(2)
ぼーっとしたままの優に「いいかげんにしろ」とでかい雷を落としたところで、
「ごめん」
「ん? なにがだ?」
「……」
うっかり口に出してしまった言葉を後悔するかのように、優がまただんまりモードに入った。まあ……急かしてもしょうがない。牧柵に両腕を預け、そこに顎を乗せて野原を見回す。
八月も半ばを過ぎると、みっちり分厚かった暑さの衣にほころびが見えてくる。気温はまだまだ高いんだが、真っ直ぐな熱ではなく、どこかに翳りをまとうようになる。茂り放題の緑一色に見える野原にも、秋草の花が少しずつ色を足し始めた。
これからは野原周りの整備に手がかからなくなるから、その分ごちゃごちゃになったままの陽花や子供らとのやり取りを一度原点に戻さなければならない。章子がいた時のようにはもう出来ないということを、俺だけでなく関係者一同で再認識する必要があるんだ。
とりあえず陽花を始動させ、有美ちゃんにブレーキをかけるところまではまあまあうまく行った。鈍臭い俺にしては上出来だろう。だが、子供らの制御は一筋縄ではいかない。互いに遠慮がなくなるからな。どうしたものかなあ……。
俺の思考が野原をぐるっと一周したところで、優の口がまた開いた。
「ごめん」
いや、それはさっき聞いた。謝る理由を言わないと話が進まんぞ。俺の苦笑が目に入ったんだろう。優がゆっくりと顔を回し、俺と視線を合わせた。ほう、珍しいな。
「大吾の……ことだよね」
久しぶりに二語以上の文章を聞いたぞ。思わずのけぞる。
「わかってるじゃないか」
「うん」
それなら話が早い。ぐだぐだ言う必要はないな。短く釘を刺しておこう。
「陽ちゃんの具合が悪いんだ。しばらく俺の家で面倒を見る」
「おばさん……が?」
「そう。理由は言わなくてもわかると思うが」
あえて有美ちゃんの名は出さなかった。優も、そいつがわからないほどバカではないだろう。
「陽ちゃんのマンションには有美ちゃんしかいなくなる。有美ちゃんは仕事があるから日中不在。おまえたちの子供の面倒は見られない」
「う……ん」
「俺の家への出入りは当分禁止する。俺は仕事があるし、陽ちゃんは療養中だ。落ち着くまで一切面倒事を持ち込まんでくれ」
「わかっ……た」
本当にわかっているならいいんだがな。雅美さんの圧力に負けて、結局図々しく子供の世話を押しつけてきそうな予感がひしひしとするんだよ。
優が夫として雅美さんをきちんと制御してくれるのなら、今の確認だけで済む。でも、優は口では絶対雅美さんに敵わないだろう。結局丸め込まれて孫を連れて来るのが見え見えなんだ。仕方ないと一度受け入れてしまったら、預かる場所が変わるだけでこれまでと同じになってしまう。それじゃわざわざ釘を刺す意味がない。
それにしても。どうにも解せないなあ。いかに雅美さんの仕事がハードワークだと言っても、俺の家と優夫婦の住んでいる賃貸マンションとはそんなに離れていないんだ。義母の法要に顔を出すのは優の妻として当前の務めだと思うんだが、来ない。常識外れもいいところだ。由仁はちゃんとダンナも子供も連れてきたのに。雅美さんが法要に来たなら、その時彼女に直接こちらの事情を伝えて自制を求めるつもりだったんだが。
もっとも、優の「結婚した」宣言から今現在に至るまで、雅美さんが俺たちと顔を合わせたことなど数えるくらいしかない。俺と章子の時と同じで結婚式はしなかったし、両家顔合わせのような機会もなかった。自分たちの生活を最優先し、それ以外のことはアウトオブ眼中。いかにも今の若い人らしいドライなライフスタイルだと言えばそれまでだが、それなら子育ての片棒を親に担がすなよ。
俺が苛立ちを直接優や雅美さんにぶつけなかったのは、俺の置かれている状況があまりに過酷だったからだ。つまらないことで感情を荒らす暇なぞこれっぽっちもなかった。お袋の施設入所の段取りをつけ、親父と章子の看病と死去後のあれやこれやで走り回っている間は、目の前のことに意識を集中するしかなかったんだ。
片付けなければならない要件が一段落した途端、今度はどっと悲しさが降りかかって来た。感情を殺して山のような手続きや用事を済ませ、その重石が退いたところに湧き出したのは、底なしの悲嘆だったんだよ。沼から足が抜けるまでは「悲しい」以外のどんな感情も手に取れなかった。その間放置した感情の中には「怒り」も入っていたんだ。
あれから二年近く経って、悲嘆の霧がやっと薄くなりつつある。まだ晴れ渡ったわけじゃないが、ぼつぼつ悲しい以外の感情を示せるようになった。どうせ出すなら、少しは明るい感情を出したいところなんだがな。
苛立ちや怒りを生のまま放り出したところで、自分にもぶつける相手にも何の足しにもならない。わかってるさ。わかっていても納得はできないんだよ。自分の都合しか考えていない雅美さんという人には、どうしてもネガティブな感情しか持てないんだ。だからと言って鬱憤を優にぶちまけても始まらない。うーん……。
顔をしかめたままがっつり腕組みをしている俺を見て、優が俺に向けていた視線をふっと外した。それから、とんでもないことを言い出した。
「あの」
「うん?」
「大吾は……」
「うん」
「俺の……子じゃない」
なんだとうっ!?
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