第1章 魔女との約束は放課後に Season of the Witch

1.魔女との約束は放課後に(1)


     1.


「――おはよう、鳩原はとはらくん。今日は随分と眠そうだね」


 腰の辺りまである墨汁ぼくじゅうのような黒髪。長い睫毛まつげに大きな瞳。それに幼い顔つきをしている。肩からはバッグとスケッチブックをげている――声をかけてきたのはそんな女子生徒だった。


「ああ、おはようございます。霞ヶ丘かすみがおか先輩」


 霞ヶ丘ゆかり。

 それが後ろから走ってきて鳩原の隣に並んだ女子生徒の名前である。


「いやだわ、私はもう先輩じゃないんだから。敬語も敬称も不要よ、何なら親しく『ゆかりちゃん』と呼んでくれてもいいんだから」


「……冗談はよしてくださいよ、霞ヶ丘さん」


 これでもかと難しい表情を浮かべながら鳩原は言った。


 この人とは気が合うし、仲良くさせてもらっているけど、明らかに注意するべき人物だと思っている。拒めることは拒んで、距離感は保たなければいけない。


「その呼ばれ方は距離を感じるわねー」


「そりゃあ距離も取りますよ。あんな奇行を見せつけられたら」


 この人は、ついこのあいだまでエリート街道を歩んでいた。


 なのに、それをわざと脱線した。


 本当は三年生に進級しているはずなのに、鳩原と同じ二年生なのはそういうことだ。


 アラディア魔法学校には階級ヒエラルキーが明確にある。


 優等生エリート落第生ドロップアウト


 この格差は貴族階級の学校が一般入試を始めたことで生じたものだが、その以前にもこの差別に似たものはあった。『貴族階級だけどその界隈かいわいでは好ましく思われていない家柄』や、『貴族階級だけど生徒の成績がよくない』など、この学校は――学校にとって都合の悪い生徒を振り落とす傾向がある。


 鳩原などの魔法の文化が違う東洋人で、なおかつ一般入試の枠は特にそういう差別の対象になりやすい。


 鳩原はどうにかそのどちらにも属さない平均的な立場でいられているが、いつ踏み外してもおかしくない――危うい状況にある。現状を維持するために毎日復習と予習を眠る前と朝起きてから学校に行くまでやっている。


 霞ヶ丘ゆかりは一般入試の枠にも関わらず、その優秀さでエリート街道を歩んでいた――というのに、『この学校のやり方に不満がある』と、いきなりボイコットをやり始めた。


 彼女に対する学校からの評価は見る見るうちに下がり始めた。


 一年生と二年生という学年のへだたりがあったが、同じ郷土きょうどの仲ということで交流があった鳩原は必死に説得を試みた。しかし、そんな甲斐かいむなしく、進級試験には出ず、霞ヶ丘ゆかりはそのまま二年生をもう一度送ることになった。


 もちろん、留年する生徒なんてほとんどいないこの学校(留年する多くの生徒が自主退学をするから)では、落第ドロップアウトするには十分な条件だった。


 別にそういう区分があるというわけではないが、学校や同級生からの扱いが変わる。


 友達だと思っていた人物が話をしてくれなくなったり、課題の量が増えたり、受ける授業の数が増えたり、受けようと思っていた資格試験を受けられなくなったり――と。


 そこまでの仕打ちを受けてもなお学校に残っている生徒は『退学なんて家柄として認めてもらえない者』や、『ただただ卒業するためだけに残っている者』くらいである。


 鳩原にしてみれば、霞ヶ丘ゆかりの意図はわからない。


 その真意は計り知れないが、ある程度の距離を保った関係を続けないと、こちらまでどんなことになるかわからない。


「……おっと、鳩原くん。危ないよ」


 霞ヶ丘に肩を抱き寄せられた。


 鳩原がいたすぐそばを、ほうきに乗った女子生徒が通過して行った。


 移動手段としての箒はいささか古いが、まだまだこの学校ではメジャーである。とはいえ、昔のように空を飛ぶ魔法使いはほぼいない。それは『法定魔法飛行高度』という法律が存在するからである。


「……霞ヶ丘さんは免許を取らないんですか?」


 抱き寄せられた状態から離れるようにして、鳩原は元の立ち位置に戻った。


「どっちの? 自動車免許? それとも魔法運転免許?」


「どっちも取れますよね」


「自動車免許はこの学校にいるあいだには難しいわねー。ドロップアウトしちゃったし。時間は取れないから卒業して日本に戻ったら取ろうと思うわ」


「魔法運転免許のほうは?」


「取れるだけ取ってあるわよ」


 霞ヶ丘は胸の内ポケットから学生手帳を取り出した。


 そこに収められている免許証には『第一種魔法運転免許証』と書かれている。


「へえ、すごいですね」


「元エリートだったんでね」


 第一種があれば、十五メートルの高さまで飛べて、八十キロまで出して飛行できる。


「まあ、私の技術じゃそこまで飛べないから持て余すけどね。こんなのは身分証みたいなものよ」


 あははー、と、霞ヶ丘は苦笑するようにして生徒手帳を胸の内ポケットに戻した。


 魔法といっても、得意不得意がある。たとえば、鳩原が魔法を使えないのは、魔力の出力があまりにも弱いからである。


 一方で、霞ヶ丘は普通に魔法を使えるが、魔力のコストパフォーマンスが圧倒的に悪い。当人は上手いことやりくりしながら誤魔化しているが、苦労していることを鳩原も知っている。



 そんなふうに雑談をしながら歩いているうちに本館に到着した。


 本館に入ってすぐのところにある掲示板に目をやる。


 大きな黒板があって、そこには時間割の変更や学校行事などが書かれてある。チョークがひとりでに動いて文字を書き込んでいく様子などもたまに見かけることがある。その日のランチのメニューも書かれているので一応は目を通す。


 その中で目を引くものがあった。



『夜間に侵入者アリ。戸締り注意』



「…………」


「どうしたの? 何か気になることでも書いてあった?」


 覗き込むようにこちらの目をじっと見て、霞ヶ丘は言う。


「いえ、別に? どうしてですか?」


「んー、なんとなく。勘だよ」


「なんですかそれ」


「なんとなくそう思っただけよ。でも、そうだね。なんで私ったらそう思ったんだろうね」


 この人はこういうことをする。こういう素振りをする。


 まるで『自分は既に気づいていますよ』というような態度を取る。こちらが隠していることを探ろうとするときに霞ヶ丘がしてくる手口だ。これのたちの悪いところは、本当にわかっているときにも同じような態度を取るというところである。


「…………」


 どうしようかと迷ったが、何も言わないことにした。


 目を逸らして、周りにいる生徒をざらっと見る。知っている顔もいれば、知らない顔もいる。


「鳩原くん、ちょっと疲れてるでしょ」


 話題が変わったのだろうか。


 あるいは、探り方を変えたのだろうか。どちらにしても知っていることは言わないようにしようと決めたから言わないことにした。だから、


「そうですか?」


 と、とぼけてみた。


「うん。眠そうだし、勉強のし過ぎじゃないの?」


「ドロップアウトの課題と補習に比べたらなにってことはしてないですよ。僕のやってる勉強なんて、僕が勝手にやりたくてやってることですし」


「……鳩原くんの勤勉なところを私は評価しているよ。少しばかり気になるのはきみの自己評価の低さかな。いや、まあ、それはきみが悪いわけじゃないか」


 ちらり、と霞ヶ丘の目の色が一瞬だけ変わった。


 何か敵を探すような、そんな目つきだ。


「きみは常に学年一番の成績を保持しているような生徒なのにね。私は鳩原くんの今の待遇は気に入らないよ」


「僕の待遇が、ですか?」


『どうしてそんなことを霞ヶ丘さんが気にするんですか』――とは言わなかった。


 それに『常に学年一番』というのも正しくない。一年生の最初はそうじゃなかったから。


「魔法が使えないってだけで、ドロップアウトのギリギリの位置に置かれているのは納得できないね。真面目にやっている奴がてられそうになっているのは気に入らない」



「学校というものはせずしてそういうものだ」



 いつの間にか、自分たちの後ろに立っている人がいた。


 細身で背の高い好青年、気品高い立ち振る舞いで、胡散うさんくさい微笑を浮かべている。


 彼の名前はウッドロイ・フォーチュン。

 名誉と伝統あるアラディア魔法学校の――生徒会長である。





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