第8話 少年「普通」になりたかった 2/2
一月七日。
三学期が始まった。
今日から普通の教室でみんなと一緒に授業を受ける。
緊張で吐きそうだ。昨晩はよく眠れなかったからしんどいし、朝からお腹が痛くなって長いことトイレに篭っていた。
「三学期からは教室で授業を受けるよ」と話した時に喜んでいた母も、この姿を見て引き止めた。
「無理に教室で授業を受けることはないわ」
「……大丈夫」
何度も躊躇しながら制服に着替え、通学路で足を止め、教室に辿り着いたのは昼休みの後だった。
養護教諭に教室の前までついて来て貰い、音を立てないように気をつけながら、授業中の一年三組の扉を開けた。
生徒たちが着座している後姿を見て、玄夢の視界は大きな円を描いた。
吐き気もする。
何人かの生徒が玄夢に気づいてちらりとこちらを見た。
途端に息ができなくなる。
胸の辺りで不安が渦を巻く。
帰ろうかな。
弱気になったところで咲良の姿が目に入った。
夏子もいる。
安心感からゆっくりと呼吸ができた。
もう少しだけ頑張ってみよう。
玄夢は一番後ろの席に静かに座った。
授業の内容はほとんど頭に入らなかった。
苦行のようだったが、五十分を耐えきった。
すぐに次の苦行が――授業時間よりもっとつらい――始まった。休み時間だ。
休み時間の教室は情報の洪水だった。
あちこちで雑談が交わされ、生徒たちは行き交う。
玄夢を興味本位で見て来る生徒も何人かいた。
石になれ! 自分に魔法をかけた。
休み時間はたったの十分。石として耐えるんだ。
「日下部じゃん! 教室来たんだ~」
石化の魔法を解いたのは夏子だった。真冬だというのに相変わらずミニスカートを穿き、派手なメイクをほどこしていた。
「こ、江東さん、こんにちは……」
「あっ、てかあけおめー。かーらーのー、ことよろー」
「うわぁ!」
夏子は玄夢の首にがしっと腕をかけた。
「他人ギョーギじゃん? 一緒にビッグフェス行った仲なのにさぁ」
「ぐ、ぐるじ……」
咲良がこちらに向かって来た。玄夢と夏子を見やり、軽くため息をついた。
「夏子、次の授業の課題やって来た?」
「へ? 課題ってなんのこと?」
「鳥あたま。冬休みに宿題が出てたでしょ」
「えー! 覚えてないし!」
「だと思ったわ。写させてあげる」
咲良は目の前でプリントをひらひらさせた。
「咲良やさしー! 絶対にいい嫁になる!」
夏子は玄夢を解放すると、咲良からプリントをひったくって席に戻って書き写し始めた。
「授業が始まる前にちゃんと返しなさいよね!」
咲良は呆れたように言った。夏子は課題を写すのに夢中になっており、聞いているのか怪しい。
「日下部君、調子はどう?」
「あんまりよくないけど、今日一日は頑張るよ」
「無理はしないでよ。それで、『ユメのスケブ』の絵なんだけど、一応描いてみたわよ」
「早いね!」
「……人真似は慣れてるの」
咲良はあまり嬉しくなさそうに言った。
「貴方にチェックして貰いたくて」
花模様の可愛いノートを咲良は差し出した。「ありがとう」と受け取ってノートを捲ろうとする玄夢の手を、咲良が制した。
「家で見なさいよ!」
「ご、ごめん」
玄夢はノートを鞄の中に大切に仕舞った。
六時間目までかろうじて授業を受け、帰路についた。
保健室で勉強していた時と比べ物にならないくらいにぐったりとしていた。
今日は絵なんて描けそうにない。
作業部屋には寄らず、帰宅した。
玄関のドアを開くと母親が駆け寄って来た。
「教室での授業はどうだった?」
「……普通だよ」
「明日も頑張れそう?」
「……うん」
「無理しちゃ駄目よ。貴方は学校に通っているだけでも偉いんだから」
優しい言葉だ。
優しすぎて、他人よりできない奴だと言われている気持ちになる。
これ以上母親と一緒にいたくなくて、自分の部屋に急いだ。
自室に着くとどっと疲れが押し寄せた。
ベッドに横になればすぐに眠ってしまいそうだ。
「そうだ、嶋中さんの絵!」
玄夢は鞄からノートを取り出すと、ページを捲った。瞳が大きく開いた。描かれていたのは、何度も練習を重ねたであろう玄夢の絵の模写だった。
「俺が描いたみたいだ……」
何かがほんの少しだけ違うように見えた。ほんの少しは圧倒的な違いのような気もした。
ここまでやってくれた咲良にさらなる完成度を求めるのは酷だ。
玄夢は「こんな違い、俺みたいな細かい人間しか気にしないだろう」と、自分を納得させた。
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