまあまあ動いてる。強いて言えば」

「はい」

「全部弱ってるってことさ」

「あ……」


 体の中に残っている精気を絞り出すのように、俯いた豊島さんが深く長く息を吐いた。


「ふううううっ」


 それからおもむろに顔を上げ、もう少し歩けば野原にたどり着くのに思うように動いてくれない足に向かって全力で喚いた。


「こんちくしょうっ! このぽんこつめ! 忌々しいっ!」


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