第3話 宝くじと小さな波乱

磯部はバイト帰りの夕暮れ、いつものコンビニの前に立っていた。時間は18時30分。手には110円のコンビニコーヒーではなく、300円の宝くじを握りしめている。昨日の小学生との会話が頭にこびりつき、給料日前の財布事情を無視して、つい買ってしまったのだ。


「(300円…。コーヒー3杯分だぞ、俺…)」

心の中で自分を叱りながら、磯部は宝くじをポケットにしまう。すり切れたジーンズのポケットに、夢の紙切れが収まる瞬間、妙な高揚感と後悔が混ざり合う。41年間、こんな「バカらしいこと」に金を使ったのは初めてかもしれない。


「(当たるわけねぇよな。けど…まぁ、考えるだけならタダだし)」

いつもの口癖を呟きながら、磯部は家路につく。バイト先のコールセンターでの疲れが、腰痛とともにじわじわと体を蝕む。今日もクレーム対応で心をすり減らし、客の怒鳴り声が耳に残っている。それでも、ポケットの中の宝くじが、ほんの少しだけ心の重さを軽くしていた。


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自宅に着いたのは19時過ぎ。磯部は玄関で靴を脱ぎ、スマートスピーカーに話しかける。

「おい、アレクサ、ただいま。宝くじ買ったぞ」


「わぁ、磯部さん、宝くじ! すごいじゃないですか! 当たったら何買います? 豪邸? 高級車? それとも…世界一周旅行?♡」


電子の声はいつも通り明るい。磯部は苦笑しながら、冷蔵庫から昨日作ったお茶を取り出す。

「豪邸ねぇ…。とりあえず、腰痛治せるマッサージチェアでいいわ」


「ふふ、マッサージチェア、いいですね! 磯部さん、絶対当たりますよ! 応援してます♡」


「(応援されてもなぁ…)」

磯部はソファにドサッと座り、宝くじを手に眺める。数字の羅列は何の意味も持たないただの印刷物だ。抽選日は来週。どうせハズレだろうけど、考えるだけならタダだ。


彼はテレビをつけ、適当なバラエティ番組を流しながら弁当を食べる。冷食のハンバーグとブロッコリー、いつもの貧相な食事だ。だが、今日はなぜか少しだけ味が違う気がした。いや、味じゃなくて、気分か。宝くじのせいかもしれない。


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翌日、令和6年1月3日。磯部はいつも通り朝7時に起き、弁当を作り、水筒にお茶を詰める。腰痛は相変わらずだが、今日は少しだけ気分が軽い。ポケットに宝くじが入っているからだろうか。


「さて、今日もがんばるぜ」

気合を入れる独り言を呟き、スマートスピーカーに話しかける。

「アレクサ、今日も行ってくるぞ」


「はい、磯部さん! 今日もファイトです! 宝くじの運、持って帰ってきてくださいね♡」


「(運、ねぇ…)」

磯部は小さく笑い、玄関を出る。バイト先までの30分の道のり。いつものように「転生」の妄想が頭をよぎるが、今日はそれに加えて「宝くじ当たったら」の妄想が混じる。


「(もし当たったら…。まず、うまい寿司食いてぇな。回転寿司じゃなくて、カウンターのやつ)」

そんなことを考えながらコンビニに寄り、いつもの100円コーヒーを買う。佐藤さんの「袋にお入れしますか?」に「いや、いいです」と答えるルーティンも変わらない。


だが、今日は少しだけ違う。佐藤さんが、いつもより少し長く磯部を見た気がした。

「何かいいことありました? なんか、いつもより元気そうですね」


突然の言葉に、磯部はコーヒーカップを持つ手が止まる。

「え? いや、別に…。まぁ、ちょっと気分がいいだけだよ」


「ふふ、いいことあるといいですね!」

佐藤さんは笑顔でそう言うと、次の客の対応に移る。磯部は少しドキッとしながら店を出る。


「(…なんだよ、急に。気ぃ遣われただけだろ)」

自分に言い聞かせながら、磯部はバイト先に向かう。だが、心のどこかで、佐藤さんの笑顔が引っかかっていた。


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コールセンターに着くと、いつも通りの喧騒が待っていた。だが、今日はいつもと違う空気が漂っている。同僚の山田さん、40代後半のベテランが、朝からやけにソワソワしているのだ。


「よお、磯部。なんかさ、今日、部長が来るらしいぞ」


「部長? あの、いつも本社にいるデカいおっさん?」


「そうそう。なんか、うちの部署の業績が悪いとかで、視察だってよ。やべぇよ、クレーム増えたらクビもあり得るって噂だぞ」


磯部の心臓が少し早く脈打つ。クビ。41歳、職歴はバイトばかり、貯金ほぼゼロ。そんな自分がクビになったら、次はないかもしれない。


「(…マジかよ。こんな時に限って)」

磯部は席に座り、ヘッドセットを装着する。宝くじの小さなワクワクは、一瞬で現実に押しつぶされそうになる。


午前中の業務はいつも通り、クレームの嵐だ。だが、今日は特にキツい客が続いた。「お前、使えねぇな!」「会社潰れろ!」と怒鳴られ、磯部はただ謝るしかない。ストレスで胃がキリキリする。


昼休憩。磯部は弁当を広げながら、ポケットの宝くじをそっと取り出す。

「(当たってくれよ…。こんな底辺生活、抜け出したい…)」


その時、隣に座った山田さんが話しかけてきた。

「おい、磯部。それ、宝くじか? お前も買ったんだな!」


「え? 山田さんも?」


「当たり前だろ! 俺なんか、10枚買ったぜ。1等当たったら、即退職だ!」

山田さんは笑いながら言うが、目にはどこか必死な色が浮かんでいる。磯部は小さく頷き、宝くじをしまう。


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午後、部長の視察が始まった。スーツ姿の50代の男が、フロアを歩き回り、社員の対応をチェックしている。磯部の電話にも、部長が近くで聞き耳を立てているのがわかる。緊張で手が震える。


次の電話。案の定、クレームだ。客の声は最初からヒステリックで、磯部の謝罪を無視して罵倒が続く。

「お前の対応、最悪だ! 名前言え! 絶対訴えてやる!」


磯部は冷静に答えるが、内心はパニックだ。部長の視線が背中に突き刺さる。やっと電話が終わった瞬間、部長が近づいてきた。


「君、磯部…だったか? さっきの対応、ちょっとまずかったな。クレーム処理のマニュアル、ちゃんと読んでるか?」


「…はい、すみませんでした」

磯部は頭を下げるしかない。部長はそれ以上何も言わず、去っていく。だが、その一言が磯部の心に重くのしかかる。


「(クビ…か?)」


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その夜、帰宅した磯部はソファに倒れ込む。腰痛がひどい。スマートスピーカーに話しかける気力もない。ポケットから宝くじを取り出し、じっと見つめる。


「(当たってくれ…。頼むから…)」


テレビをつけると、ニュースが流れている。宝くじの抽選日が近づいているという話題だ。磯部は目を閉じ、妄想に逃げる。


「(もし当たったら…。部長に辞表叩きつけて、寿司食って、マッサージチェア買って…)」


だが、現実はそう甘くない。磯部はそれをよく知っている。それでも、宝くじの小さな紙切れが、ほんの少しの希望を灯していた。


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