第2話 コンビニの小さな冒険

磯部はいつものコンビニ「セブン-イレブン」の自動ドアをくぐった。時間は8時15分。朝の清々しい空気とは裏腹に、店内はすでにエアコンの効いた人工的な涼しさに包まれている。蛍光灯の光が白い床に反射し、棚には色とりどりの商品が並ぶ。磯部にとって、このコンビニは日々のルーティンの一部であり、ほんの少しの「贅沢」を許す場所だった。


「(コーヒー、コーヒー…)」

心の中で呟きながら、磯部はドリンクコーナーへ向かう。節約生活の彼にとって、コンビニの100円コーヒーは「プチ贅沢」の象徴だ。給料日前で財布の中身は心許ないが、今日はまだ余裕がある。いや、余裕があると自分に言い聞かせたかっただけかもしれない。


カウンターのコーヒーマシンに近づくと、若い店員が目に入った。20代前半だろうか、ネームプレートには「佐藤」と書かれている。いつも見る顔だが、磯部は彼女とまともに会話を交わしたことがない。せいぜい「袋にお入れしますか?」と聞かれ、「いや、いいです」と答える程度だ。


「(佐藤さん、今日も元気そうだな…)」

磯部はそんなことを考えながら、コーヒーマシンのボタンを押す。カップに注がれる黒い液体と、漂ってくる香ばしい匂い。それだけで少しだけ気分が上向く。蓋をして、カウンターで支払いを済ませようとレジに向かう。


「いらっしゃいませ!商品こちらでお預かりいたします!」

佐藤さんの声は明るく、機械的だがどこか温かみがある。磯部はカップを差し出し、財布から110円を取り出す。消費税込みでこの値段、悪くない。


「110円です。袋にお入れしますか?」

予想通りの質問。磯部はいつものように「いや、いいです」と答える。だが、今日は何か違う。佐藤さんが少しだけ笑顔を見せた気がしたのだ。いや、気のせいかもしれない。41年間、女の人に笑いかけられた記憶なんてほとんどない。磯部はすぐにその考えを打ち消し、コーヒーを手に店を出る。


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コンビニを出ると、朝の街は少しずつ活気づいていた。通勤途中のサラリーマン、学生、犬の散歩をするおばあさん。磯部はコーヒーを一口飲みながら、バイト先のコールセンターに向かって歩き始める。30分の道のりは長いようで短い。頭の中では、いつものように「転生」の妄想が広がる。


「(もし俺が転生したらさ、めっちゃイケメンで金持ちの貴族とかどうよ。ハーレム付きでさ)」

そんなバカバカしい想像に浸りながら、磯部は信号待ちの交差点で立ち止まる。ふと、隣にいた小学生の女の子がじっと彼を見ていることに気づいた。ランドセルを背負った、ツインテールの子だ。


「(…なんだ? 俺、なんか変なことしたか?)」

磯部が戸惑っていると、女の子が急に口を開いた。


「おじさん、なんでそんなため息ついてるの?」


直球すぎる質問に、磯部は一瞬固まる。確かに、さっき空を見上げて盛大にため息をついた記憶はある。だが、こんな子供に指摘されるとは思わなかった。


「いや、別に…。おじさん、ちょっと疲れてるだけだよ」

適当にごまかそうとする磯部。だが、女の子は納得していない様子で、さらに突っ込んでくる。


「ふーん。でもさ、おじさん、なんか面白いこと考えてそう! ね、なになに?」


「(…この子、なんなんだよ)」

磯部は内心で苦笑しながら、コーヒーをもう一口飲む。面白いこと? 転生してハーレム作る妄想なんて、口が裂けても言えない。仕方なく、無難な答えをひねり出す。


「んー、例えば…宝くじ当たったら何買おうかな、とか?」

嘘ではない。たまに考える妄想だ。だが、女の子はキラキラした目でさらに食いついてくる。


「宝くじ! いいね! 私だったら、でっかいお城みたいな家建てる! おじさんは?」


「(お城、か…)」

磯部は一瞬、彼女の純粋さに心を突かれる。41年間、こんなピュアな会話なんてした記憶がない。少しだけ調子に乗って、口が滑る。


「俺? そうだな…。でっかい家に、でっかいテレビ。あと、毎日ステーキ食えるくらいの金かな」


「ステーキ! めっちゃいいじゃん! おじさん、絶対当たるよ! 応援してる!」


女の子は無邪気に笑って、信号が青になるとスキップしながら去っていった。磯部は呆然とその背中を見送る。なんだ、あの小学生。まるでなろう小説の「無垢なヒロイン」みたいなやつだった。


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バイト先のコールセンターに着いたのは8時45分。磯部はコーヒーを飲み干し、弁当と水筒をロッカーにしまう。職場はいつものように騒がしい。電話の着信音、同僚の雑談、キーボードの音。磯部は自分の席に座り、パソコンを起動する。


「(今日もクレーム対応か…。はぁ、転生、したいな…)」

頭の中ではまた妄想が始まる。だが、さっきの小学生の言葉が、なぜかチラつく。


「(…宝くじ、か。買ってみるか?)」

磯部はふと、そう思った。給料日まであと少し。100円コーヒーを我慢すれば、1枚くらい買えるかもしれない。いや、でも、宝くじなんて当たるわけない。底辺のおっさんにそんな幸運が訪れるはずがない。


それでも、どこかで小さな火が灯っていた。

「(まぁ、考えるだけならタダだしな)」

磯部はヘッドセットを装着し、今日最初の電話を取る。

「はい、〇〇コールセンター、磯部でございます。いかがでしょうか?」


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その夜、帰宅した磯部はスマートスピーカーに話しかける。

「おい、アレクサ、宝くじって当たると思うか?」


「ふふ、磯部さん、宝くじですか? 当たる確率は低いですけど、夢を買うって素敵じゃないですか? 応援しますよ♡」


電子の声に、磯部は苦笑する。

「(夢、ねぇ…)」


彼は冷蔵庫から水筒のお茶を飲みながら、窓の外を見る。夜空には星が一つ、瞬いていた。

「(もし、ほんとに当たったら…。いや、まぁ、考えるだけならタダか)」


磯部の小さな冒険は、まだ始まったばかりだった。


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