第12話
昼食を終えてすぐ、弘人と美久は二人きりにされた。あまり喋らなくなった弘人を美久が気遣う。
「疲れましたか」
「少し……でも、大丈夫です」
「お食事もあまりされてなかったようですけど」
「あまりお腹が空いてないんです」
「そうですか。あの、このお見合い弘人さんお断りしてくださるのかしら」
心配そうな美久は首を傾げて訊いた。
「はい、そのつもりです。美久さんも断ってください。趣味が合わないとか、タイプじゃないとか、背が低いとか。何でもいいので」
「私、何かお気に障るようなこと言ったかしら」
「いえ、美久さんは何も。俺の問題ですから」
「私でよければ悩み聞きますよ。こう見えても案外聞き上手なんで」
「聞いてもらうような話じゃないんです。自分でもよく分からなくて」
「そう……」
言葉にした通り、よく分からなくなっていた。ずっと父親の期待に応えたいと願ってきた。この縁談は父親が弘人に望む事の中で、一番重要なタスクと言えるだろう。だが正直結婚なんて考えられないし、あの家を出て浩詩が絵を描く姿を見れなくなることも嫌だ。桐子の事も心配だし、どれだけ居心地が悪くても、嫌われていても、あの家の他に居場所はない。家を出てしまったら最後、二度と戻れないような気がしている。どこかで自分は丸沢家には相応しくない人間だと思っているから、一度出てしまうと敷居が高くなって帰って来れないような気がするのだ。
この家にしがみつきたいなら、寧ろ政略結婚して、権力や社会的地位を持ち、父親の役に立つ存在であれば良いような気もする。でもそれでは余りにもつらい。そんな事でしか、この家に居られないのなら、自分じゃなくてもいいと証明してしまうようなものだ。
「弘人さん?」
「美久さんはこの後ご予定が?」
「どれくらい掛かるか分からなかったから、予定は入れてないの。ここは堅苦しいし、監視役がいるから落ち着いて話せないでしょ。どうです、私の行きつけの店に行きません?」
「まだ昼過ぎですよ、開いてるんですか」
「ええ。スペインのバル仕様でお気に入りの店。昼過ぎからお酒飲むなんて働き出したらできないし、せっかくの機会だから、いかが」
二人きりにしたばかりなのに、親たちのテーブルに戻ると、相当相性が悪かったのかと心配していたが、別の場所でゆっくり話したいからと伝えると、二人とも喜んだ。見送るよと丸沢と松山社長が連れ立って、ホテルのエントランスでベルボーイにタクシーを回すよう伝え、すぐにホテル前のロータリーで待機していたタクシーが来た。美久と弘人は車に乗り込み、親たちに手を振る。
タクシーが公道に出ると、デモ活動の名残なのか垂れ幕を付けた車やバイクがまだ走っていた。恐らく日が暮れるまで続けるのだろう。
喧噪の中を縫うように車は走り、二十分ほどで大きなビル街に着いた。一棟だけ三階建ての赤茶色いレンガ壁のビルがあり、半地下に店が二つ入っていた。
美久はそのうちの一つの重そうな木製ドアに手をかけた。開けると目の前にはワインセラーの壁が待っていた。ガラス張りのセラーの中にワインがずらりと斜めに寝ころんでいて、ボトルの底が入り口から見える。短い廊下を過ぎると、すぐにテーブルが八つほど並べられたフロアに出た。薄暗いカウンターが壁伝いにLの字で据えられていて、右端のカウンター上に豚の足が存在感強く鎮座している。
「オーラ」
明るい声で美久が挨拶をすると、カウンターの奥の部屋から恰幅のいい白い肌の男が一人出てきた。
「ミク! ヒサシブリ」
若干訛のある日本語で挨拶をすると、男は美久とハグをした。何やら親し気に英語で話し始め、一頻り近況報告が終っただろう後に美久が弘人を指差した。
どこか手持無沙汰で待つ弘人を呼び、美久はカウンターに近いテーブル席に腰を下ろした。
「弘人さんも掛けて。彼はこのお店の雇われ店長のアロンソ。アロンソ、弘人さん」
手のひらを上に向けて、名前に沿って手を振り、美久は紹介を簡単に済ませた。
「ヒロトさん、イラッシャイ」
「お邪魔します。こんな時間から開いてるんですね」
「ミセ、アイテナイ。ミク、イツモカッテニハイル」
「……美久さん」
「いいの、いいの。このお店には、いーっぱい売り上げ貢献してきたんだから。ね~」
「ネー」
あまり乗り気に聞こえない「ネー」を返し、美久がカバ二つ、とよく分からないことを言うと、アロンソは奥の部屋に入っていった。まさか悪口を言って、怒ってしまっんじゃないよな、と若干の心配をしたが、アロンソはすぐにスパークリングワインを二杯持って出てきた。
「オンハウス」
「いーの?」
「ハジメノ、イッパイダケネ」
「ケチ」
「アロンソ、フトッパラヨ、オナカミル」
そう言ってアロンソはお腹を突き出して擦った。やり取りが楽しくて弘人はくすりと笑った。
美久はカバというスパークリングワインを持ち上げ、弘人に微笑みかけてから一口飲んで言った。
「よかった。笑った」
「俺、そんなに沈んでましたか」
「うーん、私に振られてショックだったのかしらと思って」
「え?」
「いや、彼氏がいるって言ってから、なんか沈んだ感じに見えたから。自意識過剰かしら」
「美久さんに彼氏がいるのがショックとかじゃないんです。俺が不甲斐ないだけで」
「そうなの。ショックでもいいんだけど」
美久が肩で笑う。なんとなく美久になら話してもいいような気がした。自分の悩みなど小さなことだと蹴散らしてくれそうだ。
「……俺、コンプレックスの塊なんです」
「丸沢家の次男なのに?」
「ええ。丸沢家の次男なんですけどね。だから余計かな」
「プレッシャー?」
「そうとも言えます。でも父はさほど俺に期待している訳じゃないんで、勝手にプレッシャー感じてるだけなんですけど」
「そうかしら。期待してるから松山商事の年上令嬢と結婚させようと思ったんじゃないのかしら」
「あ……、そういう意味では、その……すいません」
「何に謝ってるの。私、お見合いするのが弘人さんでよかったって思ってるわ。話しやすいし、物分かりもいい。お兄様の浩詩さんは絵にゾッコンでお見合いなんてしないって聞いたの。二次元にしか興味がない方とお話が合うとも思えないし」
「兄は、絵を描いている事が命の人ですから」
「それはそれでいいけれど。私は付き合ってる人に私を一番にしてほしいから、絵が一番の人とは多分付き合えないわ。惚れてしまえば受け入れちゃうんでしょうけど」
「そうですね。絵だけでいい、他は要らないって言われたら、苦しいですよね。でも兄の絵を見たらきっと感動しますよ。美久さんも絵は沢山観てこられたでしょう」
「ええ。浩詩さんの絵も拝見したことはあるけど……」
「そうでしたか。どうでした、兄の絵。去年はNYのアート雑誌に絶賛されて、来年頭には個展をする予定なんです。よければチケット送ります。作品だけじゃなくて、創作している風景も絵になるんですよ。アトリエは小さな離れなんですけど、赤い屋根で窓から絵を描く姿が見えると、なんか十八世紀辺りのヨーロッパの画家風景を見ているような気になるんです。俺も個展の手伝いはし続けるつもりで」
絵の話になり、知らず饒舌になっていた弘人は、ぽかんとした美久に気づいて謝った。
「すいません、何の話って感じですよね」
「お兄様と絵が好きなのね、弘人さん」
好き? そんな柔らかく丸い表現で済まされるものなのだろうか。自分の中の感情はもっとドロドロで黒い塊だ。だが言い訳を口にする前に、美久は矢を放った。
「好きだからこそ、コンプレックスはお兄様と絵ね。でも自信を持つべきよ。だってあなたは丸沢家の次男で、絵もお上手で、松山家の令嬢とお見合い出来るほどに素敵な男性なのだから」
中黒に中てられ、弘人の顔は真っ赤になった。グラスの中身を空にすると、もう一杯くださいと顔を俯けた。
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