12 意外な訓練
職員室での短い挨拶をすませたた英二は、顧問の信濃川女史に案内され、指定された訓練場へと向かった。
背後には、能面のような無表情を崩さない三澤が、影のように付き従っている。
訓練場として割り当てられていたのは、学院の敷地内にある旧体育館だった。
高い天井と、磨かれた木の床。バスケコート二面分ほどの空間の中央に、三十名の少女たちが期待と緊張の入り混じった表情で整列して待っていた。
最前列には、見慣れた顔――未衣と氷芽の姿がある。
未衣はニコッと微笑んで小さく手を振り、氷芽は照れたようにむすっと唇を結んだまま目を逸らした。
女生徒たちの間には、興奮がさざ波のように広がっている。
「おじさまだわ」
「本物……っ!」
「動画で見るより迫力がありますわ」
「おひげすてき……」
キラキラと輝く瞳が一斉に英二に向けられる。まるでアイドルを見るようなまなざしである。年ごろの少女だから仕方がないが、ちょっとミーハーがすぎるのではという気がする。外見は、くたびれたサラリーマンそのものなのに。
そんな英二の背中を、一歩下がった位置から三澤が見つめている。
レンジャー協会の目がある以上、あまり目立ちたくはないところだが……。
「ダンジョン部のコーチに就任した藍川だ。今日から放課後の一、二時間ほど君たちを指導する。よろしく頼む」
熱烈な拍手が起きた。
「君たちの多くはまだ初心者にもなっていない。まずはダンジョン教習所の合格を目指して、十分な訓練を積んでいくことになる。――というわけで、さっそく、最初の訓練を始めたい」
生徒たちの表情が引き締まる。
未衣も「待ってました!」とばかりに目を輝かせた。
英二は生徒たちをゆっくりと見渡し、そして、予想外の一言を口にした。
「今日、君たちに最初に教えるのは、モンスターとの戦い方じゃない――ダンジョンにおける、『正しい逃げ方』だ」
「「「……え?」」」
体育館に、困惑の声が響いた。
それは、彼女たちが期待していたものとは、かけ離れた内容だった。ダンジョンといえばモンスターとのバトルだ。なのに、最初に教わるのが「逃げ方」? お嬢様たちは首を傾げ、囁きが交わされる。壁際で様子を窺っていた三澤も、わずかに眉根を寄せたのが分かった。
驚いてないのは、未衣と氷芽だけだ。
「だと思った!」
「藍川さんも人が悪いんだから」
英二は続けた。
「逃げることが恥ずかしい、勇ましくないという思い込みは、今この場で捨ててくれ。モンスターからのエスケープは、レンジャーとして、ダンジョンに潜る者としての、最低限にして最重要のスキルだ。生きて地上に帰還すること、それが全ての基本であり、義務でもある」
英二の真剣な眼差しが、一人一人の生徒を射抜くように見据える。
戦うことしか頭になかったであろう少女たちにとって、それは衝撃的な発想の転換だった。しかし、歴戦のつわものである英二が放つ言葉の重みは、単なる精神論ではない、実践に裏打ちされた確かな説得力を持っていた。
「『逃げる』とは、負けじゃない。ひとつの選択肢であり、生き残るための戦略だ。そして、ただ闇雲に逃げるんじゃない。状況を判断し、最も生存確率の高いルートを選択し、確実に離脱する。それには、戦うことと同じか、それ以上の技術と判断力がいる。――これから行う訓練は、それを育むためのものだ」
英二は、体育館全体を模擬ダンジョンと見立て、訓練のルールを説明した。
「あそこの扉と、向こう側の非常口。そこが『安全地帯』だ。私が『モンスター』役を務める。君たちは、私に捕まらずに、どちらかの安全地帯に到達すればクリア。ただし、『捕まる』の定義は、私に肩、もしくは背中に触れられた時点とする」
その言葉に、生徒たちの間に、わずかに安堵と、そして少しばかりの侮りが混じった空気が流れた。
「なんだ、鬼ごっこみたいなもの?」
「こっちは二十人いるのに、鬼はコーチ一人だけ?」
「それなら、なんとかなるかも……」
そんな囁きが聞こえてくる。
「準備はいいか?」と英二が低く問う。生徒たちが、緊張しながらも、どこかゲーム感覚で頷くのを確認すると、彼は静かに告げた。
「――始め」
その合図と同時に、生徒たちは一斉に散開した。ある者は最短距離で出口を目指し、ある者は物陰に隠れようとし、またある者は仲間と連携して陽動を試みようとする。一見、悪くない動き出しに見えた。
――英二が動くまでは。
それは、まるで影が滑るような動きだった。直線的な速さではない。だが、異常なまでに効率的で、無駄がない。生徒たちが意図する進路、次に取るであろう行動を、完璧に予測しているかのように、英二は最適な位置へと滑り込む。
「あっ!」
真っ直ぐ出口に向かっていた一人が、突然目の前に現れた英二に驚き、方向転換しようとした瞬間、背中に軽い衝撃を感じた。
後ろにいたのも、英二である。
「い、いつのまに後ろに……」
呆然とする生徒に「アウト」を宣告し、英二は次の追撃に移る。
「きゃっ!」
体育館の隅、用具入れの影に身を潜めようとした生徒は、回り込んできた英二に行く手を阻まれ、あっけなく肩に触れられた。まるで、そこにいることが最初から分かっていたかのような動きだった。
英二は、決して猛スピードで追いかけているわけではない。むしろ、その動きは落ち着いているようにすら見える。だが、彼が動くと、確実に一人、また一人と、生徒たちの逃げ道が塞がれていく。静かに。軽やかに。音もなく。それは「速さ」と「間合い」と「タイミング」の絶妙な融合の為せる技だった。
生徒たちの間に、焦りと混乱が広がっていく。
「なんで!? どうしてこっちに!?」
「まるで囲まれてるみたい。相手は一人なのに!」
「速い、とかじゃなくて……コーチ、まさか私たちの動きぜんぶ見えてる!?」
未衣と氷芽は、他の生徒たちより巧みに立ち回り、英二の捕捉を避け続けていた。この二人は英二の指導の片鱗をすでに経験している。単なる体力勝負ではないことを理解していた。
「やるよ、ひめのんっ」
「任せて」
未衣が俊敏な動きで英二の注意を引きつけ、その隙に氷芽が出口を目指す。
悪くない連携だ、と英二はつぶやく。さすがにこの二人は修羅場をくぐっている。すでにその動きは、現役のプロと遜色ないレベルだ。
だが――。
英二は未衣の陽動に一瞬対応する素振りを見せたが、次の瞬間には、氷芽が進むルート上へ先回りするように立ちはだかった。
「くっ……!」
氷芽は咄嗟に立ち止まる。その僅かな逡巡が命取りだった。英二が滑るようなステップで距離を詰め、氷芽の背中に触れた。
「惜しかったな。狙いは悪くなかった」
「……」
氷芽はほんのかすかな声で呟いた。「惜しくない」。唇を強く噛んで、うつむいた。
残るは未衣ひとりになっていた。
彼女は必死に体育館を駆け回る。その脚力、スタミナは他の女生徒たちとはあきらに一線を画している。今や世間で熱い注目を集める
しかし、英二は巧みな位置取りで徐々に未衣を壁際へと追い詰めていく。まるで、逃げ場のない檻へと、ゆっくりと獲物を誘導するようだった。
もはや逃げられないと観念した未衣が、最後の抵抗を試みようと身を翻した瞬間――。
その肩に、ぽん、と軽く手が置かれた。
「……ま、参りました……」
未衣は、息を切らしながら、悔しそうに、しかしどこか嬉しそうに言った。
「やっぱりおじさんはすごいや!」
◆
――以上、わずか数分のできごとである。
肩で息をしている生徒たちから先程までのミーハーな空気は感じられない。
ただただ、英二の圧倒的な実力に対する驚愕と、そして、新たな尊敬の念が浮かんでいた。
英二は静かに口を開いた。
「これが『逃げる』ということの難しさだ。君たちは、ただ闇雲に動き、出口に飛びついただけだ。周囲の状況も、私の動きも、仲間の位置すらまともに見ていなかった」
厳しい指摘。しかし、今の圧倒的な実演の後では、誰も反論できない。
「モンスターに知性があるとは限らないが、本能的な嗅覚や追跡能力は、人間の比ではない。奴らから逃げるには、まず冷静さを保つこと。そして、常に周囲を観察すること。どこに障害物があるか、どこが袋小路か、敵が次にどう動くか……それを予測し、最善の逃走経路を瞬時に判断するんだ。敵の視界の死角を利用しろ。音を立てずに移動しろ。時には、陽動を使って仲間を逃がす判断も必要になる。それは、戦うこと以上に頭を使う、高度な技術なんだ」
生徒たちは、水を打ったように静まり返り、英二の言葉に聞き入っている。
「各自、今の動きをよく反芻し、何が足りなかったのか考えておけ。次の訓練までに、自分なりの改善策をレポートにまとめて提出するように」
生徒たちは深々と頭を下げ、「ありがとうございました!」と、先程とは比較にならないほど力のこもった声で礼を言った。その声には、確かな尊敬と、今後の指導への期待が込められていた。
ただ、一人――。
壁際でこの訓練の様子をじっと観察していた三澤が、英二に歩み寄った。
「これで終わりではないでしょう? 藍川コーチ」
彼の表情には、先ほどにはなかった決意のようなものが漂っている。
英二をまっすぐに見つめ、彼は驚くべき一言を口にした。
「この場で、私と立ち合っていただきたい」
『無刀』のおっさん、実はラスダン攻略済み 末松燈 @dddddddddd1
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