第56話

「ラティム!? おい!! ラティムッ!!」

「ウゥ……、グアァ、アァァ……!!」


 黒い煙を浴び続けたせいか見開いた眼は充血しており視点も定まっていない。

 敵の姿は近くにいないことを確認したピークコッドは苦しみをあげて倒れるラティムに近づいて行った。


「ラティム!」

「グゥゥ……、ウォアァッ!!」

「──うおっ!?」


 近寄るピークコッドを拒絶するかのようにラティムは巨大な尻尾を振り回し、咄嗟に後ろに倒れたことで間一髪で回避することができた。

 もしこれが当たっていればと考えが過るとピークコッドの背筋は一瞬で凍ってしまった。


「ラティ、ム?」

「ウウ……グウゥ……!」


 明らかに正気ではないラティムに睨まれたピークコッドは尻餅の状態で硬直してしまう。

 ラティムの巨体が近づき、その影が自分を覆っていても依然として体は動かすことができない。蛇に睨まれた蛙というのがこんなにも残酷な状態だと現実逃避をするような考えが頭に巡るほどの恐怖がそこにあった。


「お前何してるんだ!! 早く立て!! 死ぬぞ!!」

「──っ!」


 遠くでマホの声が聞こえ、そこに顔を向けると守護者隊と共に駆け寄る姿が見える。

 彼の声が頭の中にあった考えを晴らして現実へと戻してくれる。

 迫りくるラティムはすでに目の前におり、その巨大な腕を振り下ろそうとしているのを見た瞬間、ピークコッドは咄嗟に立ち上がろうとした。


「あ、あれ……?」


 だがピークコッドの体は思うように動けず、立ち上がろうとした体はグラりと体勢を崩して再び地面に倒れる。

 立ち眩みのような症状ではない。不快な頭痛と吐き気がする不快感は毒に侵されたような状態であった。


「な……なんで……?」

「クソ……! やはりこれは魔染の煙か! しかも濃度が高い!」

「あ、ああぁ……」


 気が付けばラティムは鋭い爪を広げてピークコッドに振り下ろす。

 間に合わない。誰もが思ったときに空から暴風と共に何かが降ってきた。


「グアアアッッ!!」

「……ッ!!」


 空から戻ってきたアイリスが地面に急降下、スレスレで滑空しラティムの後ろから突き飛ばす。

 同時に彼女の背中にいたベリルが手を伸ばしているのを見てピークコッドもそれに縋るように握るとラティムの脅威から離れることに成功した。


「無事か!? ピークコッド!」

「ベ、ベリルさん……! なんとか……」


 アイリスは加速した速度を急停止するように地面を足で抉りながら踏ん張って着地する。

 そのまま二人はラティムの方を見ると只ならぬ様子に冷や汗をかいた。


「これは、一体何が起きてるんだ?」

「わからない……。黒い煙をラティムは吸収したらこうなって……」

「黒い煙……? ……確かに気分のいいものじゃないね」

「奴がまた暴れる前に守備隊はこちらの魔術が発動するまで時間を稼げ!」

「了解!」


 暴走するラティムを守備隊が囲い、手に持った樹木の盾に魔力を流し込むとそこからいくつもの蔓が伸びて彼の体を絡めとる。

 だがそんな攻撃をもろともしないのか、ラティムは体に纏わりつく蔓を握ると強引に千切り始めていった。


「馬鹿な! ゴーレムが引っ張っても問題ない強度なのに! 何故!?」

「……蔓に宿した魔力を奪っているというのか。なんていう存在だ……!」

「マホ様! これ以上は持ちません!」

「クソッ! 私が時間を稼ぐ!! 皆は離れろ!!」


 マホはそれぞれの手から青色と茶色の二種類の魔法陣を発現させるとそれを合わせ鏡のように重ねると二つの魔法陣はパズルが合わさるようにピタリとはまった。

 二人係で行う複合魔術をマホ一人で行うと組み合わせた魔法陣を地面に向けた。


「【泥土巨象マッドゴーレム】!!」


 絡まった蔓を全て引きちぎったラティムの足元がぬかるみ、そこから泥上の触手が生えて再び彼の体を拘束する。

 動けなくなったラティムの前に泥から人の形として生まれた巨象が出現し、拳を作ると彼の顔を何度も殴りつけた。


「グウッッ!」

(ぐっ……! 泥土巨象マッドゴーレムの魔力すら根こそぎ食うつもりか……!? 維持するだけでも精一杯だぞ……! 命令通り、殺せるならここで殺すべきか……!?)

「魔術隊聞こえるか!? 準備はどうだ!?」

「合図があれば! いつでも!」

「ちょ、ちょっと待てよ! ラティムを殺す気か!?」


 近くに来たピークコッドが抗議の声を荒げるが、マホはそんな彼を睨みつける。


「悠長なことを言っている場合じゃない! 奴はもう敵だ! これ以上の被害は私が認めん!」

「だからって……」

「攻撃に加わらないなら貴様らも裏切者として扱う!」

「──ッ!!」

「わかったのならさっさと準備を……」

「……──グ、グオオオオッッ!!」


 突如、ラティムから凄まじい咆哮が鳴り響くと彼の体から黒い煙が噴出し、拘束していた泥の巨象が消し飛ばされる。

 その咆哮による威圧は距離をとっていたピークコッドたちの体を硬直するほどであり、こちらに生まれた僅かな隙を突くかのようにラティムは口から濁った煙を吐き出した。


「グオアアアアッ!!」


 濁った煙はブレスのように勢いよく地面に広がり、周囲にいたピークコッドたちを包み込んでいく。

 刺激臭が酷い魔染のブレスを吸い込んだものは先ほどピークコッドが陥った症状に罹り、次々と倒れていった。


 ────


 ラティムの周りにいた者は次々と倒れていく。

 遠くにいた兵たちはなんとか彼らを助けようとしたが魔染のブレスは広がり続け、その煙によって近づくことさえ困難な状態である。

 そんな様子を一人の少女が苦しみながら見ていた。


「み……みんな……」


 幸いにもリリーだけは遠くにいた為に魔染のブレスから難を逃れている。

 だが他の皆が何かをしようとしている中で少女であるリリーだけは何もできずにこの場で見ているしかできなかった。

 ラティムがどれだけ苦しんでいようと、ピークコッドがどれだけ頑張ろうとしても、マホさんたちが必死に彼を止めようとしても自分だけは何もできずにいた。

 強いて言えば、ラティムが苦しんでいるのこの感覚が解る程度であった。


「わたしも、何か……何かしなきゃ……」


 何か考えを巡らせながらこの苦しみを味わっている中である事が頭に過った。


(もし……ラティムがあの煙のせいでああなってしまったのなら、それを全部出せば元に戻る……?)


 その仮説を確かめるようにリリーはラティムの様子をよく見ると、彼の体から魔染の煙を吐いているようなのが見える。

 暴走の原因であるこの魔染の煙を全て吐き出してしまえば元に戻る可能性は十分に考えられたが、問題はどうやってそれを行うかであった。

 吐き続けているのを見れば時間を掛ければ解決しそうではあったが、それでは被害も増える一方であり、またラティムが魔染の中毒で力尽きる可能性もある。

 迅速な対応を求められる中でふとリリーは自分の手を見た。


(わたしの魔力をいっぱいラティムにあげれば、それが出来る?)


 ご飯をお腹の限界まで食べたときの、吐きたくなる気持ち悪さをリリーは思い出す。

 魔染あれも魔力というのであれば、たくさん注ぎ込めばその分だけ吐き出すとリリーは考えると震えていた体を奮い立たせて立ち上がり、ラティムに向かって駆け出した。


「リリー!? おいっ!!」

「戻れ! 危険だぞ!」

「……っ!」


 ピークコッドたちの声が聞こえるが彼女の足は止まらない。

 皆が倒れている中でその中心にいるラティムは先ほどのブレスの影響か動けない状態でいる。

 その様子はかなり体力を消耗しているのか呼吸も荒く、巨体を支えるのも苦労しているのを見て彼の限界が近いということが直感で理解した。

 もし再びラティムが立ち上がれば、暴れるであろう彼に自ら近づく手段はもうない。

 ラティムを救うチャンスはリリーにとって今しかなかったのだ。


「ラティム!」

「ゴヒュー……、ゴヒュー……」

「待っててね、今助けるから……!」


 苦しむ呼吸が聞こえる中、リリーは両手でラティムの胴体に触れるとそこから棘が突き刺さったような痛みと熱を感じ思わず手を引っ込めそうになった。


「うっ……! ううぅ……」


 だがリリーは決して手を彼から離さなかった。

 痛みはあるがそれは今の彼に比べたら些細なものである。

 リリーは意を決して彼の体に思い切り自身の魔力を流し込んでいった。


「……ッ!! グガァァァ!!!?」


 リリーの魔力が注がれると同時に、ラティムは苦しみの声を大きく挙げる。

 彼女の魔力が入り込む分だけ彼の体から溢れ出る魔染の量が増していく様子は遠くで見ていたピークコッドたちから見てもはっきりと分かった。

 自分の行いには効果がある。そう判断したリリーは魔力の供給を着々と行っていく。

 するとラティムの体は光り始め、その色は濁ったような色ではなく青色を帯びた魔力の色が浮かび上がっていった。


「やった……! ラティム、もうちょっとだよ!」

「……ッ!」

「……え?」


 もうすぐラティムの中にある魔染を全て吐き出すと思った瞬間、彼に触れていたリリーの手が突如として青く透けていく。

 驚くのもつかの間、青く透けていくこの現象は手だけに留まらず彼女の全身にそれが起き始めていく。

 やがてリリーの体は青い粒子となっていくと、ラティムの中へと吸収されるように取り込まれていったのだった。

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