──二〇一三年四月二日、東北地方、山間の港町

「くそ……、何をやっているんだ私は……」

　物悲しい防災無線の音が鳴り響く夕暮れ時、三十代半ばくらいだろうか、一人の男が自動販売機の横でガシガシと頭を掻き毟りながら呟く。

　手には傍らの無機質な箱から吐き出された加糖の缶コーヒーを握っているのだが、加糖のコーヒーは嫌いだ。

　男が「ちっ」と舌打ちをし、胸ポケットに忍ばせた煙草と年季の入ったZippo（ジッポー）ライターを取り出す。そのまま煙草を咥え、ライターの蓋を手馴れた手つきでカシュンと開け、煙草の先端にジリジリと火をつけた。

「ふぅぅ──」

　燻（くゆ）る紫煙を男が見つめ、「本当に何をやっているんだ私は……」と、再び呟いた。

　男は身長も高く、体も鍛えられているであろうことが伺える。短く刈り揃えられた黒髪に精悍な顔つき。だがどこか疲れているようで、その逞しい体とは裏腹に、醸す雰囲気はどこか弱々しい。

　男の名前は結束倫正（ゆいつかみちまさ）。

　人の守るべき筋道を貫き通し、正しく真っ直ぐな男に育って欲しいという想いが込められた名だ。

　倫正はその期待に応えようと、殊更に正しく真っ直ぐであろうとしてきた。

　青森県警刑事部捜査第一課で刑事として奔走し、いくつかの事件を解決してきた。人の守るべき道筋から逸脱したのであれば、自分が正さねばと信念を持って進んできた。

　順調に自身が思い描いた道を進み、晴れてこの度──

　左遷された。

　今は同県内、鉞（まさかり）半島とも呼ばれる地の交番に勤務している。

　この半島、中心には八峰の外輪山に囲われた忌み地、奥森と呼ばれる深い森がある。まるで忌み地からの穢れを抑え込む結界かのような外輪山。

　夕暮れの、他界と現実を繋ぐ境が曖昧となる時刻ともなれば、もはやその結界も曖昧なものとなり──

　山から吹き下ろす冷え冷えとした颪（おろし）と共に、魔物や妖怪が蠢めいて押し寄せそうな大禍土地（おおまがとち）。

　穢れが束なりしゅるしゅると、大蛇が如くしゅるしゅると、全てを呑み込まんと冷えた風が吹き下ろす。

「ああくそ……、頭がおかしくなってしまいそうだ……、やってない……、私は何もやっていないんだ……」

　そんな曰く付き纏う地の片隅で|倫正が甘い缶コーヒーを胃に流し込み、苦々しい表情で呟く。やはり久しぶりに飲んでみて思うが、加糖のコーヒーは嫌いだ。

　ではなぜわざわざ嫌いなものを飲んでいるのか。

　それは左遷されたことにも通ずるのだが、倫正はある時を境に記憶が曖昧となるようになっていた。気付けばナニかに取り憑かれたように、一人の女性のことばかりを考えてしまう。

　その想いがしゅるしゅると頭の中を這い回るように支配し、意識もぼんやりとミスを繰り返す。無糖と加糖のボタンを押し間違える程度のミスであれば問題はないのだが、倫正は人の守るべき筋道を貫き通すという事柄に対し、ミスを犯した。

　あろうことか同僚の女性署員の後をつけ、外から部屋を覗き見ていたのだ。それも一度ならず二度三度と。被害に遭った女性が大事にはしたくないということで、倫正は左遷ということで手打ちとなった。

「だめだ……、何度考えてもおかしい……、私は……、私はそんなことはしていない！」

　倫正が声を荒げ、空になった缶コーヒーをゴミ箱に投げつける。だが「そんなことはしていない」と叫んだ倫正の脳裏に浮かぶ、匂い立つような仄白い女性の項（うなじ）。

「ちが……う……違うん……だ……違うんだぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ！！」

　何故こうなってしまったのか分からず、「違う違う」と叫びながら蹲る。ただ、明確に自分がおかしくなってしまったタイミングは分かっている。

　それは一年前──

　息抜きで訪れたこの地で──

　偶然目撃した仄白い──

　項（うなじ）。

　一年前、二〇一二年の夏。倫正は休みを利用してドライブがてらこの地を訪れていた。そこで目撃したのが、今まさに倫正のいる場所から覗き見ることが出来る、古めかしい家の二階、窓辺に佇む濡羽色の髪を結えた女性の仄白い項（うなじ）。

　その時から倫正は、窓辺に佇む女性の虜となっていた。休みを終え、仕事が始まってからも考えるのはその女性のことばかり。

　倫正が後をつけた女性署員も濡羽色の髪が美しい女性だった。だがだからといって、自分がそんなことをする訳がない。後をつけたという記憶すらないのだ。

　もちろん倫正は「身に覚えがない」と主張したのだが、防犯カメラにも女性署員の後をつける倫正の姿がはっきりと映っていた。

　そしてなんの因果か、倫正は自分を狂わせたであろう仄白い項（うなじ）の女性が住まう地へと飛ばされた。

　ただ──

　もはや眼前の家の窓辺に女性が佇むことはないと倫正は知っている。

　なぜなら──

　殺したのだ。

　おそらく──

　自分が。

　昨日、四月一日の夜。倫正がこの地へ転属となったその日の夜に、おそらく殺してしまったのだ。女性は一人暮らしだったのか、まだ誰もそのことに気付いてはいない。

　おそらくと表現したことや、自首も通報もせずに倫正が女性の家を眺めているのには訳がある。

　それは昨日の夜のはっきりとした記憶がないのだ。例によって倫正の記憶は曖昧であり、だがおそらく殺してしまったであろう記憶が断片的に浮かぶ。

　泣き喚く女性と──

　嬉々としてその女性を陵辱する──

　自分の姿。

「そんな……、そんな訳はない……。私は……私は……」

　ふらふらとよろめいた倫正が、濡羽色の髪の女性が佇んでいた窓辺を見る。

「あ、ああ……」

　そこには殺されたはずの女性の後ろ姿。

「ち、違う！　私じゃない！」

　しゅる──

　しゅるり──

　佇む女性がおもむろに、艶めかしくも妖しく結わえた髪を解く。そうしてゆっくりと倫正がいる方へ向けて首が回り──

　ハッと我に返った倫正が「私じゃない！」と叫ぶと同時、女性の姿は部屋の薄暗がりへと掻き消えた。