第3章ー4
冒頭、入りは上々だった。ロシア正教会の鐘の音が、二台のピアノで深く鳴り響いた。
アクシデントが起きたのは、第一部の最後の音を奏で、第二部のAllegro molto e agitato(充分に速く、そして激しく)に入る直前のことだった。俺に付き纏っていたゴシップ好きで悪趣味な記者が、わざと大きな咳払いをしたのだ。刹那、厳重に蓋をしていた”負”の感情が一気に溢れ出した。
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い……
ぼやけていく視界の中で、俺のピアノの音以外のあらゆる音が、雑音が、人々の悪意がダイレクトに俺の心になだれ込んできた。
「ねえ、弟くんの方ってさあ、小学校低学年まではすごかったわよねえ。今じゃ、完璧に泉くんの引き立て役よねえ」
「双子のお兄さんである、泉さんの才能に対して嫉妬する気持ちはありますか?」
「双子の兄弟なのに、どうして、僕と同じように弾けないんだろう……」
「せいぜい、泉くんの足を引っ張らないように練習に励みなさい!」
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い……
お母さん、助けて……助けてよ! また、昔みたいに、俺のピアノを褒めてよ!
そこから後は、ピースがいくつも抜け落ちたパズルのように、断片的な記憶しか残っていない。幻聴に掻き消された俺のピアノの音は、じわじわと崩壊していった。
「なんか、セコンドの弟の方、ズレてきてね?」
会場がざわざわしてきた。俺の異変を察知した泉は、必死にフォローしようと試みるが、俺のピアノは、もう立て直しようがないほどに崩壊していた。
『万が一、俺が、本番でやらかしたら……オマエは演奏を止めずに続けてくれ、頼む』
演奏者控室で俺が泉に言った言葉が、まさか、本当に役立つとは予想だにしていなかった。俺は、ピアノを弾く手を止め、天を仰ぎ見た。降り注ぐ筈のない雨の礫が容赦なく俺を沈めた。その後、泉は、即興で『鐘』のソロバージョンに、装飾音を加え、見事に最後まで演奏しきった。会場からは「ブラボー!」という賛辞の声が彼方此方から投げられ、聴衆の興奮状態は暫くの間収まらなかった。もう、誰も、俺の無様な演奏を非難するものはいなかった。聴衆には「谷村泉」しか見えていなかったのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます