(5)
優の『俺の子じゃない』発言や雅美さんの登場はまるっきりの予想外だったが、優よりは会話しやすい雅美さんが来たことで、あっさり一件落着になった。雅美さんのご両親を説得するというハードルを越さなければならないものの、長いこと章子の盾代わりだった俺は理不尽を押し返すことに慣れている。喧嘩を売るわけじゃないしな。まあ、なんとかなるだろう。
「あの……」
とんでもない修羅場になることを覚悟していたんだろう。俺や優がもう話は終わったという雰囲気になったのを見て、雅美さんが慌てている。
「いいん……ですか?」
「よかないさ。でもあなた自身に対処できなければ、誰かの力を借りなければならない。違うかい?」
「は……い」
「なんとかなるでしょ。私は家内や優で慣れてるんだ。外圧を押し返すのが夫や親としての役目だったからね」
わからないという風におろおろしていたから、少しだけ補足説明する。
「死んだ妻はイエスマンでね。放っておくと何から何まで押し付けられてしまうんだ。私はのろまだが、のろまでもノーと言うくらいはできる。できるなら、そうするまでさ。優のことだってそうだよ。極端なスローモーだから集団生活に付いていくのは無理だ。結局置き去りにされてしまう。それなら、親の私があいつの居場所を確保するしかない」
信じられないという顔で私と優とを見比べているが、事実そうなんだよ。
「今日は、私も優も休みを取ってここに来た。雅美さんもだろ?」
「……はい」
「うんと短いが、夏休み。でも、私には夏休みにいい思い出がないんだ」
いきなり飛んだ話についていけなかったのか、雅美さんがしきりに首を傾げている。まあ、そのまま聞いてくれ。
「佐々木家のオトコは代々のんびり屋揃いでね。死んだ父も泰然自若だった。ただ、代を重ねるごとにのんびり度が濃くなってる。だから夏休みの意味がそれぞれ違う。父には楽しみな夏休み。私には辛い夏休み。優には必須の夏休みだったんだ」
「あの、どうして?」
「夏休みはお盆休みとは違うよ。学校や職場との接続を切っても一切文句を言われない貴重な期間だ。父はマイペースで好きなように遊び倒したらしいが、私は朝から晩まで宿題に追われたんだ。夏休みをびっしり使わないと終わらなかったからね」
「うわ」
はは。絶句してる。俺は優と違って集団への帰属を諦めなかった。だから使える時間をぎりぎりまで使い切ろうとする努力は欠かさなかったんだ。これでもかと足掻いたからこそ今の俺がある。
「優は違う。集団生活自体が全くこなせない優にとって、夏休みはみんなに付いていかなくても文句を言われない至福の時だったのさ。ずっと夏休みならいいなあと思っていたはず。なあ、優。そうだろ?」
優に目を遣る。黙っているが表情は柔和だ。それほどずれてはいないだろう。
「優ほど極端でなくてもいいけど、何もかも投げ出せる夏休みは要るでしょ」
できるものならとっくにそうしている……雅美さんの顔には諦めの色が浮かんでいた。大吾がすでにいるから片時も休めない。ずっと走り続けなければ。そういう強迫観念に支配されているみたいだな。
でも、夏休みの実感がないのは俺だって同じなんだよ。信じられないくらいのハイペースで事態が動いていて、際限なく湧き出る雑事を必死に片付け続けている。夏休みくらいは何もかも放り出してぼけっとしたいところだが、生きるためにはそうできない。優だって同じだろう。仕事と生活を両立させるだけでもぎりぎりだったのに、雅美さんと大吾を抱え込んだ。もう息が上がってるはずだよ。
制度としての夏休みは取れても、俺たちは本当の意味での夏休みをもう満喫できないんだ。
それでも。雅美さんと親との関係を少しだけでも改善できれば、雅美さん一人が何から何までこなさなければならない窮状はいくらかましになるはず。ここに来て重荷だけを増やして帰るということにならない限り、夏休みの端っこくらいは齧れると思う。
俺は、牧柵のロープをくぐって野原に足を踏み入れた。
「優。中に入らんか? しばらく入ってないだろ」
「うん」
のろのろとロープの下をくぐった優が、振り返って雅美さんに声をかけた。
「雅ちゃんも……おいで」
「いいの?」
「ここは……うちの……だから」
そう言うなり、ばたりと後ろ向きに倒れ込んだ。大の字になって草に半分埋もれ、顔にかかる草の穂越しに夏空を見上げている。俺もつられて空を見上げる。
傍若無人もほどほどにしときなさいとたしなめられたかのように、これでもかと燃え盛り続けてきた太陽が薄雲に包まれている。暑いのは暑いが、お盆を過ぎると熱に紗がかかるんだ。暴力的な熱風の代わりに、夏休みの終わる気配が涼を伴いうっすら漂ってくる。寝そべっている優に向かって愚痴をこぼした。
「変わらんなあ。おまえはいつ連れてきても、どこかで腰を下ろしたら最後てこでも動かなかった。ちっともじっとしてない由仁とは大違いだ」
「あはは……」
こそっと笑った優が、青空に向かってすうっと両腕を伸ばした。
「子供には……もう……戻れないね」
「ああ。そうだな」
わかってるじゃないか。そうだよ。もう親父も章子もいない。俺にだけでなく、優や由仁にとっても望ましくない変化が容赦なく降り掛かったんだ。どうにかして変化をこなさないとすぐに生活が壊れてしまう。これからは従前以上に夏休みが縁遠い存在になるだろう。
それでも。あの頃と変わらない野原があり、見上げると眩い夏空がある。子供の頃のように夏休みを無心で楽しめなくとも、往時を懐かしみ、余韻に浸るくらいは今でもできる。できるうちは、そうするさ。
いつの間にか野原に入ってきていた雅美さんが、転がっている優の隣に腰を下ろした。少しだけ顔を傾け、優が雅美さんに話しかけた。
「雅……ちゃん」
「え?」
再び空を見上げて、優がぼそっと言った。
「僕は……ぐずで……何も……できないんだ。だから。結婚……どころか……彼女も……できない。これまでも。これからも」
「……」
「僕は……それでいいと……思ってたから。後悔は……してない」
ああ。それは優の本音だ。優しさとか思いやりとか、そういう浅い次元から出た言葉じゃない。今はまだ防波堤になっている師匠や俺と死に別れれば、片時も足を止めない世界から取り残されて必ず独りになってしまう。受け入れざるを得ない悲運の淵で佇んでいる優の、偽らざる本音だ。たとえ真似事に過ぎなくとも、一生縁がないと思っていた夫婦や親子を体感できることは、優の人生において何にも換え難い財宝になるのだろう。
変わってほしくない今がある。変えられたくない運命がある。だが時は俺たちを放置してくれない。俺たちには、永遠の野原のような抵抗はできないんだよ。だから。変わらないのではなく変われない優も、雅美さんと交わって生じた変化をどうにかして受け入れようとしている。そんな優の努力は決して無駄にならないはずだ。
俺たちが諸々のことを丸呑みしたのを見て、雅美さんは佐々木家の家風ってのが少しわかったんじゃないかな。そうさ。まるっきりぶん投げてしまわない限りなんとかなる。のんびり屋に得られるものは多くないが、その代わり少しでも達成できれば満足なんだ。万事、なんとかなるものなんだよ。親父がよく言っていて、俺もそう思ったし、優も「なんとかなる」の道を自ずと歩いてきた。だから、今回もなんとかなる。
静かな野原で揃って青空を見上げているうちに、
「ここ、すごく落ち着きます。いいですね」
「まあ、いろいろ訳はあるけどな」
「え?」
雅美さんにではなく、優に向かってにやっと笑ってみせた。
「ここのことは、おまえからちゃんと説明しろよ。いずれ大吾を遊ばせるようになるんだろうし」
「うん。そう……だね」
のそのそと上体を起こした優は、でかい溜息をつきながらぶつくさこぼした。
「はあああっ。ここだけが……ずっと……夏休み……なんてさ。ずるいよなー」
【第八話 夏休み 了】
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