11 指導初日

 コーチ就任初日の朝。


 洗面台の鏡に映る自分と目が合った。

 無精ひげがうっすらと顎を覆っている。


 剃るべきか?


 英二は数秒思案したが、結局、そのまま家を出ることにした。気取ったところで何になる。付け焼き刃の清潔感など、すぐに見透かされるだろう。自然体、それが一番だ。かつては無刀の少年、今は無刀のおっさんと呼ばれる身には、ただあるがままの評価がふさわしい。


 鳳雛女学院の校舎は歴史ある建物で、学校というよりは古びた教会のようなイメージだった。いわゆるミッション系なのだ。朝はお祈りの時間があると言っていた。未衣とお祈りはなかなか結びつかないが、もともと彼女の父親は旧財閥の流れを汲む資産家だ。交通事故で故人となってしまったが、未衣に淑女としての教育を施したかったのかもしれない。


(ダンジョンに行くことは、苦々しく思っているだろうな)


 しかし、それも未衣自身が望んだこと。

 結局、子供は親の思う通りには育たないのである。



 職員室で着任の挨拶をすると、品の良い中年女性が出迎えてきた。

 未衣たちの担任であり、ダンジョン部の顧問も務める信濃川美子だ。


「どうも、藍川さん。今日からよろしくお願いします」


 彼女は丁寧に頭を下げた。


「ダンジョンは危険な場所ですが、これからの日本の発展には欠かせない場所です。うちの生徒は箱入りばかりですが、びしびししごいてやってくださいね」


 英二はややひねくれた質問をした。


「簡単に信頼なさってよろしいんですか? 格式の高い鳳雛女学院に、私のようなどこの馬の骨とも知れない男を招き入れて」

「ええ。わたくしは生徒を信頼しております。その生徒が信頼するあなたを認めたということで、ご理解ください」

「なるほど」


 完璧な答えである。

 しかし、捉えようによっては英二をまだ信用していないというふうにも聞こえるが――


 彼女は微笑んだ。


「朝霧さんはもちろん、あの月島さんまでが、あなたを強く推薦していたんですよ。教職員も一枚岩ではありませんが、少なくとも私は信用しています」


 その言葉には、先ほどとは違う、確かな温度が感じられた。


「ありがとうございます」


 素直に礼を言う。

 どうやら彼女は、この学院における数少ない味方になってくれそうだ。


 信濃川は少し声を潜め、申し訳なさそうな表情を作った。


「ところで、大変申し訳ないのですが、藍川さんには補佐がつくことになっています」

「私の補佐……? 聞いておりませんが」


 英二が首を傾げると、彼女は顔を寄せてそっと耳打ちした。


「昨日、突然ねじ込まれたんですよ。レンジャー協会から」

「はあ……」

「どうやらあなたがここの顧問になることを快く思ってないようですね」


 レンジャー協会。

 ダンジョン探索者の互助組織であり、ライセンス保持者の管理を行うNGO組織。

 民間組織ではあるが、防衛庁や警察庁から多くの天下りを受け入れており、相応の権力を持っている。


 レンジャーライセンスを持つ者は、自動的に協会員となる。英二も例外ではなく、毎月、味気ない会誌が送られてくる。福利厚生や保険、年金制度なども用意されており、英二も最低限の保険には加入していたが、それ以上の関わりは意識的に避けてきた。年に数回開催される会合や懇親会にも、一度も顔を出したことはない。


 英二が比呂や舞衣とパーティーを組んでいた「大英雄」であることは、協会は知らないはずだ。


 そのあたりの情報はすべて黒岩の手によって抹消されているはずである。


 ただ、人の記憶には残る。


 レンジャー協会の要職についている物のなかには、当時の英二と顔見知りのものもいる。


 特にレンジャー協会の会長は、七十を超える老人ながら曲者であり、世界に名だたる実力者でもある。会長業務をほったらかしてダンジョンに潜ってばかりの「冒険中毒者」なのだが、そういう現場主義的なところがまた人気の一因でもある。ラストダンジョン時代は五十歳で「年齢制限結界」《エイジリミッター》のため参加できなかったから、それがなくなった今、もうダンジョンを家代わりに過ごしているような御仁だ。


(まあ、あの爺さんなら、俺のことを誰かに話したりはしないだろうが……)


 現副会長の甲斐清輝も、現場には出なくなったものの、白兵戦なら切崎塊を凌ぐ実力を持っているはず。それだけの力がないと、海千山千のレンジャーをまとめていくことなどできないのだ。


 その時、職員室のドアがノックされた。


「失礼します。レンジャー協会より参りました、三澤と申します」


 噂をすればですわね、と信濃川が囁き「どうぞ」と促すと、一人の青年が入室してきた。隙のないスーツの着こなし、怜悧な目元。いかにもエリート然とした男だった。


「どうも。藍川です」


 英二が名乗ると、男は近づき、一枚の名刺を差し出した。


「三澤誠志郎と申します。この度、藍川様の補佐を務めさせていただくことになりました。以後、よろしくお願いいたします」


 丁寧な言葉遣いとは裏腹に、その目はこちらの力量を測るような、鋭い光を宿していた。その瞬間、英二はこの男の顔に見覚えがあることに気づいた。先日のダンジョン視察の際に出会った男だ。


「先日、お会いしましたね? 帝栄の顧問レンジャーをされていたはずでは?」


 三澤は生真面目に頷いた。


「帝栄との契約は今月で満了となりまして、急遽、こちらに赴任することになりました次第です」


 穏やかで丁寧な口調。


 だが、三澤の目がわずかに細められる。


「これで、あなたの秘密に少しは近づけるかもしれませんね。登録番号003」

「あんなものは、ただの整理番号です。深い意味などありませんよ」


 そう嘯いた英二だが、その数字は古参中の古参であることを示している。英二の抹消されたはずの過去、失われた英雄譚につながる、数少ない公的な証拠である。


(やれやれ、やりにくくなったな――)


 波乱のコーチ生活は、まだ幕を開けたばかりである。

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