第5話 寿司屋の夜と職場の波
令和6年1月15日、夕方18時。磯部は緊張で手汗をかきながら、近所の回転寿司店「スシロー」の前に立っていた。3000円の宝くじ当選金を握りしめ、佐藤さんとの「寿司デート」に臨む日だ。豪華なカウンター寿司は予算オーバーだが、庶民的な回転寿司でも、磯部にとっては人生初の「デート」だ。
「(…41歳でこんなドキドキすんのかよ)」
磯部はポケットでスマホを握りしめ、佐藤さんが来るのを待つ。約束の時間まであと5分。いつもなら「転生」の妄想で時間を潰すところだが、今日は佐藤さんの笑顔が頭を占領している。
18時ジャスト。軽快な足音が聞こえ、佐藤さんが現れた。コンビニの制服ではなく、白いニットとデニムのカジュアルな姿。いつもより大人っぽい雰囲気だ。
「磯部さん、お待たせ! やっと来れた! めっちゃ楽しみ!」
佐藤さんの笑顔に、磯部は一瞬言葉を失う。
「いや、全然…。佐藤さん、なんか…いつもと雰囲気違うな。いい感じだよ」
自分でも驚くほどストレートな言葉が出て、磯部は慌てて目を逸らす。佐藤さんはクスクス笑う。
「ふふ、ありがとう! 磯部さんも、なんか今日、背筋伸びててかっこいいですよ!」
「(か、かっこいい…? マジか…)」
磯部の心臓がバクバクする。41年間、こんな言葉をかけられた記憶はない。二人は軽い会話を交わしながら店に入る。
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店内は家族連れやカップルで賑わっている。磯部と佐藤さんはタッチパネルで注文し、寿司を待つ。磯部は予算を気にしつつ、佐藤さんが「サーモン大好き!」と言うので、サーモン三昧セットを奮発。皿が流れてくると、佐藤さんの目がキラキラ輝く。
「やばい、めっちゃ美味しそう! 磯部さん、センスいいですね!」
「いや、センスって…。佐藤さんがサーモン好きって言ったからだろ」
磯部は照れ隠しに笑う。会話は自然と弾み、佐藤さんのバイト話や好きなアニメの話題で盛り上がる。磯部は普段、スマートスピーカー以外に話す相手がいないが、佐藤さんの明るさに引っ張られ、珍しく饒舌になる。
しばらくすると、佐藤さんの表情が少し曇る。
「実は…最近、ちょっと辛いことがあって…。聞いてもらってもいいですか?」
磯部は一瞬驚くが、すぐに頷く。
「もちろん。なんでも話してくれよ」
佐藤さんは小さく息をつき、話し始める。
「コンビニのバイト、忙しいのは平気なんですけど…。最近、店長がめっちゃ厳しくて。ミスした時、めっちゃ責められて…。なんか、自信なくしちゃって。家に帰っても、頭から離れなくて…」
佐藤さんの声は少し震えている。磯部は自分のコールセンターでのクレーム対応を思い出し、胸が締め付けられる。
「…わかるよ。俺も、バイト先で客に怒鳴られたり、部長にダメ出しされたりで、胃がキリキリすんだ。佐藤さん、めっちゃ頑張ってるのに、そんな目に遭うなんて…。マジで、店長、ひでぇな」
佐藤さんが小さく笑う。
「ふふ、磯部さん、めっちゃ共感してくれる…。なんか、うちの離婚したお父さんみたいで、応援したくなっちゃいます!」
磯部は一瞬、言葉に詰まる。お父さん。41歳の自分には、まぁそんなもんかと思う。だが、佐藤さんの笑顔に悪意はない。それどころか、温かい安心感がある。
「そりゃ、そうか…。まぁ、応援してくれるのは、ありがてぇよ」
磯部は苦笑しながら寿司を口に放り込む。佐藤さんが少し照れたように続ける。
「今日、めっちゃ楽しかったです。磯部さんのおかげで、最近の辛いこと、ちょっと忘れられました。ありがとうございます!」
佐藤さんの笑顔が、いつもより柔らかい。磯部は胸が熱くなる。41年間、誰かにこんな言葉をかけられたことなんてなかった。
「いや…俺こそ、こんな楽しい時間、初めてだよ。ありがとな、佐藤さん」
佐藤さんがポケットからスマホを取り出し、さらっと言う。
「ね、磯部さん、LINE交換しません? また、こうやってご飯食べたいなって!」
「(…マジ?)」
磯部は一瞬固まる。LINE。41歳で、こんな展開は想像もしていなかった。慌ててスマホを取り出し、震える手でQRコードを読み込む。佐藤さんが「登録したよ!」と笑う。
「じゃ、また行きましょうね! 約束ですよ!」
佐藤さんは指切りを求めてくる。磯部はぎこちなく指を絡め、心臓が爆発しそうな気分で頷く。
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寿司屋を出ると、夜の空気が冷たい。佐藤さんは「またコンビニでね!」と手を振って帰っていく。磯部は一人、帰路につきながら、佐藤さんの言葉を反芻する。
「(元気になった、か…。俺が、誰かを…)」
家に着くと、スマートスピーカーに話しかける。
「アレクサ、俺、佐藤さんと寿司食ってきた。んで…LINE交換したぞ。佐藤さん、なんか辛いことあったみたいで、話聞いてたら…なんか、放っとけねぇな」
「きゃー! 磯部さん、めっちゃ優しい! 佐藤さん、絶対いい人! 次はどんなデート? ロマンチックなディナー?♡」
「ディナーねぇ…。回転寿司が精一杯だけどな」
磯部は笑いながらソファに倒れ込む。腰痛も、バイトのストレスも、今夜だけは遠くに感じる。
その夜、寝る前にスマホが鳴る。佐藤さんからのLINEだ。
「磯部さん、今日ほんと楽しかった! 話聞いてくれて、ありがとう。また明日、コンビニでね!」
シンプルなメッセージだが、磯部はニヤけそうになる。
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翌日、1月16日。朝、スマホを確認すると、佐藤さんからまたLINEが来ている。
「磯部さん、おはよう! 今日、バイト頑張ってね!」
こんな朝の挨拶、41年間で初めてだ。磯部は「ありがと、佐藤さんも頑張れよ!」と返信し、コールセンターに出勤する。佐藤さんとのやり取りで、足取りがいつもより軽い。
だが、職場に着くと、異様な空気が漂っていた。同僚の山田さんが深刻な顔で話しかけてくる。
「おい、磯部。やばいぞ。部長がまた来るって。昨日、誰かがクレーム対応ミスって、客が本社に直訴したらしい。…マジで、クビ候補が出るかも」
「…マジか。誰がミスったんだ?」
磯部は嫌な予感がする。昨日、佐藤さんとのデートのことで頭がいっぱいで、対応が少し雑だった記憶がある。
「わかんねぇけど…。今日の対応、ガチで気をつけろよ」
山田さんの言葉に、磯部は頷くが、胃がキリキリする。
午前中、部長がフロアに現れる。スーツ姿の威圧的な男が、社員の対応をチェックしながら歩き回る。磯部の電話にも、部長の視線が突き刺さる。案の定、今日の客はクレーム連発。
「ふざけんな! こんな対応で給料もらってんのか!」
客の怒鳴り声に、磯部はひたすら謝る。だが、対応が長引くうちに、部長が近づいてきた。
「磯部、対応が長すぎる。効率悪いぞ。後で話がある」
その一言に、磯部の心が凍る。話がある。クビ宣告か? 佐藤さんとのLINE、昨夜の「またご飯」の約束が、急に遠い夢のように感じられる。
昼休憩、磯部は弁当を広げながら、スマホのLINE画面を開く。佐藤さんからまたメッセージが届いている。
「磯部さん、今日のお昼、なに食べる? 私はコンビニのおにぎり(笑)」
シンプルな日常のやり取りだが、磯部にはそれが心の支えだ。
「(クビになったら…佐藤さんに合わせる顔ねぇな…)」
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