第13話

 普段はかしこまって、他人とのコミュニケーションを浅くしか取らない弘人だったが、美久が相手だと自然体でいられて沈黙も怖くなかった。話題には事欠かず、明るいうちに店に入ったのに、出た時には周辺の店のネオンが煌々と光っていた。


「長居させちゃった。ごめんなさい。楽しかったから」

「俺もです。女性とこんなに長い時間二人きりで話したの、もしかして人生で初めてかも知れない」

「そうなの。そんな風に見えないけど。きっとおしゃべり上手な私のおかげね」


 美久が胸に手を当てて鼻高々に言った。何がなのかは弘人にはよくわからなかったが、仕草が可愛らしく映った。美久は心から自分の事を信じている。ゆるぎない自信は、弘人にはないものだ。単純に羨ましかった。


「そうだね。美久さんが相手なら、結婚だって悪くないのかもしれない」

「そんな嬉しい事言ってくれるなんて。その気にさせようとしてるの」

「あはは、違いますよ。すいません、調子に乗りました


その言葉に美久は優しく微笑んだ。


「弘人さん、あなたは素敵な方よ。自信を持って。私に恋人がいなかったら、この結婚の事、真剣に考えたかもしれない。どこにいても私は私なんだけど、自由がいいの。だから好きな場所で好きな人と好きなように過ごしたい。丸沢社長には申し訳ないけれど」

「もちろんです」

「私たちはもう友達よ」

「友達……」

「ええ。違う?」

「いえ、ありがとうございます」

「内定はまだ蹴ってないんでしょう? 弘人さんがやりたいことをやれるように祈ってるわ。何かあったらいつでも連絡して。力になれる事があるなら、手を貸す」

「美久さん」

「知ってた? 利害関係がある友情は長く続くのよ」

「そうなんですか」

「車で送るわ。運転手を呼んであるから」


 美久が手を上げると、少し離れたところにあった黒い大きなアルファードが動き、目の前に停まった。まるで恋人をエスコートする紳士のような振る舞いだ。弘人は自分の子どもっぽさを恥じた。


 車に乗り込み、丸沢家に着くまで会話は楽しく続く。道中、昼間のデモの名残だろう、駅前を通るとまだ蛍光色のベストを着た人たちが多くたむろしていた。


 丸沢家に到着した際、美久は一度車から出て浩詩のアトリエを外から覗いた。残念ながら明かりはついていなかったが、建屋の愛らしさに、可愛らしいお兄様なんでしょうねと微笑む。百八十五もある大柄な男だと伝えると、美久はいきなり弘人にハグをした。女性に抱きしめられたことなどなかった弘人は随分狼狽えた。これも経験よ、と美久にウィンクを投げられ、弘人の顔は真っ赤になり、それを見た美久は手を口に当てて笑う。振り回されっぱなしだが、嫌ではないことに弘人自身驚いた。


 車中から手を振り、美久を乗せた車は静かに敷地からでていく。


 松山商事の令嬢と政略結婚なんて、古臭くてつまらない親の自己満足だと思っていたが、美久が優しい人柄だったおかげで抵抗感は薄れた。それどころか友達になれた。だが結婚はしない。美久にもそのつもりがない。父親には、いい人だったけど自分にはもったいない人だと断ろう。美久には一番に思う恋人がいるのだから。


 何となく少し前に進んだと思ったのに、気づくと一人で立ち尽くしている。夜の静寂の中、バイクがけたたましい音を立てて道路を走り抜け、弘人は、胸のシャツをぎゅっと握りしめた。


何をしても父親の期待には添えない。いつ父親の求める正解にたどり着くのだろう。憂鬱な足を引きずって、弘人は屋敷の中に入った。


父親は少し酔っ払っているのか、赤いほほのままリビングのソファーで酒を飲み、珍しくテレビを見ていた。


帰ってきた弘人に気づき、おかえりと笑いかける。弘人の口元が引き攣った。


「ただいま」

「どうだった」

「うん、素敵な人だった」

「そうだろう。写真で見たよりも美人だったな」

「話しやすくて、賢い人だ」

「そりゃ松山商事の令嬢だからな。バカじゃない」


上からの物言いが、カチンとくる。でもいい返せない。いつものことだ。


「気に入ったか」

「そういう言い方はちょっと」

「付き合っていけそうかと聞いてるだけだ」

「俺にはもったいないよ」

「どういう意味だ。お前まさか断ったのか」

「断ってないけど、俺にはもったいないって思うんだ……」

「もったいないってことはないだろう。お前は丸沢家の次男なんだから。顔も悪くないし。出生のことはまだ話してないし」

「出生って?」

「母親が俺の愛人だったってことだよ」

「そんなこと言ってない!」

「あっちも調べるだろうが、伏せておいても問題ないはずだ。俺の子供に変わりないんだから」


頭がズキズキと痛んだ。見えないレッテルが顔に貼ってある。愛人の子供。そんなことに振り回されるような年じゃないのに、いつまでたっても苦しい。父親に何かを期待されるたび、間違った回答用紙を提出している気がする。何を出しても落胆され、満足してもらえない。この苦しみはいつ終わるのだろう。この家を出れば終わるのだろうか。


何も言えずに、弘人は疲れたからと言い訳をして自室に入った。冷たいものが頬を伝い、触って初めて自分が泣いているのだと気づいた。


次から次へと溢れ出る涙は、止めようとしても止まらなかった。悲しいのか、辛いのか、寂しいのか、その全てなのか、自分ではどういう感情で泣いているのかよくわからない。


ひとしきり泣いた後、浩詩のアトリエに足を運んだ。無性にアトリエに入りたくなったからだ。幸い浩詩はいない。鍵はかかってなかったので、中に入った。


雑然とした部屋に憧れる。バラバラに置いてある絵の具も、途中で止めたことが分かる床のキャンバスも、何もかもに切望した。椅子に引っ掛けてある絵の具のついたエプロンを手に取り、そっと匂った。絵の具と浩詩の匂いがする。


振り返って壁に掛けれている絵を見た。あんなに憎らしいと思っていたそれは、以前とは違って見えることに驚いた。天川は悪いやつではなかった。だからといって好きなわけでもない。ただ前より少し、天川のことを知っているから、私情が絵の見え方を左右しているのかもしれない。であれば絶望に肩を叩かれたも同然だった。


父親は自分のことを知らないし、興味もない。だから何年経っても、愛人の子供、という仮面が外れないのだ。興味のないものに愛着は湧かない。愛されていないのだ。直視してこなかったけど、明らかな現実。見たくないのに知ってしまった。


涙があふれて視界がぼやける。拭っても拭っても、涙が止まらず、知らず声が漏れていた。


嗚咽に揺さぶられて弘人は床に崩れ落ちた。


誰のものにもなれず、どこにも属せない。なんて孤独だろう。


手で顔を覆い、しばらく蹲っていた。物音に気づいて頭を上げると、横に浩詩が立っていた。


「何を泣いている」

「兄さん……」


機嫌の悪そうな顔に、 弘人の目から涙がすぅと引いていった。

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