第16話 彼の「進路」 2/2
その晩、
新規のイラストが投稿されていた。
初投稿以来のオリジナル作品だ。
蝶々の羽根を持つ女の子が、蛹から脱皮している途中のようなイラストだった。
初投稿のような明るさはないが、今の心情を表しているのだろう。
少女の瞳には不安と未来への希望が写っていた。見ていると応援されている気持ちになる。
「嶋中さんは前に進もうとしてる」
自分も進みたい。進むべき道は見えている。以前なら考えもしなかった道だ。
「……プロ、か」
何も考えずに絵を描いていた。
ただ好きだった。それでいいと思っていた。
だけど絵を描くことと〈普通〉の生活を両立させるのは自分には難しいと知った。
大人になれば、多分、もっと難しくなる。
今から真剣に考えないと。
歩き出さないと。すぐ大人になる。
先月の健康診断で、去年より五センチも身長が伸びていた。
玄夢はピクフィスを閉じ、検索エンジンでプロへの道を片っ端から調べた。
絵の専門学校や美大に通うなど、漠然とイメージのあった方法が並ぶ。玄夢はひとつずつチェックした。
「美大合格者の九割は予備校に通っている」
「予備校は高校二年生の冬~高校三年生の春から通い始める生徒が多い」
今知っておいてよかった情報もある。
高卒資格が得られるイラストの専門学校も見つかった。
通信制や、少人数制の授業を取り入れている学校もある。
パソコンがあるのに何も知らなかった。調べようとしなかったからだ。
プロなんて自分から遠い世界だと思い込んで。
玄夢は自分の進路を真剣に考えた。
きちんとした絵の知識をつけるために早く絵の勉強がしたい。
独学でもいいが、学校に通いながらでは絵を描くのもままならない。
高卒資格が得られる絵の専門学校に転校するのはどうか。
父さんと母さんが許してくれるだろうか。
両親は一階のリビングにいる。玄夢は心を奮い立たせ、足早に階段を降りた。
「と、父さん……母さん、話があるんだ」
ダイニングテーブルについて晩酌をしていた父と、オープンキッチンで洗い物をしていた母は、同時に玄夢を見た。
「進路のことなんだけど……」
「座りなさい」
父は対面にある椅子を玄夢に勧めた。玄夢はおずおずと座った。
「……転校したいって言ったら、怒る?」
「学校が嫌なのか?」
父は静かに尋ねた。
母は皿を洗いながら聞き耳を立てている。
「嫌じゃないよ。よく話す子もできたんだ。その子はいつも頑張ってて、色んなことに挑戦してて……俺も、あの子みたいになりたいんだ。前に進みたくて、これからのことを真剣に考えた」
父は黙って玄夢の言葉を待っていた。
「俺、絵のプロになりたいんだ。今みたいに中途半端にお金を稼ぐんじゃなくて、美大か専門学校に行ってちゃんと絵の勉強したい」
「高校を卒業してからにすればいいじゃないか」
「大勢の中で授業を受けるのはきつくて、いつも授業内容が頭に入って来ないんだ。毎日家で復習してて、前より絵が描けなくなったんだ」
「……そのようだな」
父はグラスに残っていた僅かなビールを一気に煽った。
「保健室登校に戻る気はないよ。でも今のままだとどっちつかずになる。絵の専門学校でも高卒資格が取れるし、通信制や少人数制の授業を取り入れている学校もあって、俺に向いてると思う」
「本気なんだな」
「うん。絵で食べて行くのは難しいだろうし、挑戦した結果、駄目かもしれない。でも何もしないで諦めるよりずっといいよ」
「そうか」
父はゆっくりと椅子から立ち上がった。「待ってなさい」と言って寝室に向かったかと思うと、たくさんの資料を抱えて戻って来た。
父は資料をダイニングテーブルに並べた。すべてイラストの通信制高校や専門学校のパンフレットだった。
玄夢が驚いて目をしばたかせていると、洗い物を終えた母がお茶の入った湯飲みを二つダイニングデスクに置いた。
「全部父さんが取り寄せたのよ」
「なんで」
「……お前に『学生としてやるべきこともやりなさい』と言ったことを後悔していた。そのせいで無理をさせたのではないかとな」
父の言葉に玄夢はしっかりと首を横に振った。
「また教室で授業を受けようと思ったのは、自分で考えて決めたことだ」
めずらしく父が笑った。
「お前はいつも知らない内に成長している」
「俺のこと考えててくれたんだね」
玄夢は感激して声がワントーン高くなる。
「当然だ。……お前にそれを伝える機会を設けて来なかったな」
「父さん忙しいし、仕方ないよ」
「時間なんか作ろうと思えばいくらでも作れる」
父は湯飲みに入った茶をひと口飲んだ。
「いつも声のかけ方に迷う。進路のこともどう切り出すか考えていたが……お前から話しに来るとは」
酔っているせいか、父はいつもより正直だ。玄夢は父の姿が意外だった。
「父さんでも迷ったりするの?」
玄夢からすると父は完璧な男性だ。
いい大学を卒業し、一流企業に就職し、転職もせずに順調に出世し、立派な家を建てた。
結婚して子どもがいる時点で、玄夢には真似できない人生を歩んでいる。
「ああ、特に重要なことはな」
「玄夢が大切だから、迷うのよ」
母が自分用の湯飲みを手に、ダイニングテーブルについた。
「母さんもそう。どう声をかけたら刺激しないのか、何が貴方のためになるのか、迷ってしまうの」
「母さん……」
「これだけは迷いなく言えるわ。母さんたちは玄夢に幸せに生きて欲しい。笑って日々を過ごして欲しい」
目が潤み、玄夢は慌てて湯飲みを口につけた。
湯気で眼鏡が曇って誤魔化せる。
母が優しい言葉をかけるのは、自分が他人よりできない奴だからだと思っていた。
思い込んでいた。
今ならわかる。俺は二人から愛されている。
それに気づけたのは、自分のことを前より少し愛せるようになったからだ。
「ありがとう、父さん、母さん」
「お前の作った同人誌とやら、一度くらい見せてくれないか」
「母さんも見てみたいわ」
「取って来るよ!」
玄夢は急いで二階へ上がった。
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