第2話
「はぁ……」
階段を下りきったところで、辻一樹は深く息を吐いた。胸の奥に重く沈んでいた不穏な気配は、楓の唐突な悪戯と危うい距離感のせいでさらにかき乱されたものの、どうにか切り抜けられたという安堵がわずかに温度を帯びて残っていた。
「何してんだよ、俺は……」
自嘲するように頭を振る。振り回されるのはいつものことだが、今日は一日がやけに濃密だった気がした。階段を再び上がる足取りは、さっきより幾分か軽いように思えた――ほんの気のせいにすぎないとしても。
だが、その階段の踊り場で、不意に人影が立っているのが目に入った。
「……海咲?」
夕焼けが薄く差し込む踊り場に、八代海咲が佇んでいた。影の長さが彼女の肩に寄り添うように伸び、その表情に微かな陰影をつくっている。気づかれた瞬間、海咲はほっとしたように口元を緩めた。
「どうすれば……」
かすれた声が漏れた。掠れるほど小さかったが、一樹にはその翳りがどこか胸に引っかかった。
「ん? 何が?」
「……別に、なんでもないです」
海咲は首を小さく振ると、迷いを押し隠すように一歩近づき、そのまま両腕を伸ばして一樹の首に回した。ふわりと、身体ごと預けてくる。
「お、おい……!」
慌てて彼女を離そうとするが、海咲は微動だにしない。そこへ、耳元に吸い込まれるほど柔らかな囁きが落ちた。
「……私で童貞捨てたのに……」
「……は?」
一瞬で思考が真っ白になる。反射的に彼女の肩を掴み、強めに引き離した。
「……別にお前と俺は、そういう関係じゃないだろ?」
言葉は諭すようでありながら、どこか自分自身に向けた否定にも似ていた。海咲は離されても取り乱すことなく、ふっと笑った。
「ふふっ……さっき冗談って言ったじゃありませんか」
たしかに微笑んでいた。いつもと変わらぬ柔らかな表情――の、はずだった。しかしその目の奥に、一瞬だけ鋭い冷たさが走った。夕焼けに照らされたせいなのか、感情の影なのか、一樹には判別がつかなかった。
「……書類、ちゃんと届けてくれたんですね」
海咲が鞄から封筒を取り出しながら言う。一樹はまだ心の波が収まらないまま答えた。
「ああ……石原に渡したよ」
「そうですか……」
海咲はわずかに視線を落とした。その声音には、かすかに寂しさが混じっていた。触れれば消えそうな、けれど確かにそこにある陰り。
「何かあるのか?」
一樹が尋ねても、海咲は小さく首を振る。
「いいえ、特に何もありません」
けれど、その微笑みはどこか作り物のようにぎこちない。何かが欠けているようで、それが何なのか一樹には見当がつかなかった。
「ほら、じゃあ一緒に帰るぞ」
気分を切り替えようと、わざと明るく声を掛けると、海咲はぱっと表情を明るくした。
「そうしましょうか」
その笑顔につられて、一樹も小さく笑った。しかし胸の奥のざわつきは消えないまま、薄い膜のように張りついて離れなかった。
(やっぱり、何かおかしい)
二人で階段を降り、夕焼けに染まる廊下を並んで歩く。ふと、海咲が足を止めた。
「一樹君」
「ん?」
「……やっぱり少し聞きたいんですが、石原さんと、何かありましたか?」
その問いは、まるで心の奥底を探るようだった。一樹は一瞬だけ息を飲む。
「いや、別に。書類渡しただけだよ」
「そうですか」
海咲の声は淡々としていたが、その温度がほんのわずかに下がったのを、一樹は確かに感じた。
「どうかしたのか?」
「いえ、なんでもありませんよ。ただちょっと……」
最後の言葉は、夕方の風に紛れてしまいそうなほど小さかった。笑ったはずの海咲の表情は、その実、どこか張り詰めていた。
違和感は、もはや気のせいではない――。
けれど、その正体に触れるのがどうしてか怖くて、一樹は何も言わなかった。ただ海咲の背中が再び歩き出すのを黙って追う。
「ねえ、一樹君」
「ん?」
「ずぅーっと一緒に帰れたら、いいですね」
その言葉は、夕陽に溶ける前にかすかに震えていた。一樹は返事を探したが、適切な言葉はどれも喉の手前でほどけて消えた。
隣を歩く海咲の横顔が、夕暮れの色と混ざり合い、どこか儚く遠いものに見えた。
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もともと3000字程度あったものを分割して見やすいようにさせていただきました。
清楚系幼馴染に私で童貞捨てたくせにと言われた話。 いぬかい? @inukai88
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