第1話

 夕暮れの光が校舎の壁を薄紅に染めるころ、辻一樹は、どこか押しつけられるような胸の重みを引きずりながら特別棟へと足を向けていた。階段を踏みしめるたび、その重みは逆に濃くなっていくようで、一段、また一段と上るたびに、彼は無意識のうちに自分の内側へ沈んでいく感覚に呑まれそうになった。教室での出来事――海咲の、あの唐突で無邪気に装われた言葉――が、頭のどこかで波紋のように揺れ続けていた。


「……なんなんだよ、あれ」


 吐き出すような声が、夕暮れの空気に小さく解けた。一度は真相を確かめようと海咲を探してみたものの、結局見つけられなかった。そのせいか、問いの宛先だけが宙に浮いたまま、胸の奥に澱のようなものが沈殿している。


 冗談だと言われても、あの笑みがどうしても頭から離れない。あの笑顔の裏側に、彼の知らない色がひそんでいるような気がしてならなかった。


「……はぁ」


 気持ちを断ち切るように首を振ってみる。だが振り払ったはずの思考は、すぐまた戻ってくる。何に悩んでいるのか、自分でも判然としない。ただ胸の奥に、石ころのように冷たく硬いものが入り込んだまま動かず、それが呼吸のすき間に影を落としていた。


「そうだ、書類だ」


 ようやく思い出したように呟き、気を引き締めて階段を上りきる。生徒会室の前に立つと、扉に掛けられた「生徒会室」のプレートが夕焼けに照らされ、わずかに黄金色へと陰影を変えていた。普段なら不機嫌にしか見えない自分の表情も、いまはどこか、その光に和らげられている気がした。


「誰か」


 軽くノックをするが返事はない。再びノックしようとしたとき、扉の向こうで小さくガタッと物音がした。うめくような声も重なる。


「……?」


 不審に思いながらノブへ手をかけると、鍵はかかっておらず、扉はためらいなく開いた。


「誰かいるのか?」


 夕暮れの光が細く差し込む生徒会室の奥で、机に突っ伏すように倒れている一人の少女の姿があった。見慣れた、茶色がかったショートカット――石原楓いしわらかえでだ。一樹が慎重に近づいた、その刹那。


「ばあっ!」

「うおっ!」


 楓が勢いよく顔を上げ、跳ねるように飛びかかってきた。一樹は反射的に一歩下がり、目を丸くした。


「あはは! 一樹君、驚きすぎ!」


 屈託のない笑顔。明るさがそのまま部屋の空気を押し広げるようで、彼の胸のざらつきが少しだけ溶かされる。


「お前な……驚かせるなよ」


「ごめんごめん。でも、一樹君が生徒会室まで来てくれたのは嬉しいな!」


 楓は現生徒会の会計で、活発な性格と自由な雰囲気を漂わせる少女だ。海咲とは違う、風のような軽やかさを持っている。そのせいか、彼女と話すと空気が明るくなるような気がしていた。


「海咲に書類届けろって頼まれてさ」


 一樹が封筒を差し出した瞬間、楓の表情に影が落ちた。


「……ふーん。海咲ねぇ……」


 どう見ても面白くなさそうな顔に、一樹はわずかに戸惑う。


「なんかあったのか?」

「ないない! 何でもない!」


 楓はすぐに笑みを戻したが、その笑顔はどこか薄い膜を一枚かぶせたように、微かな違和感を孕んでいた。


「え、ちゃんと海咲に渡せよ?」


 当然の確認をすると、楓は首を左右に振った。


「これは私が預かるから大丈夫。それより……」


 楓が一歩、また一歩と近づいてくる。前髪が触れそうなほど近い距離で、上目遣いをしながら小声で囁く。


「海咲のこと……気になる?」


「ん?」


 間抜けな声が漏れたが、楓は気に留める様子もなく続けた。


「幼馴染、だもんねぇ」


 その言葉と同時に、一樹の首へ腕を回し、抱きつくように身体を寄せてきた。茶色の髪が頬をかすめ、甘い香りが揺れながら鼻を刺激する。


「おい、何してんだよ」


 動揺を隠しきれない一樹が引き離そうとするが、楓はさらに密着し、耳元でささやく。


「鴨葱って知ってる?」


「何言って……」


 困惑する一樹をよそに、楓の手が彼の胸に触れ、彼女の雰囲気が一瞬で別の色を帯びる。普段の明るさとはまるで別人のように、目の奥に濃い影を宿していた。


「ふふっ……ねえ? 今、二人きりだよね。生徒会室にはしばらく誰も来ないしさ。ここ、防音もしっかりしてるんだよ?」


「……っ」


 甘さと危うさが同時に滲む声だった。冗談の皮を被りながらも、その奥底に別の意図が沈んでいるのが分かった。だが――。


「石原。オマエ、もう少し自分の身体を大事にしろ」


 穏やかでありながら、逃げ道を与えない声音で一樹は言う。楓の両手を包み込むように握り、少し強めに引き離した。


「わ、私……」


 楓の頬が一瞬で熟れるように赤く染まった。

 一樹は落とした荷物を拾いながら、静かに、しかし決定的な一言を置いた。


「……俺たちはただ雑談していただけ。それでいいな?」


 そう言い残し、生徒会室を後にした。背後で「あ……」と小さく漏れた声が追いかけてきたが、一樹は振り返らなかった。


 廊下へ出ると、窓の外で夕陽が校舎を赤く染め、長い影が足元へ流れ落ちていった。遠くから、夏の始まりを告げるような早鳴きの蝉の声がかすかに届く。


 階段を下りながらも、一樹の頭には楓の言葉が繰り返されていた。笑顔の奥に潜む本音と、ほんの一瞬の真剣さ。その二つのあいだで揺れ動く自分を意識せざるを得なかった。


「なんで……」


 その呟きは、楓にも海咲にも向けられておらず、ただ自分自身の内側へ落ちていった。夕陽に染まる廊下の先が、いつもよりも少し遠く、心から隔たって見えた。




 __________


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