第4話 彼の「決意」と「不安」 2/2

 次の日の学校の昼休み、保健室のドアが開く音で、玄夢は肉食動物から身を隠す草食動物のようにびくりと顔を上げた。

 入り口に咲良が立っていた。


「ピクフィス見たわよ」

「ご、ごごごごめんなさい! 勝手にあんなこと書いたりして……」

「私の提案に乗るってことよね?」


 玄夢が遠慮がちに肯定すると、咲良は自信に満ちた笑顔を作った。


「そう言うと思っていたわ。今後の予定を考えたから見て欲しいの」

「仕事が早い……」


 咲良は折り畳んだA4用紙を玄夢に差し出すと、すぐ読むように顎で促した。


「参加予定のイベント、来年八月開催のコミック・デパート……」


 玄夢はそこまで読み上げると、驚いて咲良に視線をやった。

 咲良は自信満々の顔で頷いて見せた。


 コミック・デパート――通称コミットは、日本最大の同人誌即売会だ。


「どうせ出るなら一番大きいイベントの方がいいでしょ」

「自信ないよ」

「段階を踏んで出展するつもりだから安心しなさい」


 玄夢はA4用紙を読み進めた。今後のスケジュールという項目があった。


 ①今年十二月開催のコミック・デパートに一般参加。


 ②同人誌の作成、スペースのレイアウトなどを考える。


 ③来年五月開催のコミック・ミーティングにサークル参加。


 ④来年八月開催のコミック・デパートにサークル参加。



「最初は一般参加するんだ」

「私は同人誌即売会に参加したことがないの。まず一般参加をして空気を掴みたいわ」

「俺も参加したことないからありがたいよ。……ところで、今年十二月って今月だよね?」

「ええ。日下部君、年末の予定は空いてる?」

「……空いてるけど」


 玄夢は歯切れ悪く答える。


「なら①は達成できるわね」


 もう行く流れになってしまった……。

 なんて行動力の高さだ。


「コミック・ミーティングにも参加するの?」

「保険よ。コミットはサークル参加の申し込みが多いから、三割のサークルがあぶれてしまうらしいじゃない。どちらも受かればコミック・ミーティングがいい前哨戦になるし」


 咲良の声色には自信が溢れていて、彼女に言われれば「そうかもしれない」と、玄夢は納得してしまう。

 咲良がイベント参加についてしっかりと考えてくれたのも嬉しかった。

 玄夢はコミットに思入れもあったし、何より憧れの咲良と出掛けられるのが嬉しい。


 ひとつだけ懸念材料がある。


「コミットって、参加者がかなり多いイベントだよね」


 おずおずと玄夢は口を開いた。


「……俺、人が多いところ無理かも」

「それくらい我慢しなさいよ。欲しいものを得るためには耐えることも必要よ」


 玄夢は反論できなかった。自分にとって大変なことを「それくらい」と言えてしまう人間に、どう言えば伝わるのかわからなかった。


「……強いんだね。嶋中さんみたいな人なら、欲しいもの全部を手に入れて来たんだろうな」

「一番欲しいものは手に入ってないわよ」

「一番欲しい物って、何?」


 咲良は、玄夢を見た。見たというより睨みつけたと表現した方が適切な眼光だった。


「貴方が持っているものよ」

「俺は何も持ってないけど……」

「持っている人はそれに気づかないの」


 玄夢からすれば、咲良こそ何でも持っている人に見える。


 美貌も、友達も、世間からの承認も。これ以上何を望んでいるのだろうか。

 そんな彼女が欲しくても手に入らないものを自分が持っているというのも理解できなかった。


 ガラリと扉が開く音がした。養護教諭が保健室に入って来た。養護教諭は白衣を来た三十代半ばくらいの女性だった。


「嶋中さん、どこか具合が悪いの?」


 咲良は曖昧に答えると、養護教諭に何かを耳打ちをした。玄夢には聞こえなかった。養護教諭は「ああ、そういうことね」という顔をして、「薬は持ってる?」と、咲良に聞いた。


「さっき飲みました。まだ頭が痛いです。お腹も……」


 咲良は下腹部を丸く撫でた。


「マシになるまで横になっていていいから。担任の先生には私から言っておくわ」

「ありがとうございます」


 養護教諭は玄夢の方を向いた。


「日下部君は、調子どう?」

「……大丈夫です」

「何かあれば言ってね」


 養護教諭はそう言って立ち去った。


「ここじゃあまりゆっくり話せないわね。先生が戻って来る前に連絡先を交換しましょう」


 咲良は鞄からスマートフォンを取り出した。


「……いいの?」


 玄夢は狼狽した。

 推しの連絡先を手に入れる日が来るなんて思わなかった。


「一緒にイベントに出るんだから、お互いの連絡先を知らないのは不便よ。ROWSのアカウントは持ってる?」

「う、うん……一応」

「スマホを出して」


 玄夢は言われるままにスマートフォンをリュックサックから取り出した。

 女性の連絡先なんて、ネットの知り合いを除けば母親しか知らない。


 玄夢はドキドキしながら咲良のROWSのアカウントを友達登録した。


 ROWSは友達と通話やメッセージのやり取りができるSNSアプリで、日本中の人間が利用している。


「あ、そうそう。これ返すわ」


 咲良は鞄からスケッチブックを取り出すと、玄夢に差し出した。


「今度からひとの絵を描く時は、本人に許可を得てからにすることね」

「……ごめん」


 咲良は「また連絡するから」と言って去った。大変なことになった。


 玄夢は頭を抱える反面、これからへの期待を確かに抱いていた。

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