第11話
電話は父親からだった。取りやめになったはずの見合いをしろと言い渡され、指定した日時に帝戸ホテルへ行かなければならなくなった。
桐子がまた怒って体調を崩さないように、その場で抗議はしなかったが、一度立ち消えになったはずの見合いが無効になっていないことに、落胆は隠せない。
「弘人兄さん、顔色が良くないわ。何かあったの」
車の中で桐子に訊かれても、弘人はなんでもないと首を振った。
父親が嫌いなわけじゃない。見合いが上手くいかず、就職を不意にしてしまったら、父親の会社に入ればいいと言われている事も、有難いと思っている。
でも見合いをして、敷かれたレールの上を言われるがまま走る事は、自分が何もできない人間だと言われているような気がした。
大きな屋敷に住まわせてもらって、自分専用のアトリエまで作ってもらって、学費まで払ってもらって、贅沢な悩みだと言われれば、その通りだ。だがこの家に来てからずっと疎外感を感じ続けてきた。だから自分で就職先を見つけた。頼らなくても生きていけるようになりたい。自分で何でもできると証明したい。その上で家の跡継ぎを作ってほしいと言われたなら、使命感を持って受け入れただろう。なのに父親は弘人が自力で得た就職先を認める事さえしない。一度決めた事はがんとして曲げない人だ。見合いに抵抗しても無駄だろう。弘人だけに電話をしてきている辺り、桐子にバレないようにことを進めるつもりだ。
兄の浩詩は好きな事をして生きている。好きな絵を描き、世間体を気にすることなく、好きな人間と好きなことができる。それに比べて自分はどうだ。人生の伴侶でさえ自由に選ぶことを許されない。不平等だ。きっと不倫相手の子どもだからだろう。
『悪い子』
頭の中に女の声が響いた。血が頭に上ってガンガンと内側から叩かれているように痛んだ。
「俺は悪くない」
ぼそりと呟いて、弘人は下唇を噛んだ。
指定された日時、駅からホテルまでバスで行こうとしたが、ついた駅周辺でデモ活動が行われていた。プラカードやのぼりを持った人たちが歩道を埋めて、バス停も人でごった返していた。マイクを持って頭に黄色い鉢巻を巻いた人が「格差社会反対」と叫ぶと、こだまのように、同じ言葉が叫ばれる。道路には街宣車とバイクも多く路駐していた。警察も出動していている。不安に感じ、弘人はタクシーでホテルに向かう事にした。少し離れたところまで歩いて車を呼び、乗り込んでほっと息を吐いた。
「デモ活動なんて珍しい」
「ええ、最近多いんですよ。SNSで人集め易くなったから、活動しやすいらしくて。こっちは駅前占領されて、お客さんが拾いにくいんですけどねぇ。仕方ないです」
運転手はウィンカーを動かしながら往来する人々をちらりと見て、交差点を右折した。
「あんな活動、意味あるのかな……」
「大変ですよねぇ」
「ああ」
気のない返事をして、弘人は外を眺めた。自分の人生も変えられないのに、社会を変えようなんて正気だろうか。資本主義社会に生きながら格差を失くせと訴える事は、大富豪がルールを決める世界で不平等だと言い続ける貧民のごとく空しい所業に思える。大富豪は搾取し続け、貧民は貧乏くじを与えられ続ける。貧民はよほどの強運が舞い込まない限り貧民であり続けるのだ。それが資本主義社会の摂理である。
この世界で格差を気にせず生きていくことができるのは金持ちと変人と芸術家だけなのに。平等だなんだのを考えると頭が痛くなった。
後ろからバイクの音が近づき、四車線の信号待ちで、隣のレーンに二人乗りのバイクが停まった。さっきの活動団体ののぼり布が、後部座席の荷物入れの網から見える。ちらりと見遣ると、後ろの金髪の女がヘルメット越しに車中の弘人を見ているような気がした。
弘人は気味が悪くなって、顔を背けた。車が先に発進したが、バイクがけたたましい音を立てて、追い越していく。運転手がすごい音だな、と言ってそのまま話し始めた。
「今度の選挙で与党がばら撒きの裏でとんでもない法案通すってんで、野党側が動いてるらしいですよ。三万円の給付金ばらまいて、国会議員は来年から給与五%も上げる法案らしいんで、反対する活動家集めてるらしくって。庶民はやってらんないですよねぇ」
「これが資本主義の現実かと」
「にしても、やりたい放題ですよ。そりゃ活動もしたくなる」
世情に不満気な運転手は、ホテルに着くまで愚痴り続けていた。ホテル周辺の道路でも、バイクが大きな音を立てて道路を走っている。駅へ向かっているのだろう。
「うるさいな」
こめかみを押さえながらエントランスをくぐり、ロビーのソファを見渡した。中まで喧噪は聞こえない。父親が三人掛けのソファから手を振った。
「こっちだ」
弘人はテーブルを挟んだ向かい側の椅子に腰掛けた。
「遅かったな」
「バスに乗れなかったから、タクシーを拾いました。駅前でデモがあったから」
「タクシーも混んでただろう。だから会社の車を迎えに行かせると言ったのに」
「父さんは仕事だったんでしょう。俺は時間通りに来れましたから」
「まぁな」
完璧主義の父親は、時間にうるさい。待ち合わせ時間の五分前には到着していないと気が済まない。だが今日は見合い相手がいるので、気分を整えていたいのか、それ以上小言はなかった。
間もなく松山商事の社長、松山甚壮が現れ、その後ろから長身の女性がやってきた。松山社長はロビーの中に響く大きな声で丸沢に挨拶をし、黒のタイトスカートに黒のタートルネックを着た女性は、丸沢と弘人を交互に見て、美久ですと、頭を少しだけ下げた。
「どうも、美久さん、始めまして、丸沢智治です。いや、お写真で拝見したままの美しい方だ。これは次男の弘人です。弘人、挨拶を」
「丸沢弘人です。お会いできて光栄です」
「こちらこそ。お時間をいただきましてありがとうございます」
「上のレストランに移動しましょうか」
丸沢と松山社長が並んで歩き、その後ろを弘人と美久か゚ついて行く。美久は背が高く、ヒールを履いているせいか、弘人と同じくらいの目線だった。
「美久さん、背が高いですね」
「ええ。百七十あるのでヒールを履くと百七十五くらいかしら」
「素敵ですね」
「あら、ありがとうございます。日本人の方に褒めて頂けるなんて、初めて。大体大きいですねぇって、褒めたいのか貶したいのか分からない表現されるから。まぁそういうの大体年上の方だけど」
美久も歯に衣着せぬ物言いをするタイプのようだ。スタスタと歩く姿がフロアの窓に映る。まるでモデルの様だ、と弘人は思った。
「弘人さん、絵を描かれると聞いてます。賞も獲られたことがあるとか」
「小さな賞ですが」
「謙遜なさって。大小は関係ないわ。惹かれるものがあるという証拠よ。自信をお持ちになったら」
「……そうですね」
「あ、偉そうでしたよね、ごめんなさい。父にしょっちゅう怒られるんです。女の癖に偉そうに物を言うな、少しはしおらしくしろって。ていうか、しおらしいってどういう意味なのかしら。しおれるって語源だと萎れていろって事でしょ? 男の癖に偉そうじゃない。腹が立つからお父さんもそろそろ萎れる頃よって言ってやったわ。そしたら顔真っ赤にして怒るから、血圧上がるわよって注意したら、また怒られて。ほんと、昭和の男っていつまで昭和の脳みそでいる気なのかしら」
弘人は吹き出した。桐子も随分とお喋りだが、美久はそれを上回る自由度を持っていた。そこがどことなく気に入った。いや、その表現は偉そうだな。弘人は心の中で言いなおした。素敵な女性だ。
「弘人さん、今回のお見合い本気ですか」
「え?」
「いえ、私海外が好きで、できればあっちで暮らしたいの。実は今付き合っている彼氏がいて。隠していたらフェアじゃないでしょ。だからお話しておくわ。イタリアで出逢ったイギリス人なんだけど。遠距離恋愛だし、彼とは付き合いが浅いけど、今回のお見合いお断りするつもりだったの。でも父があまりにもうるさいから今日は仕方なく。弘人さんは好きな人や恋人はいらっしゃるの」
「いや、俺は……」
そんな人はいないけど、と言い掛けた時、父親が笑顔で振り返った。
「なんだ、もう打ち解けたのか。案外社交的だな、弘人」
「いえ……」
父親の笑顔を見るのは久しぶりだった。いつも眉間にしわを寄せ、難しい顔をしている。
お見合いなんて断ってしまえばいいと思っていた。相手に恋人がいるのだから尚更断りやすい。でも向こうから切り出されて、付き合ってもないのに何故か振られた気分になった。そして父親の望みを叶えられない事にも罪悪感が生まれた。今まで父親のいう事は絶対で、逆らったことがなかった。抵抗したのは今回が初めてだ。だからだろうか、父親の想いと違う事態になる事が酷く悪に思えた。どの道断る気でいたのに、実際破断になるのだと知るとなぜか不安になる。
「父さん、すいません」
「何を謝っているんだ。さぁ座りなさい。何を飲む」
「父さんたちと同じものを……」
上手く言葉が出てこなかった。目の前には美久が座り、彼女の幼少の頃の話を松山社長が自慢気に話し、談笑は続いた。弘人は上手く回らない頭で、愛想笑いを続けた。
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