(4)

 感情が落ち着くまで結構時間がかかると思ったんだが。雅美さんはよろよろと立ち上がって膝の土を払った。今日はスーツじゃなく、カジュアルなスタイルだ。白シャツにベージュのスラックス。汗と涙で化粧が流れているものの、最初から薄かったのか崩れたというほどではない。今日はもともとオフ日だったのかもしれない。


「大吾はどこかに預けてきたのかい?」


 聞いてみる。


「……はい。無理を言って、友人のところに」


 あくまでも親には預けない、か。そもそもそれがおかしい。私が顔をしかめたのを見て、雅美さんが辛そうに顔を伏せた。


「軽蔑……してますよね」

「軽蔑もなにも。私は事情を知らないのでねえ」


 紛れもない事実だし、嫌味も混ぜてある。事情があるなら最初から言ってくれれば話くらいは聞くのに、これまでずっと大吾だけ陽花のところに放ってあとはしらんぷりっていう態度だったんだ。それはおかしいだろ。

 おずおずと顔を上げた雅美さんがちらっと優に目をやった。優は黙って野原を見続けている。視線は返さない。だが、先に口を開いたのは雅美さんではなく優だった。


「師匠に……頼まれたんだ」

「は? 仕事のか」

「そう。おまえが……雅ちゃんの……面倒みて……やれって」

「できるわけないだろ。自分自身のことすらまともにこなせないのに」

「うん」


 おいおい肯定するのかよ。呆れてしまう。ろくでもないことを優に頼むお師匠さんも大概だ。そんないい加減な人には見えなかったけどなあ……。だが、まだまるっきり話が見えない。混乱は深まるばかりだ。


「あの……」

「うん?」


 足元に視線を落とした雅美さんが、小声で俺に聞いた。


「優さんから……何も聞いてないんですか?」


 思わず、全力で苦笑してしまう。そんなの無理だって。


「あのねえ、雅美さん。あなたも優の妻なら、スローモーなこいつと会話するのがどれだけめんどくさいかくらいわかるでしょうに」

「う……」


 うろたえた、か。少しだけ見えた。この二人には夫婦の実態がない。偽装だろう。同衾どころか同居すらしていないのかもしれない。お互いのことをよく知らないんじゃないだろうか。だが、優からは婚姻届も入籍後の戸籍もちゃんと見せてもらった。偽装と言っても口裏合わせのなんちゃってではない。書類上は紛れもなく夫婦なんだよ。と、いうことは……本当の父親が認知に応じてくれなかったとかか。優が言う「俺の子じゃない」とつじつまを合わせるなら、それくらいしか思いつかない。

 書類上正式の夫である優よりも親密な関係にあるオトコが他にいて。できちゃったの後始末がうまくいかなかったのかな。詳しいことはわからないが、陽花や有美ちゃんのケースに近いのかもしれない。で、親を頼れないってことは……彼女の両親がぶち切れたんだろう。いいとこらしいし。


 だが、実際どうなのかはこの際後回しだ。俺が危惧していることは託児所代わりに陽花や俺の家を使われること。陽花を有美ちゃんから引き離す以上、いくら実子でも優や由仁を特別扱いすることはできない。つまり雅美さんにどんな事情があっても、大吾は預かれない。俺のオーダーは優にしたのと変わらないんだ。

 しょうがない。突っ込んだ聞き方になってしまうが、いくつか確かめておこう。対処は確認のあとに考えよう。


「済みません、雅美さん。いくつか不躾な質問をさせてください。イエスかノーかだけでいいので、教えてください」

「……はい」


 項垂れたまま、雅美さんが小さく頷いた。


「さっき優から、大吾が優とあなたとの子供ではないと聞いて仰天したんですが、それは事実ですね」

「……」


 言葉にはできなかったのだろう。小さく頷いた。


「大吾の本当の父親は、あなたの職場にいる。そして、彼は既婚者である。どうですか?」

「……はい」


 なんだよ。有美ちゃんと同じパターンかい。うんざりするわ。


「彼は大吾の認知には応じない。あなたが認知を迫ると、あなたは職場にいられなくなる。そういうポジションにカレシがいる。違いますか?」


 さっきまで止まっていた涙が再び溢れ、返事ができなくなったようだ。まあ……図星なんだろう。


「最後の質問です。あなたのご両親はこれまでの経緯を知って激怒した。有り体に言えば、あなたは勘当された。二度と家の敷居をまたぐなと家を追い出された。どうです?」


 大吾を陽花に預けていたくらいだから、間違いないだろう。案の定、涙混じりの小さな震え声で「はい」と答えた。大体予想通りだったか。


「優の働いている工房には、あなたのご両親が絵の修復を依頼なさっていたんですよね。そして、あなたも絵の預け入れや受け取りで工房に出入りしたことがある」

「……はい」

「事情が事情だけに、あなたは友人や親戚のところには逃げ込めなかった。仕事での付き合いしかない工房に身の振り方を相談するしかなかった。どうですか?」

「その……通りです」


 やれやれだ。苦笑がどんどん深く、苦くなる。金持ちってのは本当にめんどくさいもんだな。


「あのねえ、雅美さん。いくら優のお師匠さんが人格者でも、あなたのような事情のある人をいきなり丸抱えなんかしてくれないですよ。ご両親が、プライベートでの付き合いがない工房のオーナーに娘の受け皿を有償で務めてくれないかと持ちかけた。私にはそれしか思いつきません」

「……」

「夫婦の偽装って言っても、書類上は正式な婚姻なんです。そんな非常識な対応をあのしっかりもののお師匠さんが推めるとは思えません。ご両親が懇願したのでしょう。違うか。優?」

「うん」


 短いが確かな返事だった。


「師匠から……そう聞いた」


 娘が非常識なら親も非常識。ばっさり切って捨てるのは簡単だ。だが、今は評論家を気取ってはいられない。俺は自身の生活をきちんと維持しなければならないんだ。お袋のことも陽花のこともある。まず、俺の筋論をきちんと理解してもらう方が先だ。


「雅美さん。あなたに複雑な事情があることはわかりました。だけど、私は妻を亡くして今は一人暮らしです。日中は仕事で不在。そして、これまで大吾を預かってくれた妹のところも、じきに姪の有美ちゃん親子だけになる。大吾を預かることは物理的にもう無理なんですよ」

「……はい」

「それなら、裏でこそこそ動いているあなたのご両親をきちんと表に引っ張り出した方がいい」


 本当に親が体面しか考えていないのなら、きっちり縁を切るだろう。雅美さんに何があろうが絶対にアクションを起こさないはず。しかし実態は逆だ。娘のことを案じているからこそ、歪んだ形ではあってもサポートに動いている。優を隠れ蓑にして自分たちに火の粉が降りかからないようにしているのは気にくわないけどな。

 雅美さんはご両親に頼りたくないかもしれないが、うちがサポートできなくなれば干上がってしまう。それなら俺が動くしかない。


「あなたがご両親と直接再交渉するのは難しいでしょう。そこは私の方でやります」

「えっ?」


 素っ頓狂な声をあげた雅美さんがさっと顔を上げて俺を凝視した。


「人様の大事な息子にとんでもない汚れ仕事を押し付けるなんざ、いくら立派なご身分でも許されることじゃありません。きっちり引導を渡します」

「だ、だいじょうぶ……ですか?」


 雅美さんは親に全く歯が立たないんだろうな。牟田さんと同じパターンだ。親に対してだけでなく、孕ませたオトコにも逆らえないんだろう。いいとこ出の切れ者という見かけによらないね。


「あのね、私は施工監理っていう仕事をしています。手抜きをチェックする商売ですから、穴は見逃しませんよ」

「は……あ」

「いかなる事情があっても、大吾はあなたの子供。つまりご両親にとっては孫なんです。まあ、なんとかなるでしょ」


 俺の宣言を聞いて、優が表情を緩めた。おおむね、優の期待した範囲内に落ち着いたということだろう。まったく、困ったやつだ。

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