ダンウィッチと魔女の夜
かきはらともえ
ダンウィッチと魔女の夜 Dunwich the Witch's Night
Polaris
魔法の仕事はすべての科学に奪われる。
これは百年も前から言われ続けていることだが、
生まれ故郷から遠く離れた国にある魔法学校で、日々魔法について学んでいる彼は極めて真面目な生徒である。
毎日勉強をしながら、ふとした拍子に思うことある。
(本当にこれでいいのだろうか――)
鳩原の通うアラディア魔法学校の教員の多くは伝説的な魔法使いで、そんな先生たちは魔法の伝統を大切にするべきだと言うけれど、そんなのは人生の多くを費やしてきた者だから言えるのだと思う。
魔法から科学に移り変わりつつあるこの時代から、そう遠くないうちに離脱するからこそ、そんなことを言えるのだと思う。
鳩原がこれからの人生どれくらい生きるかわからないが、彼は未来のある少年である。
『魔法が科学に負けるなんて百年前から言われ続けているよ』と
百年間大丈夫だったからといって、明日が大丈夫だとは限らない。
魔法学校にいる以上はどうしても周りは魔法使いばかりなので、『魔法は日常的なもの』だと思ってしまうが、街に出てみれば、魔法なんてなくても平気に生活している人を見る。
空を見てみろ。
箒で空を飛んでいる者なんて、もうほとんどいない。多くの人が箒ではなく、自動車で移動しているじゃないか。
(まあ、そもそも僕には魔法なんてろくに使えないんだけどね……)
溜息を吐く。
ノートを書き進めていたシャーペンを手から離した。机の上を転がっていく。
アラディア魔法学校は全寮制の学校で、ひとりずつの個室になっているが、決して広いとは言えない。
ベッドと机と小さい棚だけでいっぱいになるような部屋だ。
学生寮の消灯時間は過ぎているので、電気スタンドで机を照らしている。
このボタンひとつで電気が点く電気スタンドでさえも、この日ばかりは彼の不安な気持ちをざわつかせていた。
名誉と伝統あるアラディア魔法学校は『時代遅れ』とさえ言われていた頃もあった。それこそ電気さえ通っておらず、ひと昔前では魔法で火を灯していたのだというが、今ではさすがに科学も普及し、文明の光が行き届いている。
火はやっぱり危険だから。
それが決定打だった。
手が届かないところまで転がっていったペンに手を伸ばす。
魔法が使えればここでペンを浮かせて自分の元にまで呼び戻すようなことができたのだろうけど……どれだけ勉強しても、どれだけ訓練しても、魔法は使えない。
使えるように、なれなかった。
魔法は技術的なもので誰でも使えるようになるのが特徴だが、才能があるかどうかは、やはり生まれ持ったものである。
何か軽い物体を浮かせたり、ちょっとした火を出したりするくらいの、小学校に入学して間もない頃に習う魔法でさえ、鳩原には難しい。
ましてや海外の人が話している言葉を聞き取るような翻訳魔法や、複雑な数列を計算するような演算魔法は使えない。
どちらも高等学校で習う基本的な魔法である。
そのどちらもできずに、日本で生まれ育った鳩原が、この地球の裏側の異国の地にあるこの学校で生活を送れているのは、彼の努力があったからである。
彼は自力で聞き取っている。
聞いて理解することはできても、喋ることはできない。
それでも、周りの魔法が使える方々は翻訳魔法が使えるので、鳩原が喋る日本語という言語は問題なく相手に伝わる。
どうにかこうにか努力を重ねてきているが、たまにこんなふうに何のために努力しているのかわからなくなることがある。
そういう現実と、そういう将来。
どれだけ感情が熱くなっていても、この時間になるとすぐに冷やされてしまう。ものすごく冷静になる。
この土地の一日の天気は非常に変わりやすい。
『さっきまで雨が降っていたのにいつの間にか晴れている』――みたいなことがよくある土地である。
九月に入ろうというこの時期になると夏場の暑さは感じられなくなる。夜になると気温は急激に下がる――特に今晩は冷え込んだ。
まだまだ衣替えなんてできていなくて、冬服のガウンを引っ張り出して上から羽織っている。
カーテンを少しだけ開けて、窓の外を見る。
月が出ていた。
ほんの数時間前まで分厚い雲が空を覆っていて、小雨が降っていたというのに、いつの間にか晴れていて、空高くには月が見える。
モノクロ写真のような石造りの古い校舎は月明かりに照らされている。夜空には星々が銀色に煌めいていた。
とてもきれいな星空だ。
頭の中が透明になるのを感じた。
机の上に置いてある時計を見ると、もうすぐ日付が変わるところだった。それを見て、なんとなく、もういいかなと手を止めた。
学生寮も決して広いとは言えない。
それは一般入試で入った生徒用の学生寮だからかもしれない。この学生寮も、学校の校風としては不自然なくらいに新しい。
名誉と伝統あるアラディア魔法学校には元々、鳩原のような一般入試の生徒用の枠は存在していなかったのだが、昨今の時代の変化に伴って、学校の在り方が見直されて、一般入試の枠ができてから、この学生寮が建設されるようになった。
学生寮は四階建てで、鳩原の部屋は二階にある。
屋根裏までやってきて、窓を開けた。
「…………」
さっきまで雨が降っていたので、風はとても冷たい。
窓から少しだけ身を乗り出す。
学校の全体が月明かりに照らされている。
本館を中心にいくつかの校舎が並んでいる。
本館に中央展望台があって、東と西にも展望台がある。その東の展望台の近くに、円状の大きな建造物がある。
それが図書館である。
少し離れてグランドの周りには植物園や飼育館、教員の寄宿舎などもある。
西側展望台の付近にある学生寮の位置からでは見えないが、本館の中央にある広い中庭は芝生に覆われている。
これらの学校全体の外側に見えるのは森である。
ずっと広がる森と平原。遠く見渡すことができる風景。
その奥にはっきりと見える、月と星空。
眺めていると透き通るような気持ちになってくる。
空を見上げると、まるで呑み込まれるような星空だった。
きっとこんな気持ちにでもならなければ、星空なんて――見上げなかった。
「――こんばんは」
そんな声が、すぐ近くから聞こえた。
窓から少し身を乗り出している鳩原のすぐ近く――斜めになっている屋根のところに、その声の人物はいた。
「あ、どうも、こんばんは……」
咄嗟に返答した。
月明かりに照らされているその姿は、それは不思議なものだった。
(まるで――)
被っている真っ黒な帽子は悪魔の角のように尖っていて、膝丈くらいまである真っ黒なローブ姿の少女だった。
(――魔女、みたいだ)
少女の姿から、そんな印象を抱いた。
よく見ると、自分よりも年下だということがわかる。小学生とまでは言わないにしても、中学生くらいの女の子だ。
羽織っている真っ黒なローブも、深く被っている帽子も、単純にサイズが合っていないという感じだ。不健康だと感じるくらいに痩せている。
髪の毛は適当に長さだけ切り揃えたという感じで、そんな前髪の奥にある眼がこちらをじっと見つめていた。
「ええっと……」
『さっきまで雨が降っていたから濡れてるから危ないよ』とか、『学校の生徒じゃないよね?』とか、いろいろと訊きたいことがあったけど、それが上手く言葉にできず、こんな質問を口にした。
「きみは、誰かな?」
「ダンウィッチ・ダンバース。それが私の大切な名前です」
少女はそう答えて、こう続けた。
「あなたの名前は何ですか?」
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